新選組は隊を抜けることを局中法度で禁止されている。
にも関わらず、新選組を二度抜けた人物がいる。
阿部十郎。
そんなわけで、勝手に新選組。
名前
阿部十郎(あべ じゅうろう)
別名
高野・高埜十郎
安倍慎蔵
阿部信二郎
生誕
1837年9月21日
死没
1907年1月6日
出身
出羽国由利郡羽広村(現在の秋田県)
流派
槍術・種田流
役職
伍長
砲術師範
性格
癇癪をすぐ起こす人だったようだ。
ニックネーム
阿部さんがコレである。

『桂歌丸さん』にしたいけど・・・

似てると思ったが、あんまり似てないな。
逸話
阿部さんは元々百姓の生まれだが、武士の高野さんの家に養子に出たみたいだ。
そうゆうわけで、高野十郎を名乗ったりしてるみたいだ。
そんな阿部さんは、最初にも言ったが二回も新選組を抜けている。
当然、局中法度では隊を抜けるのは禁止されている。
それを破って新選組を辞めて、許してもらって戻ってきたのに、また隊を抜けるなんて、面白い人だ。
おそらく、新選組の中で二回も隊を抜けたことがある人は、阿部さんだけだと思われる。
そんな阿部さんは、最初に新選組に加入したのは1863年の7月頃だと思われる。
その時の名簿に旧名の阿部慎蔵の名前が残っているらしいのだけれども、なぜか阿部さんは一回目の入隊を認めていないようだ。
そして池田屋事件の前に近藤勇と意見が合わなかったみたいで、他の隊士とかと新選組を辞めたようだ。
そして、大坂で師匠でもある谷万太郎の道場に隠れていたみたいだ。
そんなこんなしているうちに、新選組では伊東甲子太郎が加入。
そんな頃、お友達の新選組隊士浅野薫が「新選組に戻って来なよ。谷兄弟は板倉勝静の元家臣で、そのコネを使って板倉さんと知り合おうとしてて特別扱いされてるから、多分、谷の弟子のキミは殺されないよ」という内容の手紙を送ったようだ。
そうゆうわけで、阿部さんは新選組に戻ろうと思ったのだけど、「手ぶらじゃなんだしな」と思って手柄を挙げて、それを手みやげに戻ろうと考えるワケだ。
そんな時、大坂焼き討ちの計画が発覚。
谷万太郎とかと、大坂焼き討ちの計画を阻止。
いわゆる、ぜんざい屋事件と呼ばれるやつだ。
そうゆうわけで大坂焼き討ちを防いだ功績で、阿部信二郎と名前を変えて、新選組に復帰出来たみたいだ。
そして、砲術師範とかに任命されたりしたようだ。
なんだけれども、伊東甲子太郎が御陵衛士を結成すると、阿部さんも伊東甲子太郎について行って、せっかく新選組に戻ってきたのに、またやめてしまったようだ。
ちなみに御陵衛士が崩壊した、油小路事件の時は鉄砲領に出かけてたために不在だったらしい。
そして、阿部さんとか御陵衛士の生き残った人間たちで伊東甲子太郎の仇を撃つことにしたようだ。
まずは沖田総司を襲撃したのである。
沖田くんは病気のため近藤勇の妾の家で療養中だという話だったので、妾の家に押しかけのだが、沖田くんはちょうど伏見に移動してしまい、残念ながら沖田くん不在。
襲撃は失敗に終わったのだ。
仕方ないので、阿部さんたちは沖田総司襲撃は諦めて、お買い物をすることにしたらしい。
襲撃を諦めるのはわかるけども・・・なぜ買い物!?
人間を一人殺そうとしてたのに・・・
なんて切り替えが早いことだろうか?
それはそうと、お買い物をしていたら、近藤勇を目撃したみたいだ。
なんとも運命とはわからないものだ。
近藤勇は護衛の人たちと一緒に、伏見に行く途中だったようだ。
そうゆうわけで、阿部さんは慌てて、篠原泰之進、加納鷲雄、富山弥兵衛と一緒に鉄砲やら、槍やらを準備。
伏見街道、丹波橋筋付近で近藤勇を待ち伏せ。
阿部さん曰く「鉄砲隊は阿部、富山。槍隊は篠原、加納」だと言う。
鉄砲隊が発砲して近藤勇がびっくりしている所、槍隊が仕留めるという作戦だったようだ。
そして近藤勇が現れたので、富山さん発砲。
見事、近藤勇の右肩に命中。
しかし、あろうことか槍隊が出てこないのである。
仕方なく、阿部さんが刀を抜いて出撃したのだけれども、護衛の島田魁が近藤勇の馬のお尻を叩いて逃がしてしまったので、近藤勇暗殺も失敗してしまったワケである。
その後明治時代になってから、篠原さんがこの時のことを「近藤襲撃はオレのおかげ」と言ったようで、この話を聞いた阿部さんはご立腹。
「篠原と加納が槍で突いてりゃ成功したのに、あいつら戦いが始まる前に逃げ出しやがった!」とみたいなことを言って怒りを爆発。
この話をしたのが明治32年~33年頃の話らしく、阿部さんは篠原さんに相当怒ってたようで怒りは全然静まらない。
そしてこの話以降は阿部さんは篠原さんと音信不通になったという。
そんな篠原さんは阿部さんが怒っていることに気づきもしないで、鈴木三樹三郎に手紙で「阿部さんと連絡とれないよう。元気なのかな?昔の仲間のこと忘れちゃったのかな?悲しい」と嘆いていたようだ。
近藤勇暗殺失敗後の阿部さんは、赤報隊として鳥羽伏見の戦いを戦ったりしたみたいだ。
このときはまだ、篠原さんとは仲良しだったみたいで赤報隊の『偽官軍事件』で篠原とかが牢屋に入れられると、「赤報隊を率いて篠原さんを助けるんだ!」とか言ってたらしい。
結局、周りの人たちになだめられて諦めたようだ。
そして明治2年に弾正少巡査になったようで、明治5年に開拓史として北海道に行ったようだ。
そして明治19年に開拓史を退官。
開拓史退官後は阿部果樹園を経営してリンゴ栽培を頑張ったようで、コレが成功したらしく、さらに北海道果樹協会を設立したようだ。
品評会では「阿部一号」というのが一等を獲得してるみたいだ。
リンゴを栽培している間に元新選組明隊士安富才輔を暗殺したという話もある。
その後、1907年東京にて死去。
それにしても、篠原さんをそんなに怒らなくてもいいのに。と勝手に思うのである。
にも関わらず、新選組を二度抜けた人物がいる。
阿部十郎。
そんなわけで、勝手に新選組。
名前
阿部十郎(あべ じゅうろう)
別名
高野・高埜十郎
安倍慎蔵
阿部信二郎
生誕
1837年9月21日
死没
1907年1月6日
出身
出羽国由利郡羽広村(現在の秋田県)
流派
槍術・種田流
役職
伍長
砲術師範
性格
癇癪をすぐ起こす人だったようだ。
ニックネーム
阿部さんがコレである。

『桂歌丸さん』にしたいけど・・・

似てると思ったが、あんまり似てないな。
逸話
阿部さんは元々百姓の生まれだが、武士の高野さんの家に養子に出たみたいだ。
そうゆうわけで、高野十郎を名乗ったりしてるみたいだ。
そんな阿部さんは、最初にも言ったが二回も新選組を抜けている。
当然、局中法度では隊を抜けるのは禁止されている。
それを破って新選組を辞めて、許してもらって戻ってきたのに、また隊を抜けるなんて、面白い人だ。
おそらく、新選組の中で二回も隊を抜けたことがある人は、阿部さんだけだと思われる。
そんな阿部さんは、最初に新選組に加入したのは1863年の7月頃だと思われる。
その時の名簿に旧名の阿部慎蔵の名前が残っているらしいのだけれども、なぜか阿部さんは一回目の入隊を認めていないようだ。
そして池田屋事件の前に近藤勇と意見が合わなかったみたいで、他の隊士とかと新選組を辞めたようだ。
そして、大坂で師匠でもある谷万太郎の道場に隠れていたみたいだ。
そんなこんなしているうちに、新選組では伊東甲子太郎が加入。
そんな頃、お友達の新選組隊士浅野薫が「新選組に戻って来なよ。谷兄弟は板倉勝静の元家臣で、そのコネを使って板倉さんと知り合おうとしてて特別扱いされてるから、多分、谷の弟子のキミは殺されないよ」という内容の手紙を送ったようだ。
そうゆうわけで、阿部さんは新選組に戻ろうと思ったのだけど、「手ぶらじゃなんだしな」と思って手柄を挙げて、それを手みやげに戻ろうと考えるワケだ。
そんな時、大坂焼き討ちの計画が発覚。
谷万太郎とかと、大坂焼き討ちの計画を阻止。
いわゆる、ぜんざい屋事件と呼ばれるやつだ。
そうゆうわけで大坂焼き討ちを防いだ功績で、阿部信二郎と名前を変えて、新選組に復帰出来たみたいだ。
そして、砲術師範とかに任命されたりしたようだ。
なんだけれども、伊東甲子太郎が御陵衛士を結成すると、阿部さんも伊東甲子太郎について行って、せっかく新選組に戻ってきたのに、またやめてしまったようだ。
ちなみに御陵衛士が崩壊した、油小路事件の時は鉄砲領に出かけてたために不在だったらしい。
そして、阿部さんとか御陵衛士の生き残った人間たちで伊東甲子太郎の仇を撃つことにしたようだ。
まずは沖田総司を襲撃したのである。
沖田くんは病気のため近藤勇の妾の家で療養中だという話だったので、妾の家に押しかけのだが、沖田くんはちょうど伏見に移動してしまい、残念ながら沖田くん不在。
襲撃は失敗に終わったのだ。
仕方ないので、阿部さんたちは沖田総司襲撃は諦めて、お買い物をすることにしたらしい。
襲撃を諦めるのはわかるけども・・・なぜ買い物!?
人間を一人殺そうとしてたのに・・・
なんて切り替えが早いことだろうか?
それはそうと、お買い物をしていたら、近藤勇を目撃したみたいだ。
なんとも運命とはわからないものだ。
近藤勇は護衛の人たちと一緒に、伏見に行く途中だったようだ。
そうゆうわけで、阿部さんは慌てて、篠原泰之進、加納鷲雄、富山弥兵衛と一緒に鉄砲やら、槍やらを準備。
伏見街道、丹波橋筋付近で近藤勇を待ち伏せ。
阿部さん曰く「鉄砲隊は阿部、富山。槍隊は篠原、加納」だと言う。
鉄砲隊が発砲して近藤勇がびっくりしている所、槍隊が仕留めるという作戦だったようだ。
そして近藤勇が現れたので、富山さん発砲。
見事、近藤勇の右肩に命中。
しかし、あろうことか槍隊が出てこないのである。
仕方なく、阿部さんが刀を抜いて出撃したのだけれども、護衛の島田魁が近藤勇の馬のお尻を叩いて逃がしてしまったので、近藤勇暗殺も失敗してしまったワケである。
その後明治時代になってから、篠原さんがこの時のことを「近藤襲撃はオレのおかげ」と言ったようで、この話を聞いた阿部さんはご立腹。
「篠原と加納が槍で突いてりゃ成功したのに、あいつら戦いが始まる前に逃げ出しやがった!」とみたいなことを言って怒りを爆発。
この話をしたのが明治32年~33年頃の話らしく、阿部さんは篠原さんに相当怒ってたようで怒りは全然静まらない。
そしてこの話以降は阿部さんは篠原さんと音信不通になったという。
そんな篠原さんは阿部さんが怒っていることに気づきもしないで、鈴木三樹三郎に手紙で「阿部さんと連絡とれないよう。元気なのかな?昔の仲間のこと忘れちゃったのかな?悲しい」と嘆いていたようだ。
近藤勇暗殺失敗後の阿部さんは、赤報隊として鳥羽伏見の戦いを戦ったりしたみたいだ。
このときはまだ、篠原さんとは仲良しだったみたいで赤報隊の『偽官軍事件』で篠原とかが牢屋に入れられると、「赤報隊を率いて篠原さんを助けるんだ!」とか言ってたらしい。
結局、周りの人たちになだめられて諦めたようだ。
そして明治2年に弾正少巡査になったようで、明治5年に開拓史として北海道に行ったようだ。
そして明治19年に開拓史を退官。
開拓史退官後は阿部果樹園を経営してリンゴ栽培を頑張ったようで、コレが成功したらしく、さらに北海道果樹協会を設立したようだ。
品評会では「阿部一号」というのが一等を獲得してるみたいだ。
リンゴを栽培している間に元新選組明隊士安富才輔を暗殺したという話もある。
その後、1907年東京にて死去。
それにしても、篠原さんをそんなに怒らなくてもいいのに。と勝手に思うのである。
私は最近「地虫鳴く」で阿部さんを知りました。
阿部さんの新選組時代の葛藤だらけの人生に自分を重ねてしまい気持ちの一つ一つに共感しながら読んでます。
晩年はリンゴ栽培で幸せな人生を送れてたようで良かったです。
阿部さんの癇癪癖、篠原さんのとぼけた手紙の内容面白かったです。
ブログ読めて良かったです。
ありがとうございました。