とりあえず本日は残りの組長、八番隊組長・・・。
若さ故の過ちという言葉が似合いそうな男。
八番隊組長、藤堂平助
そんなわけで、勝手に新選組。
名前
藤堂平助(とうどう へいすけ)
生誕
1844年
死没
1867年11月18日
出身
武蔵国江戸
流派
北辰一刀流
天然理心流
役職
八番隊組長
性格
無邪気な江戸っ子、明るくさっぱりした性格だったらしい。
あと、お酒はあんまり飲まなかったようだが、飲んだら人格が変わったそうだ・・・。
ニックネーム
画像なし。
もはや何も思いつかない・・・。
お酒を飲むと人格が変わる・・・。
人格が変わるわけじゃないが『酔拳』にしてあげよう。
逸話
藤堂は源さんとは反対に文武両道といわれている。
もともと、藤堂平助は北辰一刀流の千葉道場の住み込み弟子として目録まで進んだそうだ。
いきなり関係ない話だが、史実では坂本龍馬と藤堂は知り合いじゃないけど、千葉道場つながりで何かしら知り合いだったら面白いと思う。
そんなこんなで、伊東道場にも出入りしていたらしく、伊東甲子太郎の弟子だったとも言われている。
話は変わるが、天然理心流は実戦向きの剣術であり、竹刀の試合は弱くてお話にならなかったようだ。
そんなわけで、なぜか藤堂が助っ人として試合をしていたようだ。(詳しい、いきさつはわかっていない)
そんでもって、気がついたら藤堂も試衛館道場に住み着いてしまったようだ。
そうこうして、藤堂も近藤たちと新選組になり、八番隊組長を任せられる。
藤堂の一番の活躍は池田屋である。
池田屋では藤堂は「てやんでい!べらぼうめ!」とは言わなかったが、真っ先に敵に向かっていった事から『魁先生』と呼ばれたようだ。
そうゆうわけで、近藤、土方の次に池田屋事件の多い報賞金を幕府から貰っているようだ。(なぜかなかなか受け取らなかったようだ)
と、池田屋で活躍したように思われるが、実は「この部屋すげえ、暑い・・・」といって戦闘中に鉢金を外してしまったのだ。
鉢金を外した瞬間、敵に額を斬られてしまったらしい。
当たり前だ!その余裕はどこから来たんだ!
そうゆうわけで、藤堂は大量出血のため戦線離脱。
余裕を見せて鉢金を外して、案の定敵に斬られて、それで報賞金貰えんのかよ!しかも3番目に多いってどうゆうことだ!
後日、額の傷が脳にまで達してることが発覚し、もう生きられないと思われたそうだ。
それなのに、数日後元気になったのだ。
一ヶ月後に起こった禁門の変も元気に参加している。
医学の力・・・
進歩し過ぎだろ!
それはそうと、元気になった藤堂は伊東甲子太郎を近藤に紹介し、伊東が新選組に入隊する。
そうして、伊東から御陵衛士に誘われる。
師匠から誘われるなんて、うれしかった事だろう。
しかし、近藤を裏切る事も出来ない藤堂。
近藤と伊東の間で板挟みになり、相当苦悩したそうだ。
結局、御陵衛士が結成されると、藤堂もこれに参加する。
そして油小路で藤堂は昔の仲間と戦う事になったようだ。
このとき近藤は「平助だけはなんとか、助けられないかなあ」とつぶやいていたらしい。
油小路での戦いに参加していた永倉はこれを聞いていたし、永倉も藤堂を殺したくなかったもんだからわざと、藤堂の逃げ道を開けたらしい。
しかし藤堂は、魁先生と呼ばれたプライドもあり、御陵衛士の仲間達を見捨てる事が出来なくて、逃げ出さなかったようだ。
ちなみに鈴木三樹三郎は一目散に逃げ出した。
そうこうしていると、何も事情を知らない三浦常三郎に後ろから斬りつけられ、命を落としてしまったのである。
三浦、空気読め!何やってんだ!
ずっと新選組でいれば、仲のいい永倉も原田もいたのに、なんで御陵衛士なんかに行ってしまったのだろうか。
若さ故の過ちであると、勝手に思うのである。
若さ故の過ちという言葉が似合いそうな男。
八番隊組長、藤堂平助
そんなわけで、勝手に新選組。
名前
藤堂平助(とうどう へいすけ)
生誕
1844年
死没
1867年11月18日
出身
武蔵国江戸
流派
北辰一刀流
天然理心流
役職
八番隊組長
性格
無邪気な江戸っ子、明るくさっぱりした性格だったらしい。
あと、お酒はあんまり飲まなかったようだが、飲んだら人格が変わったそうだ・・・。
ニックネーム
画像なし。
もはや何も思いつかない・・・。
お酒を飲むと人格が変わる・・・。
人格が変わるわけじゃないが『酔拳』にしてあげよう。
逸話
藤堂は源さんとは反対に文武両道といわれている。
もともと、藤堂平助は北辰一刀流の千葉道場の住み込み弟子として目録まで進んだそうだ。
いきなり関係ない話だが、史実では坂本龍馬と藤堂は知り合いじゃないけど、千葉道場つながりで何かしら知り合いだったら面白いと思う。
そんなこんなで、伊東道場にも出入りしていたらしく、伊東甲子太郎の弟子だったとも言われている。
話は変わるが、天然理心流は実戦向きの剣術であり、竹刀の試合は弱くてお話にならなかったようだ。
そんなわけで、なぜか藤堂が助っ人として試合をしていたようだ。(詳しい、いきさつはわかっていない)
そんでもって、気がついたら藤堂も試衛館道場に住み着いてしまったようだ。
そうこうして、藤堂も近藤たちと新選組になり、八番隊組長を任せられる。
藤堂の一番の活躍は池田屋である。
池田屋では藤堂は「てやんでい!べらぼうめ!」とは言わなかったが、真っ先に敵に向かっていった事から『魁先生』と呼ばれたようだ。
そうゆうわけで、近藤、土方の次に池田屋事件の多い報賞金を幕府から貰っているようだ。(なぜかなかなか受け取らなかったようだ)
と、池田屋で活躍したように思われるが、実は「この部屋すげえ、暑い・・・」といって戦闘中に鉢金を外してしまったのだ。
鉢金を外した瞬間、敵に額を斬られてしまったらしい。
当たり前だ!その余裕はどこから来たんだ!
そうゆうわけで、藤堂は大量出血のため戦線離脱。
余裕を見せて鉢金を外して、案の定敵に斬られて、それで報賞金貰えんのかよ!しかも3番目に多いってどうゆうことだ!
後日、額の傷が脳にまで達してることが発覚し、もう生きられないと思われたそうだ。
それなのに、数日後元気になったのだ。
一ヶ月後に起こった禁門の変も元気に参加している。
医学の力・・・
進歩し過ぎだろ!
それはそうと、元気になった藤堂は伊東甲子太郎を近藤に紹介し、伊東が新選組に入隊する。
そうして、伊東から御陵衛士に誘われる。
師匠から誘われるなんて、うれしかった事だろう。
しかし、近藤を裏切る事も出来ない藤堂。
近藤と伊東の間で板挟みになり、相当苦悩したそうだ。
結局、御陵衛士が結成されると、藤堂もこれに参加する。
そして油小路で藤堂は昔の仲間と戦う事になったようだ。
このとき近藤は「平助だけはなんとか、助けられないかなあ」とつぶやいていたらしい。
油小路での戦いに参加していた永倉はこれを聞いていたし、永倉も藤堂を殺したくなかったもんだからわざと、藤堂の逃げ道を開けたらしい。
しかし藤堂は、魁先生と呼ばれたプライドもあり、御陵衛士の仲間達を見捨てる事が出来なくて、逃げ出さなかったようだ。
ちなみに鈴木三樹三郎は一目散に逃げ出した。
そうこうしていると、何も事情を知らない三浦常三郎に後ろから斬りつけられ、命を落としてしまったのである。
三浦、空気読め!何やってんだ!
ずっと新選組でいれば、仲のいい永倉も原田もいたのに、なんで御陵衛士なんかに行ってしまったのだろうか。
若さ故の過ちであると、勝手に思うのである。