明日はおそらく七転八倒!

勝手に新選組。
自分は新選組が好きなので、勝手に新選組を始めます。
あくまで、勝手にってのがミソです。

池田屋事件

2015-01-23 22:30:54 | 勝手に新選組
本日は、昨日チョロっと話が出たので、せっかくなんでとある事件を語ろうと思う。

勝手に新選組という事なので、新選組側に偏った書き方になってしまうかもしれないが・・・。

日本中に新選組の名を轟かせた。

新選組、幕末に興味が無い人も聞いた事があるだろう。

池田屋事件。

そんなわけで勝手に新選組。

名前
池田屋事件(いけだやじけん)

別名
池田屋事変
池田屋騒動
洛陽動乱

勃発
1864年7月8日(元治元年6月5日)

場所
京都三条河原町

概要
池田屋事件とは池田屋に集まった尊王攘夷派の志士たちを新選組が襲撃した事件だそうだ。

池田屋事件では肥後藩の宮部鼎蔵や長州藩の吉田稔麿などの逸材といわれた攘夷派の志士達が戦死してしまったようで、そのせいで、明治維新が一年遅れたと言われている。(逆に攘夷派を刺激して維新を早めたともいわれている)

人斬り集団、新選組が起こした、残虐極まりない事件である。

ただ勘違いしないでほしいのは、当時、新選組の役割は現在でいう警察である。

当時の京都は毎晩のように尊王攘夷派の人間たちが「天誅!」なんて言ったりしながら、人を斬りまくっていそうだ。

そんな攘夷派の人間から京都の治安を守るのが新選組の役割だったようだ。

そんなわけで、新選組は普段から京都の町を巡回していたようだ。

そんなある日、いつものように巡回していると怪しい男を発見したようだ。

その男は桝屋喜右衛門と名乗り、桝屋という炭問屋の主だと言う。

しかし、調べてみれば、桝屋喜右衛門ではなく、古高俊太郎という男だったようで、桝屋の地下室からは大量の火薬が見つかったみたいだ。

「おやおや?これは一体何かね?」と驚いた土方歳三が古高を拷問するわけである。

すると、恐ろしい事が発覚する。

八月十八日の政変以降、長州藩の人たちは「京都に居たらダメ!」と言われていた。

そして、幕府と朝廷が仲良く公武合体を進めていた。

そんな状況を焦った長州藩の人たちが、ダメって言われているのに京都に潜入していたようだ。

しかも、そんな状況を打開するために

『京都焼き討ち』

を計画していたのだ。

古高は「風が強い日に京都に火をつけんだよ!そんでもって町が混乱している隙に中川宮を幽閉して、一橋慶喜と松平容保を暗殺して、孝明天皇を長州に連れ去るんだよ!」という。

土方は焦った事だろう。

京都焼き討ちなんかしたら、全然関係ない一般の人たちも巻き込まれるわけであり、どれだけ人が死ぬかなんて想像もできない。

そんなわけで「この計画を止めなければ!」と捜査を開始する。

捜査の結果、池田屋か四国屋のどちらかで京都焼き討ちのための会合が開かれるということが発覚。

というわけで、隊を二つに分けて池田屋と四国屋のそれぞれに向かう事にしたそうだ。

近藤隊は池田屋へ、土方隊は四国屋へ向かったようだ。

近藤隊は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助など10人。

土方隊(松原隊とも言われている)は土方歳三、井上源三郎、斎藤一、原田左之助など24名。(諸説あり)

池田屋に着いた、近藤は

「御用改めである!」

と言ったそうで、新選組の姿を見た池田屋の主は焦ったもんだから、2階に向かって「皆様!旅客改めですよー」と言ってしまったのだ。

そんなわけで近藤勇は2階に敵が居る事に気づき、近藤は階段を駆け上がり、それに沖田がついて行ったそうだ。

最初に池田屋に乗り込んだのは諸説あるが、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、というのは間違いないようだ。

そうして、戦闘が始まるわけである。

戦闘が始まると、なんともまあ、タイミングが悪く沖田は肺炎のため吐血し、倒れてしまったようで、藤堂に至っては額を斬られ血が噴き出し、その血が目に入って何も見えない為に戦線を離脱する。

そうなると、池田屋の中にいる新選組は近藤と永倉だけである。

その永倉も手を斬られ、左手の親指の付け根の肉は削がれて、刀も折れてしまったみたいだ。

そんな中、近藤だけは無傷だったようだ。

近藤も何度も敵に囲まれて絶体絶命のピンチに陥ったようだが、持ち前の気合いと根性と威圧感に敵は手も足も出なかったそうだ。

ちなみに近藤の愛刀虎徹も刃こぼれでぼろぼろになっていたそうだ。

ただ、本物の虎徹はそんなぐらいじゃ、刃こぼれしないらしい。

それはそうと、そんな絶体絶命のピンチに土方隊が駆けつけたようだ。

原田とか井上は、今までの遅れを取り戻そうと必死に頑張ったようだ。

原田に至っては頑張りすぎて当時の風聞書にあろうことか

「原田左之助は勇敢に戦いましたが残念な事に戦死しちゃいました」

と書かれてしまったようだ。

原田はきっとこう言った事だろう。

「オレ、生きてるよ!」

そうして、会津の援軍もやってきて、戦況は新選組の方に傾き、このまま新選組の勝利で幕を閉じる。

この件で新選組は会津からは500両、幕府からは600両の報賞金を貰ったようだ。

この事件は、あくまで『京都焼き討ち』を防ぐためのものだったという事。(もちろん、だからといって人を殺していいわけではない)

そして、新選組が人をたくさん斬っている印象があるが、これは相手は当然抵抗するわけで、捕縛するには人数が少しばかり足りなかったので、苦肉の策だったという事。

現に古高俊太郎は生きたまま会津に受け渡しているし、池田屋でも土方隊が到着後は人手にゆとりができたために、斬ることよりも捕縛第一優先に作戦が変わっているのである。

どんな理由であれ、人を殺すのは絶対にいけない事ではある。

ただ、新選組に偏った考えではあるけど、あくまで京都焼き討ちを防ぐためであり、新選組は人斬り集団なんかではない。

あくまで、京都守護職会津藩お預かり新選組としての役割を全うしたのだ。

新選組が京都を焼け野原になるのから防いだのだと勝手に思うのである。