明日はおそらく七転八倒!

勝手に新選組。
自分は新選組が好きなので、勝手に新選組を始めます。
あくまで、勝手にってのがミソです。

鳥羽伏見の戦い

2015-01-31 19:54:53 | 勝手に明治維新
土方歳三は箱館(函館)で流れ弾にあたり死んだそうだ。

その戦争の引き金となった戦い。

戊辰戦争、鳥羽伏見の戦い。

そんなわけで、勝手に明治維新。

名前
鳥羽伏見の戦い(とばふしみのたたかい)

勃発
1868年1月27日

場所
京都下鳥羽、竹田、伏見

概要
1867年に徳川慶喜が大政奉還をしたそうだ。

幕府が持っていた政治を行う権利を朝廷に返すということだ。

大政奉還をすれば、政治の中心は朝廷になり、薩長が徳川と戦う大義名分がなくなる。

そんなわけで、戦争が起きるのを回避するための決断だったようだ。

徳川側は「どうせ、朝廷に政治は無理。結局、徳川を中心とするんだろ」と考えていたようだ。

案の定、朝廷は徳川に政治をお願いする。

徳川は「想定の範囲内」とニンマリしていたに違いない。

そうなれば、幕府を倒すために頑張ってた薩長は納得いかない。

そんなわけで、大久保利道や公家の岩倉具視が王政復古の大号令を言って、徳川に「所領400万石とか領民とか天皇に返してよ!」言ったようだ。

徳川は「想定外の出来事が起こった」と困惑しながらも「ボクは返しても別にいいんだけどさ。そんなことしたら、ほかの幕臣たちはきっと怒るだろうしな・・・。でもさ、僕たちが新政府の運用資金を負担する代わりに、政治に参加して、天皇を中心に大名たちが集まればみんないい感じ」と言ったようだ。

意外とこの意見が好評だったようで、逆に大久保さんと岩倉さんの方が「あいつら、そんなに戦争したいのか・・・」と思われたようだ。

そんなわけで、「このままじゃ結局徳川の時代だよ!」と焦った薩長は戦争を始めたいが、大政奉還したせいで戦争を起こす大義名分が無いわけである。

ということで赤報隊の隊長相楽総三とかを利用して、旧幕府から戦争を始めるように江戸で暴動を行ったようだ。

旧幕府も誘いにのらないように我慢していたのだがついに「なんてことするんだよー」と江戸の薩摩藩邸を燃やしてしまったのだ。

すると新政府軍は「やられたら、やり返す!倍返しだ!!」と最初にやったのはどっちだよと思うのだが、結局戦争が始まってしまう。

戊辰戦争会戦である。

戦争は旧幕府軍が優位に進めていたようだ。

新政府軍はにっちもさっちもいかなくなってしまったのである。

そこで、とある作戦を思いついたようだ。

なんと『錦の御旗』を掲げたのである。

朝廷は新政府だったとはいえ、この戦いは徳川と薩長の戦いだ。

新政府軍が勝手に『錦の御旗』を掲げる事なんて出来ないわけで、この『錦の御旗』は偽物であり、ただの布切れである。

ただ、このただの布切れである『錦の御旗』を見た旧幕府軍は「俺たちも、流石に天皇には攻撃できないよう」とか言っちゃって戦意喪失。(天皇に攻撃するという事は賊軍になるということ)

まんまと騙されたわけだ。

大将徳川慶喜に至っては、部下が必死に戦ってるにもかかわらず「天皇が出てくるなんて聞いてないよ。ダメだ。もう、勝てねー」と言って大阪城から逃げ出す始末。

それでも、戦況は旧幕府軍が優勢のはずだった。。

しかし、大将が敵を目の前にして怖じけついて逃げてしまったのである。

新選組や会津藩は孤軍奮闘したらしいが、「なんだよ!大将が逃げ出すってどうゆうこと!?もう、やってらんねー」とみんな戦いをやめちゃったようだ。

ちなみに、新選組局長、近藤勇は鳥羽伏見の戦いの前に篠原泰之進たちに肩を鉄砲で撃たれて戦っていない。

そんなわけで、戦況は一気にひっくり返り、旧幕府軍は結局鳥羽伏見の戦いに敗れたのである。

薩長の人を悪く言うつもりは無いが、赤報隊の件(これはまた詳しく・・・)といい、錦の御旗の件といい、やり方が汚いような、汚くないような・・・。

徳川は徳川で横柄な態度があったかもしれないが・・・。

そもそも、「攘夷!攘夷!」言ってたはずの新政府軍。

戊辰戦争では外国人を追い出すどころか、外国の力借りまくりである。(海外から武器を輸入していたそうだ)

言ってる事と、やってる事がめちゃくちゃだ。

こんな、自分勝手なやり方、まるでどこぞの首相さんのようである。

そういえば、どこぞの首相さんも長州出身だったなあと、勝手に思うのである。

なんか、最後悪口みたいになってしまって悪い事したなあと勝手に思うのである。

※ これはあくまで、旧幕府軍側からみた鳥羽伏見の戦いであり、これが真実というわけではない。

油小路事件

2015-01-30 19:33:27 | 勝手に新選組
ちょっとした、まめ知識。

よく、歴史では○○の乱とか、○○の変と言う出来事がある。

代表的なのは本能寺の変である。

この「乱」や「変」にはちゃんと意味があるようで、クーデターに失敗して鎮圧されたのが「乱」。

クーデターに成功して、時代や世の中が変われば「変」というらしい。(厳密にいうと違うが大雑把にいうとそうゆうことらしい)

本日は新選組最大の仲間割れを起こした変。

新選組内でクーデターが起きても、世の中にはほとんど何の影響も与えないだろうし、結局クーデター失敗だから「変」でもないのだけれども・・・

油小路の変

そんなわけで、勝手に新選組

名前
油小路事件(あぶらのこうじじけん)
「乱」と「変」の解釈だと、油小路の変というのは少しおかしくなるので、油小路事件という事にしておく。

別名
油小路の変

勃発
1867年11月18日

場所
油小路

概要
簡単にいうと、新選組と元新選組の御陵衛士の仲間割れ。

伊東甲子太郎は新選組を尊王攘夷の組織にしたかったけど、上手くいかなかったもんだから、御陵衛士を結成したようだ。

名目上は御陵の守護と薩摩と長州の動向探索。

しかし、本当のところはそんなもん真っ赤な嘘で、尊王攘夷の為に働くための組織だったようだ。

だけど、御陵衛士は元新選組の人間で組織されているもんで、薩摩も長州も相手にしてくれなかったそうだ。

んだもんで、伊東は「近藤勇を殺せば、薩摩も長州も俺たちの事を認めてくれる!」と思いついたもんで、近藤勇暗殺を計画したそうだ。

計画したはいいが、御陵衛士には新選組からのスパイ、斎藤一がいたのである。

ちなみに、斎藤は油小路の直前に御陵衛士の活動資金を盗んで逃げ出しているが、伊東は「なんだ斎藤のヤツ。お金に困ってるなら相談してくれればよかったのに・・・」と斎藤の事をスパイだと想像もしていなかったようだ。

そんなこんなで、斎藤はこの計画を土方歳三たちに報告。

「これはこまったもんだ」と途方に暮れた土方はとりあえず「お金の事と、国事のことで相談がありまーす」と言って伊東を呼び出して、お酒を一緒に飲んだそうだ。

そうしてお酒を飲んだ伊東は「宴もたけなわですが・・・」と帰るわけである。

その帰り道に、新選組の大石鍬次郎たちが待ち構えていたようで、伊東は斬られてしまったようだ。

そこで有名な一言「奸賊ばら!」と叫んで、伊東は死んでしまったそうだ。

その伊東を油小路七条に放置。

御陵衛士がその遺体を引き取りに来るに違いないと、新選組は考えたようで待ち伏せしていたようだ。

案の定、御陵衛士が来たから御陵衛士を静粛したそうだ。

藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の三人が亡くなったそうだ。

前にも書いたが、鈴木三樹三郎は一目散に逃げ出し、加納鷲雄にいたっては病気のため歩くのが遅くなり、現場にいなかったようだ。

いつも思うが、歩くのが遅くなるほどの病気って・・・。

休めよ・・・。

とにかく、この一連の事件を油小路と言う。

結局、なにも生まない、馬鹿げた殺し合いであると勝手に思うのである。

藤堂平助

2015-01-29 19:27:06 | 勝手に新選組
とりあえず本日は残りの組長、八番隊組長・・・。

若さ故の過ちという言葉が似合いそうな男。

八番隊組長、藤堂平助

そんなわけで、勝手に新選組。

名前
藤堂平助(とうどう へいすけ)

生誕
1844年

死没
1867年11月18日

出身
武蔵国江戸

流派
北辰一刀流
天然理心流

役職
八番隊組長

性格
無邪気な江戸っ子、明るくさっぱりした性格だったらしい。
あと、お酒はあんまり飲まなかったようだが、飲んだら人格が変わったそうだ・・・。

ニックネーム
画像なし。

もはや何も思いつかない・・・。

お酒を飲むと人格が変わる・・・。

人格が変わるわけじゃないが『酔拳』にしてあげよう。

逸話
藤堂は源さんとは反対に文武両道といわれている。

もともと、藤堂平助は北辰一刀流の千葉道場の住み込み弟子として目録まで進んだそうだ。

いきなり関係ない話だが、史実では坂本龍馬と藤堂は知り合いじゃないけど、千葉道場つながりで何かしら知り合いだったら面白いと思う。

そんなこんなで、伊東道場にも出入りしていたらしく、伊東甲子太郎の弟子だったとも言われている。

話は変わるが、天然理心流は実戦向きの剣術であり、竹刀の試合は弱くてお話にならなかったようだ。

そんなわけで、なぜか藤堂が助っ人として試合をしていたようだ。(詳しい、いきさつはわかっていない)

そんでもって、気がついたら藤堂も試衛館道場に住み着いてしまったようだ。

そうこうして、藤堂も近藤たちと新選組になり、八番隊組長を任せられる。

藤堂の一番の活躍は池田屋である。

池田屋では藤堂は「てやんでい!べらぼうめ!」とは言わなかったが、真っ先に敵に向かっていった事から『魁先生』と呼ばれたようだ。

そうゆうわけで、近藤、土方の次に池田屋事件の多い報賞金を幕府から貰っているようだ。(なぜかなかなか受け取らなかったようだ)

と、池田屋で活躍したように思われるが、実は「この部屋すげえ、暑い・・・」といって戦闘中に鉢金を外してしまったのだ。

鉢金を外した瞬間、敵に額を斬られてしまったらしい。

当たり前だ!その余裕はどこから来たんだ!

そうゆうわけで、藤堂は大量出血のため戦線離脱。

余裕を見せて鉢金を外して、案の定敵に斬られて、それで報賞金貰えんのかよ!しかも3番目に多いってどうゆうことだ!

後日、額の傷が脳にまで達してることが発覚し、もう生きられないと思われたそうだ。

それなのに、数日後元気になったのだ。

一ヶ月後に起こった禁門の変も元気に参加している。

医学の力・・・

進歩し過ぎだろ!

それはそうと、元気になった藤堂は伊東甲子太郎を近藤に紹介し、伊東が新選組に入隊する。

そうして、伊東から御陵衛士に誘われる。

師匠から誘われるなんて、うれしかった事だろう。

しかし、近藤を裏切る事も出来ない藤堂。

近藤と伊東の間で板挟みになり、相当苦悩したそうだ。

結局、御陵衛士が結成されると、藤堂もこれに参加する。

そして油小路で藤堂は昔の仲間と戦う事になったようだ。

このとき近藤は「平助だけはなんとか、助けられないかなあ」とつぶやいていたらしい。

油小路での戦いに参加していた永倉はこれを聞いていたし、永倉も藤堂を殺したくなかったもんだからわざと、藤堂の逃げ道を開けたらしい。

しかし藤堂は、魁先生と呼ばれたプライドもあり、御陵衛士の仲間達を見捨てる事が出来なくて、逃げ出さなかったようだ。

ちなみに鈴木三樹三郎は一目散に逃げ出した。

そうこうしていると、何も事情を知らない三浦常三郎に後ろから斬りつけられ、命を落としてしまったのである。

三浦、空気読め!何やってんだ!

ずっと新選組でいれば、仲のいい永倉も原田もいたのに、なんで御陵衛士なんかに行ってしまったのだろうか。

若さ故の過ちであると、勝手に思うのである。

井上源三郎

2015-01-28 19:07:05 | 勝手に新選組
残りの組長は六番隊と八番隊。

今日は努力の人。

スラムダンクでいうなら、メガネくんこと、小暮公延。

六番隊組長、井上源三郎。

そんなわけで、勝手に新選組。

名前
井上源三郎

生誕
1829年4月4日

死没
1868年1月29日

出身
武蔵国多摩

流派
天然理心流

役職
六番隊組長

性格
無口で真面目で非常に頑固だったようだ。
だけど、人がよかったらしい。

ニックネーム
この人のニックネームも考えなければいけない。

ただ、新選組のファンとしてはこの人のニックネームは『源さん』以外、しっくり来るものが無い。

それぐらい、『源さん』というニックネームでこの人は慕われているのであった。

逸話
小説やドラマ等では老人として描かれるが多いが、そこまで年寄りではない。

ただ、色黒でシワが多い顔だったもんだから、年寄りと描かれる事も多いようだ。

この人は、本当に真面目な人だったようだ。

しかし、勉強も、剣術もからっきしだったようだ。

近藤なんかよりも、天然理心流に入門したのは遥かに早い。

近藤達からすれば、源さんは大先輩だ。

しかし、次々に源さんを追い抜いていったようだ。

それでも源さんは、天然理心流の免許皆伝を持っている。

これは努力の賜物だったようで、入門から12年かかっている。

土間に立っていた柱は、源さんが毎日木刀で打ち込むもんだから、細くなってしまったらしい。

と、ここまで書いたはいいが源さんのエピソードはこんなようなエピソードしか無かった。

新選組、六番隊も予備隊的な部分があり強い人たちは六番隊に属さなかったみたいだし・・・。

でも、そんな源さんもそんな人柄だから、近藤、土方には凄く信頼されたようで「近藤と土方と井上と沖田は親族同然」と言われるほどだったようだ。

その後起きた、長州征伐の時は、三番隊頭になり、序列で言うと、沖田と永倉の次だったらしい。

だいたい、新選組にいるこうゆう人はだいたい、欲望に目がくらんで死ぬ人が多いが源さんは、「頑固一徹」と言われながらも、自分の生き方を曲げなかったようだ。

目立った活躍は無いものの、真面目に隊務をこなしたようだ。

そんな源さんは、鳥羽伏見の戦いの時撤退命令が出たのに戦い続けて、で銃弾を受けて死んでしまったそうだ。

撤退命令が出たんだから撤退しとけばよかったのだが、この撤退理由(今度書くとしよう)がちょっとヒドいもんだから源さんは納得いかなかったのだろう。

全く話は変わるが、源さんの朝食はご飯にみそ汁に納豆が似合うと勝手に思うのである。

松原忠治

2015-01-27 18:55:01 | 勝手に新選組
残っている新選組組長が残り3人という事なので、本日から3日間はこの3人をやってしまおうと思う。

残っているのは、四番隊、六番隊、八番隊。

今日は、四番隊。

四番隊組長、松原忠治。

そんなわけで、勝手に新選組。

名前
松原忠治(まつばら ちゅうじ、もしくはただじ)

生誕
1835年

死没
1865年10月20日

出身
播磨小野藩(現在の兵庫県)

流派
関口流柔術

役職
四番隊組長

性格
親切な人で、新選組で親切なのは山南敬介と松原忠治と言われていたようだ。

ニックネーム
今回も肖像画等は無い。

とりあえず、身軽なデブだったという話がある。

身軽なデブ・・・自分の中で身軽なデブと言えばサッカーのロナウドだ。

ちなみに、クリスティアーノの方ではない。



大五郎のほうのロナウドだ。



というわけで『大五郎』に決定。

逸話
この人は親切なだけではなく、熱いハートの持ち主でもあったようだ。

八月十八日の政変で新選組が出陣する時の事である。

山南敬介の分だけ鎧が無かったようだ。

山南はそれに対し「なんで、僕だけ鎧無いんだよー!なにこれ?いじめ?」と駄々をこねたようだ。

どうせ、お花畑を守るのだけなのに。

そんな山南に松原は自分のお腹をタプタプ叩きながら

「山南さん、大丈夫ですよ!そんなもん無くても、私のこのお腹で鉄砲でも、なんでも防いじゃいますよ!」

と言ったようで、山南は「そっか。それならいいや」と納得したようだ。

守れるか!そんなんで納得すんな!

だいたい、そんな緩くていいのか新選組!

そんな松原はある日、祇園でお酒を飲んでいたらしく酔っぱらってしまったそうだ。

その帰り道の出来事である。

浪人の安西格右衛門と言い争いになったそうだ。

すると松原は、あろうことか安西格右衛門を斬り殺してしまったのだ。

安西先生が何を言ったかはわからないが、親切な松原が斬り殺すほどの事だ。

相当ヒドい事を言われたのだろう。

松原は安西先生を斬ったあとに「なんてこった!パンナコッタ!」なんてサブいギャグは言わなかっただろうが、自分が重大な事をしてしまった事に気がついたようだ。

そして、安西先生の住所を調べ、その死体を安西先生の家に届けたそうだ。

そんなわけで、安西先生の家で「私が殺しました」と自白すると思いきや、しない。

それどころか、安西先生の奥さんが想像以上に美人だったもんで、松原一目惚れ。

そんなわけで「自分が殺したなんて、口が裂けても言えないよ!」と思ったようで、「あの・・・誰かに安西先生が殺されてました。自分も助けようとしたのですが・・・こんな結果になって非常に残念です」とか言ったそうだ。

なんて情けないヤツなんだ。

その後は隊務を無視して、奥さんのところに通う有様。

しかも、自分で安西先生を殺しといて「奥さん、元気出してくださいよ」とか言っちゃう。

しかも、生活費まで支援する始末。

しかし、奥さんも奥さんで、まさかこんな親切な人が自分の旦那を殺したなんて想像もしなかったようで、次第に松原を頼るようになったそうだ。

もう、何も言えねえ。

そうこうしていると「松原さんって、安西って人の奥さん横取りしたくて、安西って人殺したんだって」「そうそう。毎日家通ってんだろ?」「え!?嘘!?うわー、松原さんだけはそんな人じゃないと思ってたのに!」と言う噂が隊内で流れ始めたのだ。

松原は「それでもボクはやっていない!」と潔白を主張。

それでも、疑いが晴れないもんだから「なんで誰も信じてくれないんだよ!くそう、切腹してやる!」と怒って切腹をしたのである。

ぎゃ・・・逆ギレ!?

たまたま通りかかった篠原泰之進とかが、なんとか途中でやめさせて未遂で終わったようだが・・・。

結局、その後、安西宅で奥さんと心中したらしい。(未遂で終わった切腹の傷が原因で死んだという話もある)

親切で熱いハートの持ち主がこうも、簡単に嘘をつき、こんな最後になるなんて「なってこった!パンナコッタ!」と勝手に思うのである。