明日はおそらく七転八倒!

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吉田稔麿

2015-01-24 22:01:24 | 勝手に明治維新
本日も池田屋事件つながりである。

生きていれば、初代総理大臣になったとも言われる人。

吉田稔麿

そんなわけで、勝手に明治維新。

名前
吉田稔麿(よしだ としまろ)

別名
栄太郎

生誕
1841年3月16日

死没
1864年7月8日

出身
剣術・柳生新陰流
槍術・宝蔵院流

性格
師匠松蔭は稔麿の性格を『陰頑』と言っているみたいだ。
無駄口を聞かず、真面目だったらしい。

ニックネーム
参考になる画像とかはない。

とりあえず、師匠が吉田松陰という事で『松蔭じゃない方の吉田』とでも、呼んであげよう。

逸話
まず、稔麿はの名前に着いてだ。

稔麿は吉田と名乗っているが、吉田姓は自称だそうだ。

おそらく、師匠吉田松蔭からとったのだろう。

そんな、稔麿の家は貧乏だったらしく、13歳の時に江戸の長州藩邸に働いたりしていたようだ。

そして、16歳のときに、松下村塾に通い始めて、吉田松陰に出会ったようだ。

ただ、松蔭を師匠と言ってる割に、松蔭には反抗的な態度だったようだ。

そんな、松下村塾に通っていた伊藤博文とは幼なじみだったようで、伊藤のことを「青びょうたん」と呼んでいたらしい。

失礼極まりないヤツだ。

それはそうと、松下村塾では高杉晋作、久坂玄瑞らと『松蔭門下の三秀』呼ばれ、さらにに入江九一をあわせて『松門四天王』と呼ばれている。

という事だが、松陰が幕府の役人たちを暗殺しようと考え始めた時期から、松蔭とは距離をとり始める。

師匠が「役人を暗殺する」なんて無茶な事をいうから止めてあげたのに「お前らなんか弟子じゃねー!」なんて言われたら距離も置く事だろう。

その上、稔麿の両親は松蔭の事をよく思っていなかったようで、両親が「もう、松蔭さんのところに行くのはやめた方がいいよ」なんて言ってたみたいだ。

そりゃ、黒船に乗り込んだときに小舟が流されて帰れなくなるような、間抜けな人を師匠なんて慕っていたら両親としては心配になることだろう。

そうゆうわけで、松蔭と距離をとり始めるようだが、心の奥では松蔭を尊敬していたようで松蔭の慰霊祭には出ているようだ。

その後高杉晋作の奇兵隊に参加したようだ。

そこで奇兵隊に影響されまくり、屠勇隊という差別を受けていた人たちから成る組織を作ったようだ。

あとは、朝陽丸と言う幕府の軍艦に、烏帽子に直垂という姿で乗り込んだようだ。

こうゆうところは、師匠ゆずりの無鉄砲さである。

そうこうしていると、池田屋事件が勃発。

稔麿は、最初から池田屋にいたと言う話と、仲間を助けるため池田屋に行ったら殺されたという話がある。

稔麿は生きていれば初代総理大臣になったと言われているほどの、逸材だったようだ。

そんな稔麿がなぜ京都焼き討ちなんて無謀な事を考えたかわからない。

ただ、師匠ゆずりで思いついたら行動せずにはいられない性分だったのだろう。

ある意味、稔麿は師匠の教えをしっかりと守ったのだと勝手に思うのである。