明日はおそらく七転八倒!

勝手に新選組。
自分は新選組が好きなので、勝手に新選組を始めます。
あくまで、勝手にってのがミソです。

市村鉄之助

2015-01-17 23:15:38 | 勝手に新選組
小説やドラマ等では新選組はかっこ良く描かれているが、こうやってみると意外と、出世したいあまりに卑怯なことしたり、お金欲しさに隊の規律を破ったりしてるヤツばっかだ。

ただのぽんこつ集団だ。

よく言えば、自分に素直なだけかもしれないが・・・。

そんな策や欲望は持っていなかっただろう、ピュアな隊士。

市村鉄之助

そんなわけで、勝手に新選組。

名前
市村鉄之助(いちむらてつのすけ)

別名
鉄太郎
銀之助

生誕
1854年(この年にペリーが2回目の来航)

死没
1873年もしくは1877年

出身
美濃国大垣藩(現在の岐阜県)

流派
不明

役職
両長召抱人

性格
実際の性格はわからないが、土方が市村の事を沖田に似ているということを言ったと言われているから(作り話のようだ)きっと無邪気な人だったのだろう。

ニックネーム
画像

は当然ない。

仕方ない・・・

似ている沖田のニックネームが確か『福笑い』だったから・・・







『厚化粧』にでもしておこう。

逸話
父親が一体全体なにをどうしたかはわからないが、藩を追放されたようだ。

これが安政5年のことらしい。

1854年は安政元年なので市村弟が5歳の時だと思われる。

そして近江で生活をするが、父が他界。

それからどうやって生活したかはわからないが、おそらく生活苦だったのだろう。

そのためか、京都で兄の辰之助とともに新選組に入隊。

市村弟は両長召抱人に任命される。

両長召抱人とは、近藤と土方の付き人みたいなもんだ。

市村弟は、近藤と土方が個人的に雇ったとも言われており、市村弟の事は「子ども」と記録されているようだ。

そのためか、戦闘要員では無かったようだ。

実際、剣の腕もたいした事無かったそうだ。

子どもだから、ということもあるだろうか・・・。

そして、そんなこんなをしていると戊辰戦争が始まる。

鳥羽伏見の戦いに破れ、甲陽鎮撫隊(新選組が戊辰戦争時、甲府で戦ったときの名前)に参加するが、大敗。

生き残った隊士たちは五兵衛新田にたむろしていたようだ。

その五兵衛新田にたむろしていた時に、市村兄は脱走してしまったようだ。

市村弟もついて行ったと思いきや、なにか思うところあったようで、新選組に残ったみたいだ。

そして、箱館(函館)まで土方の側を離れなかったそうだ。

しかし、明治2年4月、箱館の雪も溶けたようで新政府軍が攻撃を開始すると、土方は市村弟に「お前、江戸に帰れよ」と言ったそうだ。

そして、「これを佐藤彦五郎(義兄弟)に届けてね」と言って自分の髪の毛、写真、そしてあろうことか、へたくそな俳句を市村弟に託したそうだ。

これを、市村弟に託したと言う事は、このときには土方は死を覚悟していたのだろう。

そして、それだけ市村弟を信頼していたのだろう。

尊敬していたかどうかはわからないが、土方からそんなもん渡された市村弟は「え?土方さん、死ぬの?それなら僕も一緒に戦って死にますよ!」と言った事だろう。

しかし、鬼の副長と呼ばれた土方でもこのとき16歳の若者を死なせたくなかったのだろう。

土方は市村弟をそっくりさんの沖田にだぶらせていたことだろう。

沖田を人斬りの道具として使い、最後は若くして結核で死なせてしまったことを後悔していたのだろう。

だから沖田のようになってほしくないと思っていた事だろう。

そんなわけで、市村弟はしぶしぶ土方の言う事を聞いて命からがら箱館から脱出。

多摩にいる、佐藤彦五郎に土方の髪と写真とへたくそな俳句を届けたそうだ。

そして、1873年に若くして病死。もしくは1877年に西南戦争で戦死したと言われている。

自分の欲望に溺れてダメになる隊士がいる中、市村弟はただ純粋に土方について行ったのだ。

そんな市村弟のことを土方はこう言ってる。

「子どものくせに強気。しかも生意気」

そんなところも、沖田にそっくりだったのだろう。

きっと、市村弟は土方と最後まで戦えなかった事を悔やんだ事だろう。

それでも、土方のことを伝えなければいけないという使命感があったことだろう。

そのおかげで土方の写真が残されている。








自分の写真は無いのに。(この写真は佐藤さんに届ける為に撮ったとも言われている)

ある意味、市村弟は土方にとって一番重要な仲間だったのかもしれないと勝手に思うのである。