土方歳三は箱館(函館)で流れ弾にあたり死んだそうだ。
その戦争の引き金となった戦い。
戊辰戦争、鳥羽伏見の戦い。
そんなわけで、勝手に明治維新。
名前
鳥羽伏見の戦い(とばふしみのたたかい)
勃発
1868年1月27日
場所
京都下鳥羽、竹田、伏見
概要
1867年に徳川慶喜が大政奉還をしたそうだ。
幕府が持っていた政治を行う権利を朝廷に返すということだ。
大政奉還をすれば、政治の中心は朝廷になり、薩長が徳川と戦う大義名分がなくなる。
そんなわけで、戦争が起きるのを回避するための決断だったようだ。
徳川側は「どうせ、朝廷に政治は無理。結局、徳川を中心とするんだろ」と考えていたようだ。
案の定、朝廷は徳川に政治をお願いする。
徳川は「想定の範囲内」とニンマリしていたに違いない。
そうなれば、幕府を倒すために頑張ってた薩長は納得いかない。
そんなわけで、大久保利道や公家の岩倉具視が王政復古の大号令を言って、徳川に「所領400万石とか領民とか天皇に返してよ!」言ったようだ。
徳川は「想定外の出来事が起こった」と困惑しながらも「ボクは返しても別にいいんだけどさ。そんなことしたら、ほかの幕臣たちはきっと怒るだろうしな・・・。でもさ、僕たちが新政府の運用資金を負担する代わりに、政治に参加して、天皇を中心に大名たちが集まればみんないい感じ」と言ったようだ。
意外とこの意見が好評だったようで、逆に大久保さんと岩倉さんの方が「あいつら、そんなに戦争したいのか・・・」と思われたようだ。
そんなわけで、「このままじゃ結局徳川の時代だよ!」と焦った薩長は戦争を始めたいが、大政奉還したせいで戦争を起こす大義名分が無いわけである。
ということで赤報隊の隊長相楽総三とかを利用して、旧幕府から戦争を始めるように江戸で暴動を行ったようだ。
旧幕府も誘いにのらないように我慢していたのだがついに「なんてことするんだよー」と江戸の薩摩藩邸を燃やしてしまったのだ。
すると新政府軍は「やられたら、やり返す!倍返しだ!!」と最初にやったのはどっちだよと思うのだが、結局戦争が始まってしまう。
戊辰戦争会戦である。
戦争は旧幕府軍が優位に進めていたようだ。
新政府軍はにっちもさっちもいかなくなってしまったのである。
そこで、とある作戦を思いついたようだ。
なんと『錦の御旗』を掲げたのである。
朝廷は新政府だったとはいえ、この戦いは徳川と薩長の戦いだ。
新政府軍が勝手に『錦の御旗』を掲げる事なんて出来ないわけで、この『錦の御旗』は偽物であり、ただの布切れである。
ただ、このただの布切れである『錦の御旗』を見た旧幕府軍は「俺たちも、流石に天皇には攻撃できないよう」とか言っちゃって戦意喪失。(天皇に攻撃するという事は賊軍になるということ)
まんまと騙されたわけだ。
大将徳川慶喜に至っては、部下が必死に戦ってるにもかかわらず「天皇が出てくるなんて聞いてないよ。ダメだ。もう、勝てねー」と言って大阪城から逃げ出す始末。
それでも、戦況は旧幕府軍が優勢のはずだった。。
しかし、大将が敵を目の前にして怖じけついて逃げてしまったのである。
新選組や会津藩は孤軍奮闘したらしいが、「なんだよ!大将が逃げ出すってどうゆうこと!?もう、やってらんねー」とみんな戦いをやめちゃったようだ。
ちなみに、新選組局長、近藤勇は鳥羽伏見の戦いの前に篠原泰之進たちに肩を鉄砲で撃たれて戦っていない。
そんなわけで、戦況は一気にひっくり返り、旧幕府軍は結局鳥羽伏見の戦いに敗れたのである。
薩長の人を悪く言うつもりは無いが、赤報隊の件(これはまた詳しく・・・)といい、錦の御旗の件といい、やり方が汚いような、汚くないような・・・。
徳川は徳川で横柄な態度があったかもしれないが・・・。
そもそも、「攘夷!攘夷!」言ってたはずの新政府軍。
戊辰戦争では外国人を追い出すどころか、外国の力借りまくりである。(海外から武器を輸入していたそうだ)
言ってる事と、やってる事がめちゃくちゃだ。
こんな、自分勝手なやり方、まるでどこぞの首相さんのようである。
そういえば、どこぞの首相さんも長州出身だったなあと、勝手に思うのである。
なんか、最後悪口みたいになってしまって悪い事したなあと勝手に思うのである。
※ これはあくまで、旧幕府軍側からみた鳥羽伏見の戦いであり、これが真実というわけではない。
その戦争の引き金となった戦い。
戊辰戦争、鳥羽伏見の戦い。
そんなわけで、勝手に明治維新。
名前
鳥羽伏見の戦い(とばふしみのたたかい)
勃発
1868年1月27日
場所
京都下鳥羽、竹田、伏見
概要
1867年に徳川慶喜が大政奉還をしたそうだ。
幕府が持っていた政治を行う権利を朝廷に返すということだ。
大政奉還をすれば、政治の中心は朝廷になり、薩長が徳川と戦う大義名分がなくなる。
そんなわけで、戦争が起きるのを回避するための決断だったようだ。
徳川側は「どうせ、朝廷に政治は無理。結局、徳川を中心とするんだろ」と考えていたようだ。
案の定、朝廷は徳川に政治をお願いする。
徳川は「想定の範囲内」とニンマリしていたに違いない。
そうなれば、幕府を倒すために頑張ってた薩長は納得いかない。
そんなわけで、大久保利道や公家の岩倉具視が王政復古の大号令を言って、徳川に「所領400万石とか領民とか天皇に返してよ!」言ったようだ。
徳川は「想定外の出来事が起こった」と困惑しながらも「ボクは返しても別にいいんだけどさ。そんなことしたら、ほかの幕臣たちはきっと怒るだろうしな・・・。でもさ、僕たちが新政府の運用資金を負担する代わりに、政治に参加して、天皇を中心に大名たちが集まればみんないい感じ」と言ったようだ。
意外とこの意見が好評だったようで、逆に大久保さんと岩倉さんの方が「あいつら、そんなに戦争したいのか・・・」と思われたようだ。
そんなわけで、「このままじゃ結局徳川の時代だよ!」と焦った薩長は戦争を始めたいが、大政奉還したせいで戦争を起こす大義名分が無いわけである。
ということで赤報隊の隊長相楽総三とかを利用して、旧幕府から戦争を始めるように江戸で暴動を行ったようだ。
旧幕府も誘いにのらないように我慢していたのだがついに「なんてことするんだよー」と江戸の薩摩藩邸を燃やしてしまったのだ。
すると新政府軍は「やられたら、やり返す!倍返しだ!!」と最初にやったのはどっちだよと思うのだが、結局戦争が始まってしまう。
戊辰戦争会戦である。
戦争は旧幕府軍が優位に進めていたようだ。
新政府軍はにっちもさっちもいかなくなってしまったのである。
そこで、とある作戦を思いついたようだ。
なんと『錦の御旗』を掲げたのである。
朝廷は新政府だったとはいえ、この戦いは徳川と薩長の戦いだ。
新政府軍が勝手に『錦の御旗』を掲げる事なんて出来ないわけで、この『錦の御旗』は偽物であり、ただの布切れである。
ただ、このただの布切れである『錦の御旗』を見た旧幕府軍は「俺たちも、流石に天皇には攻撃できないよう」とか言っちゃって戦意喪失。(天皇に攻撃するという事は賊軍になるということ)
まんまと騙されたわけだ。
大将徳川慶喜に至っては、部下が必死に戦ってるにもかかわらず「天皇が出てくるなんて聞いてないよ。ダメだ。もう、勝てねー」と言って大阪城から逃げ出す始末。
それでも、戦況は旧幕府軍が優勢のはずだった。。
しかし、大将が敵を目の前にして怖じけついて逃げてしまったのである。
新選組や会津藩は孤軍奮闘したらしいが、「なんだよ!大将が逃げ出すってどうゆうこと!?もう、やってらんねー」とみんな戦いをやめちゃったようだ。
ちなみに、新選組局長、近藤勇は鳥羽伏見の戦いの前に篠原泰之進たちに肩を鉄砲で撃たれて戦っていない。
そんなわけで、戦況は一気にひっくり返り、旧幕府軍は結局鳥羽伏見の戦いに敗れたのである。
薩長の人を悪く言うつもりは無いが、赤報隊の件(これはまた詳しく・・・)といい、錦の御旗の件といい、やり方が汚いような、汚くないような・・・。
徳川は徳川で横柄な態度があったかもしれないが・・・。
そもそも、「攘夷!攘夷!」言ってたはずの新政府軍。
戊辰戦争では外国人を追い出すどころか、外国の力借りまくりである。(海外から武器を輸入していたそうだ)
言ってる事と、やってる事がめちゃくちゃだ。
こんな、自分勝手なやり方、まるでどこぞの首相さんのようである。
そういえば、どこぞの首相さんも長州出身だったなあと、勝手に思うのである。
なんか、最後悪口みたいになってしまって悪い事したなあと勝手に思うのである。
※ これはあくまで、旧幕府軍側からみた鳥羽伏見の戦いであり、これが真実というわけではない。
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