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個別指導塾 ONE-S(ワンズ)のブログ

堺市上野芝にある個別指導塾です。進学から補習、不登校の子どもの学習サポートなど、さまざまな子どものニーズにこたえます

ひきこもり対策

2017-07-11 12:03:35 | ひきこもり
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

以前このブログでも書いたように、私は大学卒業してからの数年間ひきこもりでした。そのため、ひきこもり問題に関しては他人事とは思えず、講演を聞きに行ったり、ひきこもり問題を話し合う会に参加したりします。そうしているうちに、ひきこもりを経験したことがある人や、現在ひきこもり当事者の人とも知り合うことができました。

私がひきこもっていた時代は「ニート」という言葉は使われておらずメディアで取り上げられることもほとんどなかったのですが、現在は「ひここもり」「ニート」「不登校」といった言葉が広く知られるようになり、39歳以下のニートが約100万人いると言われ、大きな社会問題として国や自治体で取り組まれるようになっています。


引きこもり対策として一般的なものは2つあります。1つ目は就労支援です。ざっくりですが、その内容は当事者と話し合いながら、社会に出るのに必要なスキルを身につけてもらい(履歴書の書き方やコミュニケーション能力の向上から、パソコン技術の習得などさまざまです)、就職しやすくするものです。ひきこもっていた人たちは、私もそうでしたがブランクがあるため自信を持てず社会にでようという勇気がでません。ですから、いろいろなスキルを身につけることによって、自分もやっていけるぞという自信とともに、したいことが見つかり実際に働けるようになる人も多く、一定の効果はあるようです。

2つ目はいわゆる居場所です。ひきこもってしまうと家族以外と話をすることもなくなり、どんどんと社会から取り残され「どうして自分だけがこんなことになってしまったのだろう」と思ってしまいます。ですが世の中には同じような、もしかすると自分よりも、もっと苦しい経験をしている人が多くいるかもしれません。そういった人たちが集まることができる場をつくり、そこに参加することにより「苦しいのは自分だけではない。仲間がいる」という安心感や、自分の悩みなどを同じ経験者に話をすることによって、今まで心の中でいっぱいにたまっていた負の感情を吐き出すことができ、生きていこうという力が少しずつ回復し元気になっていきます。

前者はおもに行政主導で後者はNPO法人やボランティア団体で運営されているところも多くあります。国としても力をいれている問題ですので今後もさらに増えていくのではないでしょうか。ですが、これから増やしていく施設などは、今と同じようなものを作っていってもおそらくこれ以上の効果はないと考えます。

現在行っている主な引きこもり対策は、まだまだ十分とは言えず問題点も多くあります。行政がおこなっている就労支援ですが、その多くは39歳までといった年齢制限があります。上限をもう少し上げるようですが、どちらにせよサポートを受けることができない層がでてきます。また、そもそもひきこもりになるということは、もちろん例外はありますが、傷つきやすかったり積極的になれなかったり、何か大きな悩みを抱えていたりとメンタル面でも強くない人が多いです。そういう人たちが、少しスキルを身につけたからといっていざ働くとなったら簡単にはいかないでしょうし、ブランクが長ければ働く環境も厳しくなるでしょうからますますハードルは高くなります。いったん面接に行き、採用されて働き出すことができても早い段階で辞めてしまい、そこからまた立ち直れなくなってしまう人も多くいるのです。

また、ひきこもりの人たちが集まる場所ですが社会にでるためのきっかけの場としてこれ以上のものはないように思います。当事者だけでなく、その家族の方も悩みなどを相談しあえて、機械的な対応でなく生の声を聞けるのですからとても価値のあるものだと思います。ただ、運営していくには当然場所代をはじめ、多くの費用がかかってしまうため維持していくのが大変です。そして、もう1つ。こういった居場所は確かに必要なのですが、この場所があまりにも心地よく、あったかい場所であるため逆に社会に出なくなってしまうことも少なくありません。集まればお互いに同情し、社会や政治や教育に不満をぶつけ、感謝の気持ちを持たなくなってしまいます。このような場所では、不満などの負のエネルギーが充満し建設的な話し合いができなくなっています。

私はこの2つの間にもう一つクッション的なものをいれる必要があると思います。仲間が集まる場所で元気になって、そこからすぐに就労というのはジャンプできる距離ではないです。具体的にどうしろと言われましたら私もアイデアがないのですが、たとえば起業の支援をするのはどうでしょうか? 1人でどこかに勤務するのは難しいけれど、チームとして働ける環境だったらずいぶんと違うのではないでしょうか。私もひきこもりから社会復帰するとき、どこかに就職しなさいと言われていてもできなかったかもしれません。アイデアや能力を持った人はたくさんいます。それを発揮する場を与えていくというのは、単にひきこもり対策というだけでなく大きな経済効果もあると思います。何十万人という人数のニートが働くようになり所得を得ると税収も大きく増えるのです。ですから、そういう形で支援していくというのも長い目で見ればさまざまな面で一番効果的かもしれません。

最後に、私は幸せを感じることって人それぞれだと思います。お金をたくさん稼ぐこと・したい仕事をすること・地位を得ること・大切なパートナーと過ごすことなど、さまざまな価値観があると思います。そして、現在ひきこもっている人たちも、心から現状に満足していて幸福感が十分得られているのなら私は無理に社会に出る必要はないと思います(ご家族は不安でしょうが)。他人にどう思われようが、今の自分が幸せだったら今のままでいいんです。今回書いたのは、そうではなく、現状に不満を抱いていて、どうにかしたい、今から人生を変えたいと思っておられる方に対してどうするべきかという話です。現在の政策の問題点や、改善点などまだまだ書きたいことはありますが、長くなりましたのでまたの機会にしますね。読んでいただき、ありがとうございました。

ひきこもりについて⑥~今だから思えること

2017-05-26 16:32:42 | ひきこもり
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

長くなりましたが、ひきこもりについての最後の回になります。

塾の仕事を始め、経営も軌道に乗って来てすべてが変わったように感じました。人と話すこともそれほど得意ではありませんが(塾の講師としてそれはどうかと思いますが(笑))、どちらかというと楽しいと感じますし、将来の自分に対して不安になることもなくなりました。あの悪夢のような、ひきこもっていた時間はいったいなんだったんだろうかと、たまに考えたりします。

塾での仕事も、初めの2年ほどは問い合わせの電話がかかってくるとドキドキしました。問い合わせの電話をいただくのは嬉しいことなのですが、うまく話せなかったらどうしようとか、頼りないと思われたらどうしようとかいろいろ考えてしまってました。塾に来ていただいて直接お話をするときは、緊張しすぎて汗だくになることもありました。しかし、3年を過ぎたころから、生徒たちに冗談を言って笑わせている自分がいたり、保護者の方と緊張せずにリラックスして話をすることができている自分に気づきました。

ですが、上手に話せるようになったわけでもなく、積極的に発言できるようになったわけではありません。自分にとって塾が居心地のいい場所になっただけのことだと思います。以前書いたように、「松下塾」は立ち退きによって閉鎖しなければならなくなり、今のONE-Sを開校するまで約1年間無職の時期がありました。その間に、いろいろな活動をされている企業やNPO法人の方とお話させていただく機会があり、会議などにも出席させてもらえたのですが、自分でもびっくりするくらい緊張してうまく話せないんです。また、3ヵ月ほど小学校の学童保育のアルバイトをしましたが、このときもスタッフの輪になかなか入ることができず、仕事も早く覚えることができませんでした。そして今年の3月に、大阪狭山市で講演をさせていただきました。それほど多くの人数ではなく約40人ほどの前で30分話をしたのですが、この日の数日前からものすごく緊張して何度も何度も録音して話す練習をしたにもかかわらず、当日もいくつか話がとんでしまうほど緊張していました。

つまり、ひきこもっていた時期と基本的な能力はほとんど変わっていないのです。滑舌はよくありませんし、話も上手ではありません。ただそれを認めて受け入れることができるようになったことが大きな違いです。いろいろな方と話をさせてもらったり、講演などを聞いてくださった方は、「話をすることに、そんな悩んでいた人とは思えないよ。すごく話がわかりやすかったし、聞きやすかったです」と言ってくださります。もちろんお世辞で言ってくださっている部分もあるのでしょうが、おそらく自分が気にしているほどひどくはないのでしょう。そうでなければ18年も塾の講師なんてできていませんよね。もともと話すことに対してコンプレックスを持っていて、それが就職試験の面接や集団討論で失敗したことによって、ものすごく大きな欠点だと思ってしまったのです。誰だって人前で話すときは緊張しますし、うまく話せないときぐらいあるはずや、今になってようやくそう思えます。

ひきこもっていた時間は、私に多くのことを教えてくれました。そういう意味では、ひきこもっていた時間は無駄ではなく、私がいろんな部分で成長したり、自分にとって居心地のいい場所を見つけるために貴重な時間だったと言えます。こうして働けることの喜び、何もすることがない時間の辛さ、仕事があり忙しいことがどれほどありがたいことなのか、ひきこもっていなかったら気づけなかったことかもしれません。

不登校のこどもたちはもちろん、成人してひきこもっている人も多く知っています。私の場合はこういった経験によって社会に出ることができましたが、これがすべての人にあてはまるはずもありません。ですから、「こうすれば絶対に大丈夫」「その気持ち、すっごくわかるよ」などとは言えません。不登校にしても、ひきこもりにしても、自ら好んでその道へ進むケースは少ないはずです。にもかかわらず、その道を選ぶしかなかったのは、それ相応の理由があります。他人からしたらちっぽけに思われるようなことでも、本人にとってはとてつもなく大きな問題であり、頂上の見えない山が立ちふさがっているようなものなのです。それを「そんなことで悩むなよ」と「甘えすぎやろ」というのは、私にはできません。

社会に出て生きていくには「人間力」というものが必要だと思います。現在の日本のひきこもりや不登校の人数を考えたとき、何かがおかしくなっていて、何かを変えていかなければならないことは明確です。不登校やひきこもりの問題を、「ただの甘え」とするではなく、誰にでも起こりうる問題であり、それらを生み出さなくするにはどうすればよいか、それを解決することでどれほど社会全体の利益になるのかを考えていかなければいけない時期だと思います。




ひきこもりについて⑤~塾のスタート

2017-05-24 15:36:06 | ひきこもり
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

ひきこもりについて書こうと思ったとき、自分の経験をいれることが必要だと感じ書き始めましたが、ずいぶんと長くなってしまい申し訳ありません。もう少しで終わりますので最後までお付き合いください。

約3ヵ月間のオーストラリアでの生活は初めの2週間ほどは不安で不安でたまらなく、もう日本に帰ろうかと何回思ったかわからないほどでしたが、それ以降はとにかく楽しく一度もホームシックにはならないほどでした。帰りの飛行機の中でぼんやりと「日本帰ったら何しようかなあ」と頭に浮かびましたが、それよりも「もう一度必ずオーストラリアに行こう!」という気持ちが強かったのは覚えています。

関空に到着したときになって、家族にお土産を買っていないことに気づきました。これはまずいと思って、関空のお店で適当に何か買って帰ろうと思い、お店に入りました。「いらっしゃいませ」という言葉が聞こえてきた瞬間、ものすごーくホッとした感覚におおわれ、「うわ、話してる言葉めっちゃわかる!」と嬉しくなりました。気がつけば、その店員さんと少しの間雑談していたのです。あれほど家族以外と話をすることができなかた私が、見知らぬ店員さんと笑顔でしゃべれたのです。このときに、おそらく私の中では何かが変化していたのだと思います。

「何かしたい。オーストラリアに行く前の生活には戻りたくない」そう強く思いました。ですが具体的に何をすればよいのか思いつきませんでした。帰国したのが4月だったのでもう1度公務員試験というのも考えましたが、当時私は26歳になっており年齢制限などで受験資格のないものが多く諦めました。また、民間企業なども職歴のない(2週間だけはありますが)26歳の私など採用してくれないだろうと思い就活をする気にはなれませんでした。そんなとき、高校時代の友人から選挙に出るから手伝ってくれないかという連絡がありました。選挙はもちろん、政治のことなんてまったくわかりませんでしたが、時間はたっぷりあるし、何かしたい気持ちも強いし、なにより友だちが頼ってくれてるのが嬉しくその日から毎日その友人の事務所に顔を出すようになりました。とにかく少しでも役に立ちたいという気持ちから、早朝の街頭演説の周囲でビラ配りしたり、ポスティングしたり、事務所の掃除をしたりと無我夢中で手伝っていました。そうしているうちに、こんな職歴や社会経験のない私でも役に立ててるんだという喜びとともに、同級生の友人がこんなにも頑張っているんだから、自分ももっと頑張ってみようという勇気がどんどん湧いてくるようになって、ますます何かを始めたいという気持ちが強くなりました。

その年の12月頃だったと思いますが父親から「お前、塾やってみないか?」と言われました。私は少しも迷うことなく「やってみる」と返事しました。ちょうど父親が事務所として借りていたアパートの隣の部屋が空いたから、そこを使えばいい。家賃などの初期費用はなんとかしたるから。私の家は決して裕福ではありませんでした。それでも3兄弟を大学に行かせてくれて、そのせいで父親はかなりの借金を背負っていました。そんな父親がそこまで言ってくれた言葉はとてもありがたく、今もずっと心に残っています。オーストラリアへ行ったときと同じく、このときもほぼノープランでした。塾を始めるといってもどこから始めればいいのかなにもわからず、思いついたことから始めていきました。本棚やソファなどは高校時代の友人がプレゼントしてくれ、チラシは自分で作って印刷したものを、また友人が一緒にポスティングしてくれました。こうして、多くの人に支えてもらいながら「松下塾」という塾を始めることができたのです。はたして生徒が集まるかという不安はありましたが、こうして社会に出てスタートラインに立てたという喜びが大きかったです。そして初めて入塾してくれた生徒(今でも顔と名前をはっきり覚えています)から、お月謝をいただき、授業が終わった後その月謝袋からお金を取り出した時のあの喜びは一生忘れません。「よっしゃー!」と何度もガッツポーズをしました。言葉では表現できないほどの、感動と喜びといろんな感情が全身からふきでてくるような、そんな瞬間でした。

あと1回続きます。

ひきこもりについて④~オーストラリアへの旅

2017-05-23 17:30:19 | ひきこもり
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

前回の続きです。

約3年間のひきこもりの生活は意外にあっさりと終わりをむかえました。

10月頃に兄から、「お前、オーストラリアに行かんか?」という電話がありました。兄は結婚していて将来オーストラリアに移住するという夢を持っていました。そこで義姉がオーストラリアの大学に行きながらホームステイをするんだけど、1人で行かせるのは心配だから、ついていってあげてくれんかということでした。オーストラリアに着けば、すぐに日本に帰ってきてもいいし自由にすればいいという話でした。今となってはどうしてこの時心が動いたのかはっきりわかりませんが、「よし、行こう!」と思ったのです。ひきこもっていた3年間は「アルバイトくらいしないといけないな。就職どうしようか」とそればかり考えていて、「ああ。でも今の俺には無理やー」と身近なできないものばかりに目がいっていました。ですが、海外に行くというのは1度も考えたことがなかったので、アルバイトの面接に行くよりオーストラリアに行くことの方が、私にはハードルが低く感じたのです。

出発の日は12月の終わりか1月と決まっていました。そうなるとまず考えないといけないのはお金のことです。往復の旅費だけでもなんとかしなければなりません。そこでアルバイト情報誌を買ってきて、ある配達業者に電話して面接を受けに行き、無事に採用が決まりました。あれほどできなかったアルバイトでしたが、その頃にはもうオーストラリアに行きたいという気持ちになってましたので、そのために頑張ろうと思うことができました。しかし、バイト初日から何度も心が折れそうにはなりました。3年間のブランクは大きく、人と話すときに以前にもまして緊張するようになっていましたし、従業員の人たちが集まって仕事が始まるまで休憩や雑談する場所があるのですが、そこにはまったく近づくこともできず、離れたところで1人でポツンといました。少しも楽しくなかったし苦痛でしたが、とにかく2か月の辛抱だからと自分に言い聞かせて期日まで働きました。そしてあれこれ準備をしていよいよ出発の日がやってきました。

行きの飛行機は義姉と一緒で安心でしたが、オーストラリアに着いたら義姉はホームステイ先に行ってしまいました。残された私は急に不安になりました。というのも、オーストラリアに着いてからどうするかを何も決めておらず、まったくのノープランで来てしまっていたのです。振り返って考えると、この無計画さが当時の私にはよかったんだと思います。現地についてからのことをすべて準備しようとしていたら、以前のブログで書いたように、出発する前からしんどくなっていて、やっぱりめんどくさいから行くのやめようとなっていたかもしれませんから。

せっかくオーストラリアまで来たのだから、すぐに帰るのはやめようと思いました。日本国内ですら1人で旅行したことがなかったので、何をどうすればよいのかわかりませんでしたが、まずは今日寝る場所を確保しないとと思い、適当に乗ったバスを降りホテルを探しました。ようやく見つけたホテルで泊まらせてもらおうとフロントにいくと、さあ困りました。当たり前ですが、受付の人は全員外国人です。「今日ここに泊まらせてください。1泊おいくらですか?」これだけのことを英語で言えばいいのですが、「How much」以外何も思いつきません。ノープランで来ていましたので、もちろん辞書も英会話の本も何も持ってきていません。理系とはいえ、それなりに英語の勉強をしてきたはずなんですが、何一つ話すことができませんでした。このときほと学校教育を恨んだことはありませんでした(笑)ですが、こんな見知らぬ場所で一晩外で過ごす勇気なんてあるはずなく、思いついた単語を必死で話し続けたらなんとか伝わったようで無事に泊まることができました。ようやく泊まるホテルが見つかったのでしばらくここに滞在しようと思い、朝になると街に出かけました。英語であふれ、外国人に囲まれながら街をぶらぶらと歩くことは不安でいっぱいでした。お腹が減って何か食べるときも一苦労で、注文の仕方やお金の払い方など、言葉が通じないってこんなキツイことなんかと初めて気づきました。たまに日本人らしき人を見かけると嬉しくて思わず声をかけそうになることもありました。

しかし、2週間をすぎた頃からオーストラリアでの生活にも少しなれてきて(英語はあいかわらずまったく通じませんでしたし、相手が何を言っているのかもほとんどわかりませんでしたが)、お店で買い物をしたり、ご飯を食べたりすることにもほとんど不安はなくなり、長距離バスに乗っていろいろな場所に行くことができるようになりました。本当に久しぶりに毎日が楽しいと感じるようになり、日本ではほとんど飲めなかったお酒も毎晩飲むようになっていましたし、泊まるホテルが見つからず浜辺で野宿したこともありました(笑) 

もちろん楽しいことばかりでばく、嫌なこともありました。歩いていたら急に車が私の横にとまり、2人の男の人がでてきて私に向かってめちゃめちゃキレて怒ってるんです。何を言っているのか理解できない英語力のおかげて内容がわからなかったのは幸いでしたが怖い目にあいました。同じようなことが3回ほどあり(おそらく日本人に対して、よい感情を持っていない人たちだと思いますが)そのときは怖かったり、少し凹んだりしましたが、そんなことを軽く吹っ飛ばすほどオーストラリアでの生活は楽しく充実していました。日本に帰らず、ずっとここにいたいなと強く思いましたが、残りのお金も少なくなって、帰国しなければいけない時がきました。

次回に続きます

ひきこもりについて③~どん底

2017-05-22 17:22:12 | ひきこもり
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

前回の続きです。

就職活動をやめた私でしたが、初めのうちはそれほど危機感もなく、そのうちなんとかなるかなあと軽く考えていました。しかし、これが想像以上に深い穴だったのです。

アルバイトもしなくなると家から外に出る用事がなくなります。たまに高校の友人と遊びに行くことはありましたが、彼らはみな働いていました。そうなると自然に話題は仕事関係が多くなっていきます。学生時代一緒にバカなことをいっぱいしていた友人たちが、なんだかずいぶんと遠くに行ってしまったような、自分とは違ってすごく立派な人になったような、そんな感覚になることが増えていき、せっかくの友達の誘いも断るようになってしまいました。

また、地元の知り合いに会ったりすると「今何やってるん?」と必ず聞かれました。中学生の頃から勉強だけは頑張って高校・大学と進学校に合格できたことにより、当時の私は優越感を持っており周りからも「松下は頭いいから、ええとこ就職してるんやろ」と思われてるんだろうなあと、とにかく自意識過剰でした。ですから、「就活失敗して今は無職やねん」と素直に言うこともできず、適当にごまかしていました。

こういったことすべてが嫌になり、できるだけ外に出ることをせず、家族以外との関わりをなくしていきました。時間だけはありますので、好きなときに寝て、起きてる時間はテレビを見てるかゲームをしてるか、生活リズムも完全に昼夜逆転していました。心の中では「俺何やってるんやろ?」と思いながらも、だんだんとこの生活に慣れてきたのです。

ただ、こんなほとんど社会と関わらない生活をするにしても、お金は必要でした。食事は母が作ってくれていたので困りませんでしたが、ゲームや漫画などの自分の持て余した時間を解決する道具を買うお金がありませんでした。そこで私は弟に小遣いをもらうようになりました。3歳下の弟はもう働いていまして、嫌な顔せずお金をくれました。そうしてもらったお金を持って、弟の服を借りて、弟の車を運転し、ゲームを買いに行く。そんな自分が情けなくて、みじめで、「ああ。いつから俺の人生はくるってしまったんだろう? なんとかしたい!なんとかしたい!」でもどうすればいいのかわからない。

5年後10年後の自分を何度も想像しました。何回想像しても、今以上にみじめな暮らしをしている姿しかイメージできませんでした。不安で不安でたまらなくなり、眠れない日もありました。

そんな生活が3年ほど続きました。他人との会話することがますます困難になり、弟がときどき買い物に連れて行ってくれたのですが、そこの店員さんと話することができず弟に代わりに尋ねてもらったり、家でピザなどの出前を注文したりするのも電話をかけることができないというところまで悪化していました。不眠もひどくなってきたこともあり、父親に心療内科や自律神経訓練法などの病院に連れて行ってもらったりもしましたが、病院の待合室などで座っていると、「俺は病気なんかな。一生こんな生活続くんかな」とよけいに落ち込む結果となっていきました。

中学校の頃にこんな大人になりたいなと思い描いていた自分とは正反対の生活をしていることが情けなく、なんとかしたいけれども出口が見つからず毎日不安の中でもがいていました。ただ人生を100%あきらめていたわけではなく、10%くらいは「いつか絶対になんとかする。何か道がみえてくるはずだ」と信じていた部分はありました。

もう少し続きます。