こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。
先月中旬に、父が天国へと旅立ちました。
昨年手術を終え、その後も父は一生懸命生きるために頑張ってくれていました。
毎朝・毎晩、父の様子を見にいき、できるだけたくさん話しかけて、なんとか元気になってほしいと願っていました。
だんだんと弱っていく父を見るのも日に日に辛くなりましたし、父を1日中付きっきりで介護する母の体も心もボロボロになっていく姿を見るのも悲しく自分の無力さを感じ、なんとも言えない気持ちにもなりました。
しかし、今辛いのは父であり、そして母であるのだから、私が弱い気持ちになってはいけない、私ができることをしっかりして二人を支えていこうと私なりにやってきました。
私たち家族の願いとは逆に父は回復することはありませんでした。その日も私はいつも通り22時まで授業があり、片づけをしていたときに母から連絡がありました。あわてて実家に向かい、ベッドの父と対面したときにはかなり危険な状態でした。母と2人で「お父さん!頑張って!」と声をかけながら、しばらくして弟もかけつけてくれ、3人で力を送り続けましたが、父は眠るように息を引きとりました。
ほとんど苦しまなかったと思います。私と弟がかけつけるのを待っててくれたかのように、3人がそろってすぐに亡くなりました。信じたくない、信じられないという思いからか、ずっと現実のものとしてとらえることができず、夢の中にいるようでした。
私は母とそのまま朝まで起きていて、そこから生徒の保護者の方々に5日ほど授業が休みになることのご連絡をさせていただきました。テスト中やテスト前の方も多くいらっしゃいましたが、どの方もあたたかく優しいお言葉をかけてくださり、完全に沈みかけている私の気持ちを元気にさせてもらえました。本当にありがたかったです。こうしていろいろとご迷惑をおかけした分、これまで以上に一生懸命頑張っていこうと思いました。
父は人として立派であったとか人格者であったとは思いません。ただ薄情な人ではなく、情に厚い人でした。家族のだれかが困っていたりピンチの時にはいつどんなときでも、かけつけてくれました。家族以外であっても、自分のことのように一生懸命でした。
父のいろいろなエピソードがありますが、一番古い記憶では、私がまだ5歳くらいだったと思いますが、家族でどこかにでかけたときに、そこに池があり大勢の人たちが騒いでいました。子どもが池で溺れていたのです。すると今まで私の横にいた父が躊躇することなく池に飛び込み、無事に子どもを救いました。それから何十年も父のところに、その子とご両親から御礼の手紙が届いていました。
今の私があるのも父のおかげです、こうして私が仕事をできているのも父のおかげです。以前のブログでも書いてきたように、ひきこもって絶望している私を見捨てず、背中を押してくれ、応援してくれ、心配してくれ、この仕事に出会わせてくれました。
私の仕事がある程度軌道に乗ってからも、父はいつも私の心配をしてくれていたそうです。弟から聞いたのですが「〇〇(兄)も△△(弟)も安心や。あとは英治だけや。どうにか英治を一本立ちさせたらな。それまではお父さんも頑張らないと!」と父は話していたそうです。
私が頼りなかったんでしょうね。いつも、ずっと心配してくれていたんですね。ありがとう。何か頼みごとをしたら嫌な顔一つせずに、いつも手伝ってくれました。
自分の病気のことをなかなか話さなかったのも、私がしっかりしていなかったから、父が病気だとわかれば私が焦燥してしまうと思っていたんですね。ごめんね、頼りない息子で。病気のことを家族の誰にも話さずに、一人で病気と闘っていたんだよね、怖かったよね、辛かったよね。
父が天国からも私たちを見守ってくれていると思っています。そんな父を安心させてあげたいです。私も「できた人間」にはなれそうにありません。ですが、父のように情に厚い人、だれかのために一生懸命になれる人、そんな人になりたいと思います。父が「あれが俺の息子やで!」と自慢してもらえるように。
父から与えてもらったたくさんの愛情、優しさ、そして教えてらったたくさんの大切なこと、それらを心の大事なところに入れておいて、私はこれからより多くの人に喜んでもらえるよう頑張り、そして多くの人に恩返しをしていけるよう生きていきたいと思います。きっと父も喜んでくれるでしょうから。
お父さん、本当にありがとう。お父さんの息子で俺は幸せだよ。長い闘病生活お疲れさま。今は好きなものたくさん食べて、大好きだった仕事いっぱいしてや。俺もお父さんが安心できるように一生懸命頑張るからね。本当にありがとう。
ONE-SのHP
先月中旬に、父が天国へと旅立ちました。
昨年手術を終え、その後も父は一生懸命生きるために頑張ってくれていました。
毎朝・毎晩、父の様子を見にいき、できるだけたくさん話しかけて、なんとか元気になってほしいと願っていました。
だんだんと弱っていく父を見るのも日に日に辛くなりましたし、父を1日中付きっきりで介護する母の体も心もボロボロになっていく姿を見るのも悲しく自分の無力さを感じ、なんとも言えない気持ちにもなりました。
しかし、今辛いのは父であり、そして母であるのだから、私が弱い気持ちになってはいけない、私ができることをしっかりして二人を支えていこうと私なりにやってきました。
私たち家族の願いとは逆に父は回復することはありませんでした。その日も私はいつも通り22時まで授業があり、片づけをしていたときに母から連絡がありました。あわてて実家に向かい、ベッドの父と対面したときにはかなり危険な状態でした。母と2人で「お父さん!頑張って!」と声をかけながら、しばらくして弟もかけつけてくれ、3人で力を送り続けましたが、父は眠るように息を引きとりました。
ほとんど苦しまなかったと思います。私と弟がかけつけるのを待っててくれたかのように、3人がそろってすぐに亡くなりました。信じたくない、信じられないという思いからか、ずっと現実のものとしてとらえることができず、夢の中にいるようでした。
私は母とそのまま朝まで起きていて、そこから生徒の保護者の方々に5日ほど授業が休みになることのご連絡をさせていただきました。テスト中やテスト前の方も多くいらっしゃいましたが、どの方もあたたかく優しいお言葉をかけてくださり、完全に沈みかけている私の気持ちを元気にさせてもらえました。本当にありがたかったです。こうしていろいろとご迷惑をおかけした分、これまで以上に一生懸命頑張っていこうと思いました。
父は人として立派であったとか人格者であったとは思いません。ただ薄情な人ではなく、情に厚い人でした。家族のだれかが困っていたりピンチの時にはいつどんなときでも、かけつけてくれました。家族以外であっても、自分のことのように一生懸命でした。
父のいろいろなエピソードがありますが、一番古い記憶では、私がまだ5歳くらいだったと思いますが、家族でどこかにでかけたときに、そこに池があり大勢の人たちが騒いでいました。子どもが池で溺れていたのです。すると今まで私の横にいた父が躊躇することなく池に飛び込み、無事に子どもを救いました。それから何十年も父のところに、その子とご両親から御礼の手紙が届いていました。
今の私があるのも父のおかげです、こうして私が仕事をできているのも父のおかげです。以前のブログでも書いてきたように、ひきこもって絶望している私を見捨てず、背中を押してくれ、応援してくれ、心配してくれ、この仕事に出会わせてくれました。
私の仕事がある程度軌道に乗ってからも、父はいつも私の心配をしてくれていたそうです。弟から聞いたのですが「〇〇(兄)も△△(弟)も安心や。あとは英治だけや。どうにか英治を一本立ちさせたらな。それまではお父さんも頑張らないと!」と父は話していたそうです。
私が頼りなかったんでしょうね。いつも、ずっと心配してくれていたんですね。ありがとう。何か頼みごとをしたら嫌な顔一つせずに、いつも手伝ってくれました。
自分の病気のことをなかなか話さなかったのも、私がしっかりしていなかったから、父が病気だとわかれば私が焦燥してしまうと思っていたんですね。ごめんね、頼りない息子で。病気のことを家族の誰にも話さずに、一人で病気と闘っていたんだよね、怖かったよね、辛かったよね。
父が天国からも私たちを見守ってくれていると思っています。そんな父を安心させてあげたいです。私も「できた人間」にはなれそうにありません。ですが、父のように情に厚い人、だれかのために一生懸命になれる人、そんな人になりたいと思います。父が「あれが俺の息子やで!」と自慢してもらえるように。
父から与えてもらったたくさんの愛情、優しさ、そして教えてらったたくさんの大切なこと、それらを心の大事なところに入れておいて、私はこれからより多くの人に喜んでもらえるよう頑張り、そして多くの人に恩返しをしていけるよう生きていきたいと思います。きっと父も喜んでくれるでしょうから。
お父さん、本当にありがとう。お父さんの息子で俺は幸せだよ。長い闘病生活お疲れさま。今は好きなものたくさん食べて、大好きだった仕事いっぱいしてや。俺もお父さんが安心できるように一生懸命頑張るからね。本当にありがとう。
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