秋に感じる、さびしい思い。秋という季節の与えるさびしさ、しみじみとした気持である。杜甫の「秋思雲髻を抛ち、腰肢宝衣に勝る」から出ているようだが、抽象的な言葉なので使い方は難しいと言える。春愁(しゅんしゅう)と似ているようでもあるが、秋と春という季節の持つ背景の違いがある。
頬杖の両手に余る秋思かな 戸恒東人(とつね・はるひと)
作者に頬杖をつかせたのは秋思が原因である。なんとなく寂しい、秋風も虫の音もみんな寂しく感じられるのだ。もちろん精神的な寂しさもあろう。そういう思いが頭の中をいっぱいにしている。それを頭の中の重さに転換しているところが巧みと言えよう。それは両手で支えきれないほど重いと言うのだ。秋思という抽象的なものを具体的な物で言ったところが優れている。いかに具体的に描写するかに俳人は苦労するのである。
盃中に秋思の翳の移りけり 京極杜藻
秋思を感じながら酒を飲んでいる作者。その酒は決して旨いというわけではない。重く秋思がのしかかっているのだ。その秋思の翳が盃にまで移ってしまったというのである。秋思を物の如くに捉えていて面白い。(勢力海平)
頬杖の両手に余る秋思かな 戸恒東人(とつね・はるひと)
作者に頬杖をつかせたのは秋思が原因である。なんとなく寂しい、秋風も虫の音もみんな寂しく感じられるのだ。もちろん精神的な寂しさもあろう。そういう思いが頭の中をいっぱいにしている。それを頭の中の重さに転換しているところが巧みと言えよう。それは両手で支えきれないほど重いと言うのだ。秋思という抽象的なものを具体的な物で言ったところが優れている。いかに具体的に描写するかに俳人は苦労するのである。
盃中に秋思の翳の移りけり 京極杜藻
秋思を感じながら酒を飲んでいる作者。その酒は決して旨いというわけではない。重く秋思がのしかかっているのだ。その秋思の翳が盃にまで移ってしまったというのである。秋思を物の如くに捉えていて面白い。(勢力海平)