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俳句雑記帳

俳句についてのあれこれ。特に現代俳句の鑑賞。

秋思(しゅうし)

2009年07月21日 | 俳句
 秋に感じる、さびしい思い。秋という季節の与えるさびしさ、しみじみとした気持である。杜甫の「秋思雲髻を抛ち、腰肢宝衣に勝る」から出ているようだが、抽象的な言葉なので使い方は難しいと言える。春愁(しゅんしゅう)と似ているようでもあるが、秋と春という季節の持つ背景の違いがある。

   頬杖の両手に余る秋思かな  戸恒東人(とつね・はるひと)

 作者に頬杖をつかせたのは秋思が原因である。なんとなく寂しい、秋風も虫の音もみんな寂しく感じられるのだ。もちろん精神的な寂しさもあろう。そういう思いが頭の中をいっぱいにしている。それを頭の中の重さに転換しているところが巧みと言えよう。それは両手で支えきれないほど重いと言うのだ。秋思という抽象的なものを具体的な物で言ったところが優れている。いかに具体的に描写するかに俳人は苦労するのである。

   盃中に秋思の翳の移りけり  京極杜藻

 秋思を感じながら酒を飲んでいる作者。その酒は決して旨いというわけではない。重く秋思がのしかかっているのだ。その秋思の翳が盃にまで移ってしまったというのである。秋思を物の如くに捉えていて面白い。(勢力海平)

羅(うすもの)

2009年07月20日 | 俳句
 薄く、透けて見えるように織った布地。盛夏の頃に用いられる絽(ろ)・紗(しゃ)・明石(あかし)・透綾(すきや)・上布(じょうふ)など、薄絹や麻で作った単衣(ひとえ)を言う。昆虫の翅のように薄いものなど、いかにも涼しげですがすがしさを感じさせる。蝉の羽のように薄くて軽い着物を、古くは「蝉の羽」と呼んだようである。「蝉の羽の」とは、「薄し」「衣」「ひとへ」などにかかる枕詞だった。

   羅やをとこは背中より老いて  戸恒東人(とつね・はるひと)

 句集『過客』(かかく)より。著者の第六句集と言う。
男が着る羅と言えば絽くらいしか筆者は知らないが、このごろの若い人は着ないであろう。やはり中年より上の男である。盆などには絽の衣を着た僧を見かけることもある。さて、男が羅を着ると体格というか骨格まで透けて見えるようである。人間は歳と共に猫背になる人が多いようだが、羅を着ていることでそれがはっきり見えると言うのだ。男の場合は特に骨格がよく見えるだろう。その人のうしろ姿を見ながら「あの人も歳とったなあ」と感じているのであるが、それはたちまち自分自身に返ってくることである。なにやら背中が寒い。(勢力海平)

銀河(galaxy)

2009年07月18日 | 俳句
銀河(ぎんが)は、数百億から数千億個の恒星や星間物質が重力的にまとまってできている天体である。無数にある銀河のうち、太陽系を含む我々の銀河を他の銀河と区別する為、銀河系(Milky Way 或は、The Galaxy)と呼称している。天の川銀河と言うこともある。天の川は無数の星の集団であるが、これは銀河系の内側から星の集団を見ていることになる。天の川、銀河、銀漢は秋の季語である。

   魚市に銀河垂るるを待ちにけり  吉本伊智朗

 銀河とあるからこの魚市は夜市である。夕方から始まった夜市では残暑を避けるために涼みに来る人も多いだろう。いろいろと買い物をして、ふと空を見上げると天の川が鮮やかに見えるのである。日は完全に暮れたのだ。この「待ちにけり」の表現は微妙である。意識して銀河が現れるのを待っていたわけではない。気がついたら銀河が見えている。まるで自分が待っていたかのように。それを「待ちにけり」と断定した。俳句表現の面白いところと言える。
(勢力海平)

山椒魚

2009年07月16日 | 俳句
一口に山椒魚と言っても大きく二種類に分けられる。普通の山椒魚はイモリに似て体長20cm以下で陸地にも棲む両生類である。オオサンショウウオは世界最大の両生類で体長150cmに達する。日本の固有種で特別天然記念物に指定されている。半分に裂いても生きているというのでハンザキとも言われるが、いい名前とは思えない。井伏鱒二の短編小説『山椒魚』は教科書に載るほど有名であるがオオサンショウウオが主人公と思われる。山椒魚がなぜ夏の季語なのか、根拠は明らかではない。季語としてはオオサンショウウオを指していると思えるが、清流に棲むから夏と関わるとしたようにも思える。生きた化石とも言われるが不明な点も多いようだ。

   前世より山椒魚のうそ寝かな  吉本伊智朗

 オオサンショウウオは常に水の中で暮らしているが、じっとして動かないことが多いようだ。時に敏捷な動きもするのだが、たいていは寝ているように見える。数千万年前から形は変わらないと言われる。「前世より」というのはそのような悠久の時間を指しているのであろう。常に寝ているようでありながら、餌を取る時は俊敏に動く。その様子を「うそ寝」と捉えたところが面白い。「嘘なき」は辞書にあるのに「うそ寝」はない。「うそ寝」だって日常的に使う言葉だと思うが。この句では何千万年も「うそ寝」を続けているというところが面白い。化石と言われながら確かに生きているのである。(勢力海平)

舟屋(ふなや)

2009年07月16日 | 俳句
車のガレージと同じで、漁師の船を格納する倉庫が舟屋である。元は平屋であったが2階建てのものもある。一階が舟の倉庫で舟の収容と共に漁具の置き場であり、干物などの干し場も兼ねる。2階建ての場合は2階は住居であったり民宿となったりするようだ。母屋は別にある。京都府の伊根の舟屋はよく知られていて観光スポットでもあるが、舟屋は伊根だけではない。隠岐にも舟屋群がある。ここは平屋である。

   舟屋涼しや宙吊りの乳母車  吉本伊智朗

 これはおそらく隠岐の舟屋と思われる。みんな漁に出ていて舟屋はがらんとしているのだが、漁網が干してあったり、小魚が干してあったりするのだ。砂浜に並んだ舟屋を覗いて回るのが俳人の常である。せっかくの吟行だから、何かを見つけて帰ろうとするのである。果たして作者は見つけたのである。その舟屋には乳母車が宙吊りになっているのだ。床に置いては邪魔になるから天井からぶら下げているのである。子供が大きくなって使わなくなったのであろうが、母屋に置いておくにはスペースがない。次の子供が生れるかもしれないから捨てるわけにもいかない。おそらくは妻のアイデアであろうか。生活の匂いがこんなところにもあるのだ。舟屋に入ったときの涼しさはもちろんだが、この生活のアイデアにも涼しさを感じている作者である。そのままを言っているように見えて描写の技が感じられる。
(勢力海平)

涼しさ

2009年07月15日 | 俳句
暑さも涼しさも共に夏の季語である。古来、涼しさに対する工夫や演出はいろいろとなされてきた。襖を外して風を入れる、日除けのために簾を吊る、庭にせせらぎの音をしつらえるなど、涼しさは最高のもてなしであったと言える。釣忍なども涼しさの演出の小道具と言える。風を起こすための道具として扇子や団扇が活躍した。扇風機が初めて輸入販売されたのが明治26年、翌年には国産第一号機が発売されたという。 

   纜(ともづな)の渦に尻置く涼みかな  吉本伊智朗

 句集『藍微塵』より。藍微塵とは、日本古来の藍染糸を用いた格子柄、またはその布で、一見無地にも見えるという。歌舞伎の衣装にも使われるので、句集はこれを指しているようである。作者は歌舞伎通の俳人としても知られれる。
 纜は船尾又は船首から出して船をつなぎとめるための綱である。船の大小によって太さは異なる。使わない纜は輪にして置いてあるが、これはかなり太いものであろう。巻いてある纜を渦と捉えたのである。腰を下ろすのにちょうど良い。それを「尻置く」とリアルに描写した。潮風が心地良い。「涼し」と言わずに「涼み」と言ったところは巧みである。「尻置き涼しかり」でも句として成り立つが、それでは「渦」が生きてこない。纜の渦を発見して、そこで涼もうと決めたのである。受身ではない。涼しくないかもしれないが、涼んでいるのである。
勢力海平 k-s@vmail.plala.or.jp

動物と玩具

2009年07月14日 | 俳句
兜虫が子供たちの間でブームのようである。今に始まったことではないのかも知れないが、子供につられて真剣に取り組む大人もいるようだ。兜虫に限らず小動物は子供たちの目にどのように映っているのであろう。私の子供の頃は周りに小動物がいっぱいいたのだが、それをどう思っていたかの記憶はない。蝿を餌にして蜥蜴を釣ったりして遊んでいたが、命という概念はなかったように思う。自分の命なんて考えたこともなかった。動物も自分も同じレベルで存在していたのである。それは玩具と同じであったかもしれない。虫が死ぬことは「壊れる」のであって、「死」という概念はなかったと思う。だから今の子供たちは動物が死んでもリセットできると思い込んでいるようでもある。人間は歳とともに命について考えるようになる。

   死んでより草に放てる籠螢  小原啄葉

うっかり読み流してしまいそうな句である。籠に入れていた螢が死んでしまったので、庭の草の中に捨てたという句である。事実はそうなのであるが作者の心象を考えてみたい。「死んでより」という非情な表現でありながら「捨てたり」とは言わずに「放てる」と言っているところに注目したい。「放てる」とは生きているものに対する表現である。籠の螢を草に捨てながら、生きているように描写しているのである。そこには作者の悔いが感じられる。生きているときに放してやればよかったのに、という悔いである。もともと命なんて飼うものではないのだ。歳をとって初めて気づくことであろう。

出水(でみず)

2009年07月10日 | 俳句
大雨や長雨で河川や湖沼が氾濫することがある。梅雨どきに集中するが、出水の被害は大きい。町中が水浸しになり自動車の通行が困難な場面はテレビニュースでもよく報道される。植えたての田んぼが冠水したりする被害も起こる。いわゆる洪水であるが、古くから出水と言って梅雨の頃の自然現象である。台風による出水は秋出水として夏の出水とは区別される。

    流れゆくものに出水の鶏乗れる  小原啄葉

 川が増水して溢れだしているのである。流されて行く物も多い。板切れであったり流木であったり、あらゆる物が出水の中を流れて行く。どういうわけか鶏も流されたのだ。その鶏は器用にも板の上に乗って流れているのである。どこから来てどこへ行くのかわからない。助けることもできない。なんとかなるだろうと、作者は見ているのであろう。鶏の生命力を信じているのであろう。哀れでもあるが、やや滑稽でもある。それは鶏という生命への信頼でもある。

    梅雨出水ぷかり軒ゆく子供靴  中川 廣

 ある句会で見た句である。出水が町に溢れだしているのであろう。人々は大騒ぎをしているのであるが、そこへ子供靴が流れてきたというのである。玄関に浸水した家から流れ出したのであろう。その子供靴がいま我家の軒下を流れて行くのである。凄惨であるはずの出水の中を子供の靴が流れて行く。子供が溺れたわけではなかろう。そこらじゅうに命が溢れているのだ。

今の一瞬

2009年07月06日 | 俳句

俳句は一瞬を捉える文芸と言われる。眼前にある一瞬の景を捉えるのである。頭で考えたり意見を述べたりする詩ではない。人間の考えることはたかが知れているので、思いや観念を述べても新しいことはまず述べられない。平凡であったり、何を言っているのかわからないという結果になることが多い。わかってもらわなくてもいいと言う人もいるが、それはわかってくれる人だけにわかってもらえばいいということになって、結果的に仲間言葉になり仲間俳句になってしまう。そこで唱導される方法が写生なのである。

   盆の月山の裏より空てらす  小原啄葉(おばらたくよう)

小原啄葉句集『而今』より。作者は現在88歳、東北随一の写生の名手である。筆者の尊敬する俳人の一人である。山口青邨門下。
今は盆の頃である。旧暦では満月の頃である。月はまだ山の裏に隠れていて姿は見えないのだが、山の上の空は明るい。もう少し待てば山から月が昇ることがわかる。「山の裏から空てらす」とは見事な写生である。盆の月の出る気配を見事に言いとめたと言える。盆には天上から霊魂が降りてくるのである。盆踊りには霊魂が参加しているのだ。「盆の月」は霊魂の降りてくる道筋を照らすという意味もあるであろう。「山の裏より空てらす」と捉えたことで、盆の夜の始まりの雰囲気が余すところなく描写されている。

ビール

2009年07月05日 | 俳句
私はビールが好きである。なぜかアサヒビールしか飲まない。というよりは飲めないと言うのが正しいようだ。初めての店に入るときは必ず「アサヒビールありますか」と聞く。ときたま「キリンしか置いていません」という店があるが、そのときは「日本で一番売れているビールをなぜ置かないか」と悪態をついて出てしまう。私は仕事をしながらビールを飲むので、句会のときもビールを飲んでいる。神聖な時間なのに、と訝る人もいるがそう思う人は句会に出なければいいと思っている。「神聖」という酒もあるくらいだ。神様も酒は好きである。御神酒と言うではないか。ビールも日本酒も焼酎も酒には変りは無い。私は死ぬまでアルコールと縁が切れないであろう。

   月の詩は李白にならへ酒もまた  上野一考

李白と杜甫は同時代の傑出した詩人であるが、杜甫が李白を評しての言葉「酒一斗詩百篇」はよく知られている。李白は奔放で豪快な人柄のようだが、月をこよなく好んだようでもある。繊細な一面があるのであろう。月の詩で優れたものがいくつかあるようだ。作者は李白に詳しいのであろう。月を詠ませたら李白が一番だというのである。日本人も月は好きだから月を詠んだ俳句や詩はいくつもあるが、李白にはかなわないと言っているのだ。月を詠むなら李白に習え。同じく酒を飲むなら李白に習え。「酒もまた」というところが面白い。酒を飲めば詩ができる李白に模して、だから私も酒を飲む、と言っているのだ。酒を飲むための口実ではない。作者は心から詩を欲しているのだ。酒のことを「釣詩鈎」(ちょうしこう)とも言う。