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俳句雑記帳

俳句についてのあれこれ。特に現代俳句の鑑賞。

通い婚(かよい)

2009年07月05日 | 俳句
平安時代の結婚は現在とは全く違った。男は女の顔を見ることはできない。人の噂や和歌のやりとりで結婚することになるが、結婚して初めて女の顔を見ることができる。結婚しても同居することは無く、男が女の元へ通うのである。夜、女を訪ねて朝には帰るという風習であった。一夫一婦制ではないので男は何人でも妻を持つことができた。男が妻を訪ねるのは、会いたくなったときだけである。つまりセックスと深く関わる。子供ができても女の実家で育てられるから、男は責任を持たなくて良い。男が妻の元に通う風習を通い婚という。

   通ひ婚めくや青蚊帳吊りければ  上野一考

上野一考句集『李白』より。
今では殺虫剤が発達しているので蚊帳を知らない人も多いだろう。目の粗い麻・木綿などで作り四隅を吊って蚊を防ぐ。寝床を覆う寝具である。この蚊帳の中に入って寝る。蚊帳は普通は萌黄色(黄色がかった緑色)に染められるが、これを青蚊帳と言うこともある。蚊帳は夏の季語である。
「吊りければ」とあるが、蚊帳の中に入ると、という意味であろう。部屋の明りは消してある。蚊帳の中の寝床に入ると、まるで平安時代の通い婚のようだと言うのである。妻の顔も妖しげに見えることであろう。俳句としてはここまでであるが、当然のことながら妻を抱くことになろう。「吊りければ」と言いながら、その後のことを言っていて、俳句のもつ余韻というものを強く感じさせる句と言える。俳句はもっと男と女の性の領域へ踏み込んでもいいと思う。

脳の活性化

2009年07月02日 | 俳句
私のように歳を取るとアルツハイマーへの不安が常につきまとう。いかにして脳を活性化させておくかに関心が行く。俳句はそういう意味でも有効だと思う。論理的な頭脳の訓練ではなく感性の訓練である。俳句は頭で考えて作るものではない。見ることが大切なのである。見たことをどう表現するかが勝負である。小さな発見ができれば言うことは無い。日本には毎月のようにどこかで行事がある。これを見ることも重要だ。俳句には吟行という言葉がある。何かをわざわざ見に行くこともあるが、散歩と写生を合体させてと考えればよい。

  節分の鬼が鏡を見てをりぬ  名村早智子

立春の前日が節分である。どこの家庭も「鬼は外、福は内」と叫びながら豆を撒くのが普通である。「鬼は内」という狂言もあるくらいよく知られた行事である。鬼はいなくてもいいわけだが、父親が鬼の面をかぶって鬼役を勤めたりする。青年団が鬼になるところもあるようだが、鬼役は大人である。この場合、豆を撒くのは子供という事になろう。この句では、その鬼が鏡を見ている場面を見つけたのである。鬼の面をかぶった男が自分の姿を見たかったのであろう。どの程度、鬼らしくなったか、鬼が鬼の様子を見ているのである。鬼は家にいてはならない。外へ逃げなければならないのだ。その一瞬の情景を捉えている。明日は春なのだ。