有季定型は俳句の基本的な骨格と言える。俳句を始めたころは五七五で季語があること、と習った人が多いはずだ。特に季語の重要性に注目して高浜虚子が俳句を定義したのが「花鳥諷詠」である。四季の循環による自然界の変化を詠むのが俳句であるとした。有季定型と同じことだが、有季には無季という反対語がある。虚子はこれを排除したのである。このごろはネット句会などでは、季語は無くてもいいとか、五七五でなくてもいいというような主張もあるが、これで俳句ファンが増えるだろうか。土俵の無い相撲やベースの無い野球が面白いとは思えない。有季定型という最低の規則があるからこそ俳句は面白いのだと思うが。
手がありて鉄棒つかむ原爆忌 奥坂まや
8月6日と9日、広島と長崎に原爆が投下された。一瞬にして30万人の死傷者が出たのである。今までの兵器では考えられない凄惨さであった。全世界が驚いて、核戦争が起これば世界は滅びることを知った。核抑止力という考え方から現在は核廃絶の方向に向かいつつある。原爆投下は自然現象ではないから本来は季語となりえないが、余りにも重大な日であるだけに季語として定着しているのである。しかし、重い季語であるだけに俳句にすることは難しい。
さてこの句、「手がありて」と言われてぎょっとする人も多いだろう。鉄棒にぶら下がるのだから当り前ではないかという意見もあろう。しかし、「原爆忌」という言葉に到達したとたんに様相は一変する。手があることが当り前では無くなるのだ。鉄棒をつかめることが当り前ではないのである。あの日死んだ人たち、手がちぎれ足がちぎれ、内臓が破裂した人たちを思えば、こうして生きて鉄棒をつかむことができるのは、なんと幸せなことか。過去のこととして片付けられない人間の悲しみが大きくのしかかってくる。原爆忌は重い季語である。
手がありて鉄棒つかむ原爆忌 奥坂まや
8月6日と9日、広島と長崎に原爆が投下された。一瞬にして30万人の死傷者が出たのである。今までの兵器では考えられない凄惨さであった。全世界が驚いて、核戦争が起これば世界は滅びることを知った。核抑止力という考え方から現在は核廃絶の方向に向かいつつある。原爆投下は自然現象ではないから本来は季語となりえないが、余りにも重大な日であるだけに季語として定着しているのである。しかし、重い季語であるだけに俳句にすることは難しい。
さてこの句、「手がありて」と言われてぎょっとする人も多いだろう。鉄棒にぶら下がるのだから当り前ではないかという意見もあろう。しかし、「原爆忌」という言葉に到達したとたんに様相は一変する。手があることが当り前では無くなるのだ。鉄棒をつかめることが当り前ではないのである。あの日死んだ人たち、手がちぎれ足がちぎれ、内臓が破裂した人たちを思えば、こうして生きて鉄棒をつかむことができるのは、なんと幸せなことか。過去のこととして片付けられない人間の悲しみが大きくのしかかってくる。原爆忌は重い季語である。
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