okinatchiの四次元徘徊記

 毎日の出来事を書き綴ります。

5月16日

2015-05-16 16:14:57 | 日記
 5月16 日
 雨、曇り。朝6時の屋外の気温は22℃であった。起床して直ぐにカスピ海ヨーグルト作りを始めた。新聞を読んだら(株)シャープが債務超過に陥いるという大変な状態になっていることを報じていた。私が某官庁に勤めていた50年前にシャープの本社工場や研究開発部門をなど上司と一緒に訪ねたことがあったが、あの頃はカラー受像管を用いたカラーTV受像機も普及し始める前の時期だったが活気に満ち溢れていた、と遠い昔のことを思いだした。

 TVニュース中で最近の若者が大東亜戦争の末期の頃の日本の状態を知らないことを指摘していたのを聞いて、70年前の15歳の頃のことを回想した。当時の大日本帝国は大東亜戦争の敗戦直前の時期で、街中には子供と老人の姿しか見当たらず、当時、旧制中学校の4年生だった私は学徒動員で飛行機工場で大日本帝国海軍の夜間爆撃機 銀河 のフラップを作っていた。

 日本の敗戦が濃厚になった時期になってからは、大日本帝国海軍や大日本帝国陸軍から中学校に対して、軍関係の諸学校への受験者数の割り当てが行なわれるようになり、学校では学級担任の教師に軍から求められた人数の受験者を生徒から選び出す役目を命じていた。

 学級担任の教師が軍から求められた人数の受験者を生徒から選べなかった時には、その教師に召集令状が届く、というような話が密に伝わってきていたので、学級担任は軍から指示された人数の受験者が集めるのに必死になっていて、学級担任は担任している学級の生徒達の過去の学業成績の上位の者から、海軍兵学校、陸軍士官学校、海軍飛行予科練習生の順に受験申込用紙を配布して受験者を募っていた。

 当時、予科練習生は特攻隊要員と目されていたので、親が子供に予科練を受験させないようにしたい、というケースが多かったようで、その場合には担任が生徒に予科練を受けるようにと脅迫じみた説得を行なったという話も多数聞こえてきていたものだった。親が反対してどうしても予科練習生への受験申込書にハンコを押してくれなかったというケースで生徒が親の実印を盗んで押印した受験申込書を提出して予科練に入った者も居たほどに生徒達に対する学級担任の説得の仕方は凄かったらしい。それは要するに学級担任が軍から与えられた人数の予科練への受験者を揃えなければ、学級担任には早晩赤紙が届いて戦地に行かされることになるだろうと学級担任が思ったからであろう、と考えられるのだ。

 予科練に行った多くの同級生は特攻隊に行く前に戦争が終わったので敗戦後直ぐに全員中学校に戻ってきたが、その人達は自分達を死地に追いやろうとした教師に対する恨み憎悪の念は物凄かったらしく、同級生全員を巻き込んでの同盟休校の首謀者になったのであり、生徒達を予科練に送り込み死地に追いやろうといた教師は大東亜戦争が終わった直ぐの時期に遠くに逃げて行ったのだった。

 朝からの雨が止んだので午前10時ころに買い物にでかけた。八百屋で物凄くデッカイ林檎を買って帰ってきた。午後はTV番組を視聴したり、パソコンで遊んだりして過ごした。

   のんびりと 昔しのんで 時過ごし   徘(徊)人 okinatchi