じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

「愛国心」は教えるものなのか

2005-12-17 | 教育(education)
 日本国内で、中学生や高校生に、日本国の過去には何も悪いことがなかったという話を聞かせたら、「愛国心」の涵養に役立つだろうか。彼(または彼女。岡村註。以下同じ)等に対してもそういう話が説得的であるかどうかは、大いに疑わしい。もし彼等が簡単にだまされぬとすれば、必ずや学校に対する不信感を強める効果しかないだろう。もし彼等がその話を真に受けるとすれば、「愛国心」の涵養に役立つかもしれない。しかしその「愛国心」は、事実を踏まえず、批判精神を媒介としない盲目的な感情にすぎないだろう。盲目的「愛国心」が国をどこへ導いてゆくかは、軍国日本の近い歴史が教える通りではなかろうか。
 私は昔フランスに住んでいた頃、同じ事件を政治的傾向を異にする新聞がいかに異なって報道するか、例を示して高校生に教えている教師に出会ったことがある。その教師は、どれが正しいかを教えず、どれが正しいかを生徒みずから考えることを、教えていた。けだし盲目的「愛国心」の涵養は、考えるための教育の反対物であり、つまるところ愚民政策の一つの形式にすぎない。(加藤周一「歴史の見方」『夕陽妄語』Ⅰ所収)
 加藤さんの文章は十数年も前に生じた「歴史教科書」問題のおりに書かれたものですが、
「愛国心を教える」ことはできても、愛国心とはなにかと「考えることを教える」なんてできない相談だと思っている、無精な教師(政治家)がほとんどではないですか。
 「愛国心教育」とは、学校の「儀式」で「日の丸・君が代」を強制されても文句をいわない、それを何十年もつづければ涵養されると見なされるのです。野鳥を捕ってきて鳥カゴにいれて飼いならすのとまるで同じ。飼いならすというのはカゴの中でしか生きられないと思いこませることでもあるのです。これを「飼育する」(breed)という。
 「おら七つのとき、子守りにだされて、なにやるたって、ひとりでやるには、ムガムチューだった。おもしろいこと、ほがらかに暮したってことなかったね。だから闘争が一番楽しかっただ」これは飛行場建設にたった一人で反対し、国家権力に踏みにじられても闘った小泉よねさんの「戦闘宣言」です。早くに夫と死別し、土間と六畳間の「小屋」に住み、2アールの土地を一人で耕していたよねさん。そこへ突然、「ここを飛行場にするから、立ち退け」と大学卒の役人は一片の紙切れで命令を下したのです。66年のことでした。
 「公団や政府の犬らが来たら、おらは墓所とともにブルドーザの下になってでも、クソぶくろと亡夫が残して行った刀で戦います」なんとしても理不尽な暴力を許せなかった。よねさんに四坪ばかりの土地(住まい)を貸していた島村良助さんは「よねに財産があったり、教育があったりしたら、よねにたいしての代執行なんかできなかったんじゃないか」と語る。立ち退きの代償に支払われた「補償金」は八十万円也。居宅である「小屋」を踏みつぶした空港公団が用意した「住居」にはいることを、彼女は峻拒したのでした。
 国家そのものが「人間の値うち」を財産や学歴でみている。その国家が掌握する学校教育で生産されるのも同じ価値観・人間観をもつものであるのはいうまでもないことです。器用な児童、要領のいい生徒、つまりずるがしこい人間の再生産装置です、学校は。
 国家のいいなりになるのも、国家にたった一人で対峙するのも、自らが経験してきた教育(生き方)によります。「もう、おらの身はおらの身であって、おらの身でねえだから」どうしても国家権力の理不尽なふるまいをみとめるわけにはいかない、たった一人の闘いであると同時に、個人の権利を踏みにじられたくない人間たちの闘いでもあったのです。
「学校に対する不信感を強め」ないままで、ながい学校教育をうけいれてしまうと、どんな感覚の人間になるのでしょうか。おわかりになりますか。(張三)