横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

非英雄論21(終論)■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-18 15:40:36 | Weblog
土居のオモテとウラなど●根源的なアンビバレンツの考察ノート

恐怖と願望(甘え)という、根源的な両価的な存在を前提におきます。

恐怖とは、外在するものをいい、願望とは、内在するものをいいます。
この意味で、土居の言うオモテとウラは外在と内在に対応する用語と考えています。

本当の現実は、恐怖に満ちているという絶対認識を採用します。
つまり、絶対的な現実は太陽のように、恐怖に満ちた巨大空間であるということです。


註:色即是空という場合の、空の三義に関係する論考を最後に提示します。


こういう現実が私たちの目に見えずにいるのは、生きていく上で障害となりやすいからと考えています。
 このために、オモテが現実認識を抑圧し、ウラが検閲を行うおかげで、直接の恐怖にさらされるのを防いでいるのではないでしょうか。

 ですから、その場合のオモテ=抑圧とは、無意識的な良心機能をいい、ウラ=検閲とは、本能的な防衛機能という考え方が必然的に導き出されます。

註:フロイドのミスを指摘するならば、「検閲」の働きを良心としたことです。この点で、土居理論はまさりますが、惜しいかな、恐怖を心理学の考察の対象からはずしてしまいました。
 この点は、非英雄論17でも書いていますので、不明の点は、参考にしてみてください。

 一方で、内在する潜在的願望とは、いかなるものでしょうか?

これも本当の内部は、甘美な想念で満たされているという絶対的な現実を採用します。
つまり、内部の現実は、太陽のように、圧倒的な甘美な想念に満たされた巨大空間ということです。

こういう内部(潜在的)の現実が私たちの意識に上らずにいるのは、生きていく上で障害となりやすいからと考えています。
(たとえば、有吉佐和子のいう「恍惚の人」の場合、重度の記憶障害をもたらしやすく、その毒性ゆえの弛緩作用は大脳の死をすら招くと考えています。有吉は、それで逝去?)
 このために、オモテ(良心)が内部の現実認識を抑圧し、ウラ(エス)が検閲を行うおかげで、直接的の内部認識を防いでいるのではないでしょうか。


以上のノートは、恐怖と願望の両価的な存在の「根源性」について、私の考えを述べたものです。
行動モデルへの直接の言及としては、なぜ恐怖主体と願望主体を同時に立ち上げるかの説明には役立つと考えています。
 他に、検閲と抑圧の2重の作用を受けて、秀才タイプの努力主体はU字型を描くために、ある日突然に、恐怖主体に化けるのではないかと拝察。


最後に、行動モデルの応用●

非英雄論20(終論)■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-18 13:17:02 | Weblog
 自分の思うところを述べて、弊論を閉じます。

努力主体と不良主体は、紙一重●願望主体と恐怖主体の行動モデル?

 社会人になってから努力する自己を立ち上げることは、いいことだと誰しもが思うのではないでしょうか。ですが、彼を取り巻く環境が未整備且つ劣悪の状態でありますと、挫折の結果として、彼は不良主体を立ち上げてくる可能性があります。
 これは社会人に限らず、学生にも言えることです。

 不良主体が自殺未遂者の場合、以後の彼は、生きるための努力主体を2次的に立ち上げることになります。
 このタイプ(不良主体と二次的な努力主体を兼ねた)の殺人犯がここで取り上げた、秋田連続児童殺害事件を起こした畠山鈴香被告とアキバ事件を起こした加藤智大被告の二人です。


註:自殺とは、生きることへの努力を放棄した願望主体のとり行う自身の殺害といいうるならば、窃盗とは、願望主体がいくら努力しても満たされぬことへの代償的行為といえます。
 保険金殺人や詐欺、強姦やわいせつ目的等の犯罪は、窃盗に準じると考えています。
 したがって、殺人とは、願望主体がいくら努力しても満たされぬことへの報復的行為といえると思います。


 この場合は、自己確立者の立ち上げる努力主体は問題外として省きますと、非自己確立者の努力主体と限定する必要がありましよう。
 彼が非自己確立者であれば、その努力主体は甘え(願望主体)を隠し持っています。
 その2重性を図式で表わしますと、次のようになります。

A (父親系)恐怖主体 →挫折   →敗北主体
B (母親系)願望主体 →挫折   →憎悪主体 →報復主体

C (子供系)努力主体 →挫折   →不良主体
D (神系) 理解者願望→挫折   →理解者憎悪→報復感情

 努力主体を立ち上げて理解者に巡り会えればいいのですが、彼ら凶悪犯の多くは、挫折しています。その反動で造成される不良主体は、未熟な恐怖主体といえると思います。
 願望の挫折が憎悪感情を呼び起こすのであれば、それは報復感情で満たされることになると思います。
 報復主体は報復感情に乗っ取られた主体ということです。
 父親系は抑圧されていると仮定しますと、先に述べたことは、次のような図式で表わされると思います。


C (子供系努力主体 →挫折   →不良主体 →(ある日突然に、脱皮を遂げた恐怖主体?)
                 ↓                 ↑
B (母親系)願望主体 →挫折   →憎悪主体 →報復主体
                 ↓                 ↑
D (神系) 理解者願望→挫折   →理解者憎悪→報復感情


 ここで取り上げた三件の通り魔事件の犯人たちはいずれも、非自己確立者が努力主体を立ち上げ、その挫折が不良主体に転化して、さらに反社会的な恐怖主体を立ち上げて、凶行に及ぶというCのような直線性を裏切っています。

 秀才タイプは子ども的ないい子の努力主体に留まっているから、「不良主体」や「憎悪主体」へ転化しにくいと考えています。
 少年の家庭内暴力者は、あくまでも家庭内の「不良主体」や「憎悪主体」であって、反社会的な人格者とは区別すべきだと考えています。

 仮に、行動モデルが直線的ではなく屈折的であるとするならば、上の図式にある青で表示した2重の願望挫折の流れに沿って、最後に恐怖主体に化けての行動を採っていると説明できるのではないのでしょうか。
 今一度、書きますと、報復主体とは報復感情に乗っ取られた主体ということです。
 恐怖主体とは、ストレス等で造成された反社会的人格者の確信犯的な犯行主体をいいます。
(この唐突の誕生劇には、心理学上の特異点を仮定すべきだと考えています)

 大体の行動モデルは今述べた通りですが、他に考えられる凶悪犯の線的な行動モデルがあるというのであれば、それを提示すべきです。
 提示できないのであれば、当座は、我慢してでも、この行動モデル(叩き台)のあることを承認するべきではないでしょうか。
 反論があれば、内容次第ですが、受ける用意があります。
 次は、行動モデルの論拠として土居理論等の援用を行いたいと考えています。

ある数学教師の目■恐るべき生徒 教師キラーの青木佳久君

2008-08-18 07:38:37 | Weblog
 青木佳久は、席順に課された宿題の、数学Ⅰのテキストの問題を黒板の上に計算過程と導き出された答とを書いて、自分の席に戻ろうとしていたところ、背後で、
「丸暗記して、答えを書き写した者がいる」
 と、数学教師の武藤の皮肉る声が聞こえた。

 その時の佳久は自分のことかと思ったが、「そういうテメーだって、すらすらと解いているではないか」と不満を持った。

 佳久は高校三年の新学期に、私立の福州工業高校から進学校では有名な修友高校に転入した生徒だった。
 武藤が単純に「お前のアタマで解ける問題ではない」と思ったのも無理からぬことである。

 福州工高時代の佳久は、不登校生徒だったが、大検合格を目指して独学で励んでいたところ、いつの間にか大学受験レベルの学力が身についていた。

 そんなことがあってか、佳久は武藤から何一つ学ぼうとは思わなかったし、武藤の方も佳久に対してことさらに教え込むことはなかった。

 いずれにしろ、佳久にとって学校教育とは、帯に短し、襷に長しであった。

 ある秋の日のこと、こんな簡単な問題もできぬのかと、武藤はいわゆる出来の悪い生徒を名指しで攻めていた。
 といっても、いつになくべたべたした授業のおかげで、教室の中は大盛況であった。
 そんな空気に動かされて、佳久がふと顔を上げ、黒板の上に書かれた不等式の問題に目を留め、すぐさま洗ってみると、元々の式が狂っているために答えが出ないことが分かった。
 それに要した時間は、2、3秒であったろうか。
 そこで彼はやんわりと指摘してやった。無論、お返しの意味もあった。

 すると武藤は、これまたすぐさま呑み込み、次の瞬間には、答えのある不等式の問題に作り変えていた。
 黒板に向けた顔を振り向きざま、「これでどうだ」と言わんばかりに佳久に向けられた、武藤の目は烈しい憎悪の炎で燃え上がっていた。


 佳久は翌春の大学受験に失敗した。
 武藤の目にかなうように、落ちてやったというべきであるかもしれぬ。