横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

非英雄論17■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-14 09:41:19 | Weblog
努力とは?●芹沢俊介の体罰論を援用すると

 このように通り魔事件を物語化してみると、どの事件も似ていると誰しもが思うのではないのでしょうか。
 強いて挙げるならば、秋田連続児童殺人事件と三件の通り魔事件の違いは、「再努力」の有無ではないかと思いました。

 最初に、努力する人がなぜ「いい子」と重なり合うのかを問題にしてみます。

 この点について、「努力」するいい教師と「体罰」をふるう悪い教師の間にある「心理過程」として、「自己愛」の存在を取り出して見せたのが芹沢俊介です。
 次の引用には、孫引きもあります。


「私が、なぜ体罰していたのか、そのことを考えてみたいと思います。私は、その当時、生徒会の指導をしていたし、毎日、遅くまで仕事に取り組んでいました。そこには、「オレは、これだけ一生懸命に取り組んでいる。オレが、オレが、やっているんだ」という思いがありました。修学旅行中におけるI君への体罰も、「オレがこれだけ熱心にやっているのに、なぜ生徒はわかってくれないのか・・・」という思いでいっぱいでした。」(高久明雄「体罰をのぞむ世代をつくるまい」所収『私たちは、なぜ子どもを殴っていたのか』太郎次郎社・所収『現代<子ども>暴力論』芹沢俊介・大和書房)

「自分は一生懸命やっている。なのに生徒がというイノセンスの論理。そして、オレが、このオレがやっているんだというナルシシズム。ここにイノセンス=ナルシシズムという体罰の仕組みが露出しているのがはっきりと目撃できるであろう。「愛情をもってたたけば、生徒はわかってくれるはずだ」という体罰という暴力をめぐる神話、「愛のムチ」説はイノセンス=ナルシシズムに侵された教師たちの作り上げた虚構の傑作である」(同上)

上の引用に明らかなように、「オレは、これだけ一生懸命に取り組んでいる。オレが、オレが、やっているんだ」という教師の思いは。通り魔殺人事件を起こした犯人たちと共通する心理です。
 芹沢は、これに「被害者意識」が加わるとしています。

「イノセンス=ナルシシズムという構造からもうひとつ浮き彫りにされてくる体罰の論理がある。それは被害者意識である。教師集団は、生徒たちの言動に、暴力を揮われたと感じるのである。イノセンス=ナルシシズムに貫かれていればいるほど教師集団は、ことさら生徒たちの違反的言動に敏感に被害者意識を掻き立てられることになっても不思議ではない。こうして体罰は、「指導」であると同時に、報復でもある」(同上)

 「報復」行動のあるところには、「願望主体」にたどり着きます。といいますのは、「報復」行動は、願望(甘え)の挫折という「心理過程」を経由することによって、顕われる暴力的な行動であるからです。
 体罰教師の行う「報復」が恐怖主体といいうるならば、努力する「願望主体」を立ち上げていたことになりますから、通り魔殺人事件を起こした犯人たちと同じ心理的な「暴力構造」を共有していたことになります。
 願望主体といい子と努力する人は、必然的に重なるのではなく偶然ということであれば、次のような三角構造が仮定されます。

          ・願望主体
         /\
        /   \
      /      \
     /         \
いい子・--------・努力する子

 書くまでもなく、国語学者の時枝誠記の創作した図式をちょっと拝借したもので、深い意味はありません。強いて言うならば、それらの関係は別個取り扱いということです。
 といいますのは、悪い集団だって頑張っているのです。たとえば、「オレオレ詐欺」や「出会い系詐欺」のように、どうすれば金持ちになれるか、について違法な手をまじめに研究している連中もいるわけですから。

 こういう風に考えてみましても、何が問題かといいますと、「なぜ頑張るのか」ということになるとおもいます。