横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

非英雄論18■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-15 13:12:49 | Weblog
努力とは?●理解者不在という社会病理

「いつかやると思ってた」
そんなコメントする奴がいたら、そいつは理解者だったかもしれない


たとえば、ご近所で火事があり、「火事だっ!」と誰かが叫びます。この声を聞きとめる聞き手を指して「理解者」と定義を行ったのが、国語学者の時枝誠記です。
 これに対して、消防隊員でない者が、火消しに走るのは、理解を超えた行動になります。

「理解者」という場合、この二種が混同されて使われています。

 現代の状況とは、時枝の言う機械的な理解者による、見殺し事件が後を絶たずに社会問題化しています。
 たとえば、児童虐待の通報があったにもかかわらず、児童相談所の対応が後手に回るのは、一般的に能吏という役人は、命令系統にはない「理解を超えた」行動を取らないからと考えています。
 児童虐待に関わらず、生活困窮者が生活保護を申請しても拒否され、後に餓死や病死が報告されるのは、福祉行政に能吏が携わっていることと無関係ではありません。

 海難事故に遭遇した際の海上自衛隊の隊員も「理解を超えた」ことは絶対といっていいほどやりません。
 たとえば、1988年7月23日に横須賀港沖で起きた海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」の衝突による海難事故(なだしお事件)では、傍観しているだけで救助しようとしない隊員にたいして、被害者の側から非難の声が上がり、マスコミがその声に加担しました。

■当事マスコミなどでは、「潜水艦の船員たちは沈没していく第一富士丸を悠々と眺めていただけ」などと報道され、「艦長はかなづち(だから救助命令を出せなかった)」と都市伝説まで誕生したが、その後の調べでマスコミの報道が誤報であることが示されている。この件については海事審判にてなだしお側が、

そもそも現在の潜水艦にはボートが艦内に格納されているゴムボートしかなく、その搬出に手間取った。
衝突時などの救助訓練が訓練メニューにない(艦長はその点直ちに行動に移れなかった)。
乗員は艦長の許可なく救助活動にあたれない(商船は各自の判断でやってよい)。
などと反論している(艦長の過失についての抗弁)。
(『wikipedia』「なだしお事件」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%A0%E3%81%97%E3%81%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6)

 一方で、理解には、「満足」に関係する部分があって、今日の出来事なんかをテレビニュースで知ると、分かったと満ち足りた気分(貧乳ですくすくと育った情報人間?)に陥ってしまうケース。
 他には、児童虐殺などの悲しい話を聞いて涙を流すケース。機械的な理解に対して、なんとも情感のこもった理解方法といえると思います。
 専門的な理解としては、刑事事件を起こした容疑者の精神科医による精神鑑定がありますが、宮崎勤事件では話題になりましたが、三人の鑑定医による精神鑑定が三人三色でした。これに限らず、判決で精神鑑定が採用されることはまずはありえません。

 このように理解者は不在といえる中で、発信者の側には、理解者の出現を希求している様子が見て取れます。
 たとえば、秋田連続児童殺人事件の畠山鈴香被告は、愛児の彩香ちゃんが事故ではなく事件に巻き込まれたと思って、犯人探しのビラを作って配ったりしているわけですが、この発信行為には2種の意味が隠されていると思います。
 一つが地域の住民に向けられたものとしますと、もう一つは、地域住民の頭上越しに向けられたものです。
 この場合、住民があなたの声は届きましたばかりに、救いの手を差し出すことは危険極まりない行為といえます。といいますのは、発信者の眼中はそこにはなく、飽くまでも頭上越しの相手であることが多く、下手をすれば、理解者が差し出した手は「悪魔の囁き」として、被告の背中を押すことにつながりかねません。
 豪憲君の父親が貸したビデオテープは、「悪魔の囁き」として鈴香被告の背中を押したとみています。

 町内でやるだんじり祭は、同時に、その土地で祭られている神を祝う奉納行事であります。
 大相撲も国家神道で祭られた神を祝う奉納行事であります。
 ですから、殺人事件というお祭りは、マスメデイアも含めた視聴者参加型のお祭りであると同時に、「神不在」の奉納行事ではないかという見方が成立してもおかしくはありません。