画像のネタは、ポールデルヴォー『街の入り口』(『現代のエスプリ』NO.63「エロス」の口絵より)
「この男性不能と去勢化の様相は、理性の完全な支配ではなく、むしろ弧絶した現代人の性的疎外と愛の不毛を物語るのだろうか。女性讃美の絵と見えながら、男の自己愛と女性恐怖の病根を深く分有している。デルヴォー的な少年期退行は、明らかに現実の女をではなく、年齢も恥部の有無もこえた憧憬的女性の原型(母性)を希求しているのだ。・・・(「口絵解説」末永照和)
下関通り魔殺人事件は、対人恐怖症の裏返しの急性発症■対人憎悪の爆発例?
上部被告は、上辺だけの「自己確立」の道を生きた人だったのかという驚き、あるいは、一流の大学を出て、1級建築士の資格を持ちながら「なぜ?」とかいった素朴な疑問は、誰しも持たれるのが普通だと思います。
その点に関しては、畠山鈴香被告のように、「自己確立」よりも「心の問題」を抱えていて、この克服を人生最大の目標に置いていたから、上部被告は「大人になりきれなかった」ひとりであろうと私は見ています。
で、どんな「心の問題」を抱えていたかといいますと、次の引用にありますように、「対人恐怖症」とされています。
■【上部について】
上部康明は下関市の北隣に位置する豊浦町に1964年に生まれた。(豊浦町は05年に下関市などと合併している)
両親はともに教師。妹が1人いた。上部は地元の高校を出て、一浪したのち九州大学工学部建築学科に進んだ。ここまで熱心に努力を続けてきた上部は「大学では思いきって遊ぼう」と考えていたという。だが入学してみると、「みんなが自分のことを嫌っているのではないか」と思い始める。対人恐怖症(※)だった。
大学卒業後も上部は「人間関係が嫌だ」となかなか就職しなかった。このため87年には心配になった両親が東京の病院に入院させ、「森田療法」(※)の治療を受けさせた。88年5月には福岡市内の精神病院に入院している。
その後はいくつかの職場を経た後、福岡市内の設計事務所に勤めた。この事務所は所長と2人だけの職場で、上部も人間関係に悩まされることも少なくなった。症状も落ち着いていったという。だが一級建築士の資格を取得したのを機に、92年に退社して、父親の援助などもあり自身の設計事務所「康明設計」を開き、93年10月には結婚相談所で出会った女性と結婚し、福岡市内で生活していた。保母をしていた妻は二級建築士の資格をとり上部をサポートしていた。ここまでは多少のつまづきこそあったがまあ順調だった。(『事件録』「下関通り魔事件」)URA:http://yabusaka.moo.jp/simonoseki.htm
念のため、『現代のエスプリ』NO.127『対人恐怖」に目を通してみたら、「性的羞恥心」みたいな自然な感情の発露を「ふがいない自分」とみるところから対人恐怖症を発症するというようなことを書いています。
この点は、冒頭の末永氏の言葉「女性讃美の絵と見えながら、男の自己愛と女性恐怖の病根を深く分有している。デルヴォー的な少年期退行・・・」とは、若干の食い違いがありますが、イメージ的には、「デルヴォー的な少年期退行」のまま、上辺だけのオトナを生きていた上部被告と重なり合う部分があると思います。
管見をここで書きますと、「恐怖」という感情をいつまでも持していると、「嫌悪」の情に転じます。この点は、ホラー映画で恐怖シーンを引っ張りすぎると、気分が悪くなる例と大いに関係があると思っています。
この流れは、「拒否」症状を呈して、自己回復といいますか、落ち着いてきます。
これには、もう一つの流れがありまして、「願望」があとに、「憎悪」に転じるものです。
わかりやすいように、「女性」を頭にかぶせますと、次のようになります。
A 女性恐怖症→女性嫌悪症→女性拒否症
B 女性願望→挫折→女性憎悪
結論だけを取り出しますと、「対人恐怖症」がねじれて「対人憎悪」に化けて、通り魔事件を起こしていることです。
これで何かがわかったかというと、そういうものはまるでありません。
この下に何かが隠されており、それが何か、ということを掘り下げてみる必要を痛感しています。
ポール・デルヴォーの暗号解読●メッセは「世界の終わり」?
末永は、ポール・デルヴォーの絵を解釈して、「母性の希求」としたわけですが、とんでもありません。
『街の入り口』では、一人おいて右側にいる金髪の女性がまずエールを送ります。「あたしの裸を見れば、男なんてイチコロよ」と内心では思っているとみて、ほぼ間違いありません。
中央で立ちすくむ女性は「豊かな母性」の象徴です。この裸の意味が謎です。
続いて、右端の女性は、強力なライバルの出現に対して怖くなるぐらいの黒々とした背中を見せて、けん制しています。
画家の分身と思われる上半身裸の男(セレブのお坊ちゃま?)の上にいる女性は、以前は取り巻きの一人だったんですが、男の「無関心」に負けて立ち去りはしても、未練が捨て切れず、少し離れたところで男の出方を見守っています。
このように絵の中に登場する女性は、すべて意味があります。
独りの男の持つ求心力を失うと、女性たちは「惑星」のように宇宙の漂流を始めます。
まず手始めに通りすがりの謹厳な中年男に媚を売りますが、男のほうはすでに女心を見透かしていますから、無視します。
で、やむなく、女たちは集ってレズに耽るというわけです。
というように、絵に登場する人物は、重力の法則に縛られています。
この「重力の法則」を手掛かりにして、読み直しを行いましたら、次のようなギリシア神話の存在を発見しました
地図を読んでいる少年は、木星を意味して全能の神ゼウス。隣の美しい女性は金星で、愛と美の女神ビーナス。そのお隣のこれまた美しい(眺めているだけで、涎の垂れてくる)女性は火星で、好戦的な軍神のマルス。そして、怖いぐらいの黒々とした背中を見せているのが土星で、農業の神のサターン。占星術では、禍の星?
少年の真上にいて、遠くで見守っているのが水星で、守護神のマーキュリー。
背中を見せて歩いている男は、海王星で、海神のポセイドン。ゼウスの兄弟なんですが、「常に、三叉の鉾を持ち、青銅のひづめと黄金のたてがみをもつ馬が引く戦車に乗り、海の怪物を従えて海原を走る」(広辞苑)勇ましい面影はありません。
レズビアンに耽る二人の女性は、大地の女神ガイアと月の女神ルナでしょう。
ガイアの夫である天王星を意味する天津神ウラノスは、不在。
不在だから、ガイアはさみしくてさみしくてたまらず、お月様とエッチせざるをえなくなったわけでしょう。
この意味を裏付けるキーパーソンが、冥王星を意味する黄泉津国津神プルートーです。
どういうことかといいますと、その絵の世界が地上的現世的であるのならば、天津神ウラノスは、どこかに潜んでいるはずです。
しかし、彼の妻ガイアが月の女神ルナとレズに耽るということは、夫の不在(仮に、死亡のケースだと、かかる未亡人は再婚相手を探すのでは・・・)を告げていることになりますから、絵の持つ地上的現世的な意味が剥奪されます。
次に、冥王星を意味する黄泉の国津神プルートーなんですが、それらしき人物が絵からは見つかりません。
ですから、全能の神ゼウスが黄泉の国の神プルートーを兼任しているのかなと仮定しました。
この点について調べてみますと、次の引用にもありますように、二つの神はあきれるほど仲のいいことがわかりました。
「クロノスを王位から退けてしまうと、ゼウスは兄のポセイドーンやプルートーンといっしょに、クロノスの領土を分割しました。ゼウスの取り分は蒼穹(おおぞら)で、ポセイドーンは大洋、プルートーンは死者の国でした。そして地上とオリュムポスとは三人の共有の領土になりました。こうしてゼウスは神々と人間との王になったのです。(大久保博訳『ギリシア・ローマ神話』角川文庫・定価580円!)
「兼任」だけでは、解釈としてはクソ物足りないので、思い切って「ヤーヌス」にしてみました。
「ヤーヌスは門の守護神ですから、そのため普通、二つの顔を持った姿で表わされています。というのは、門はどの門でもみな二つの方向に面しているからです。(同上)
上の引用の解説にもありますように、絵の中の少年は単に二役を兼任しているのではなく、門番ヤーヌスとして、世界の片っ端(絵の中では、一隅)に身をおいて監視活動の拠点にしているのです。
(註:あれで「監視?」と、いぶかるのではなく、ああやって監視業務に専念していると解するほうが無難です。傍から見ると、腰掛けて楽そうですが、実際は、しんどいと思いますよ。大体が、ガードマンの仕事というのは、フリーな身動きができないんですからね)
もし仮に、拠点が「特異点」であるならば、宇宙の始まりを支配しているのが全能の神ゼウスであり、宇宙の終わりを支配しているのは、黄泉の国の神プルートーということになります。
私が思いますには、ポール・デルヴォーというベルギーの画家は、「宇宙の終わり(=究極?の地獄)」を表現したかったのではないでしょうか。
それが絵に託した現代にまで伝わるメッセージ(タイムカプセル)であり、多分、世界で最初に受信(発掘)に成功したのが・・・、と、まあ、こんなことはどうでもいい事柄なんです。
(転載の依頼があり、お金をくれるというのであれば、話は変わりますけど・・・夢のまた夢の話?)
言いたいことは、ポール・デルヴォーの絵の持つ意味が凶悪な事件を引き起こした犯人の心の世界を照らし出しているのではないかということです。
つまり、全能の神ゼウスと、黄泉の国津神プルートーという二つの顔を持った絵の中の少年像(良い子?)が外の世界へと飛び出したのが、ほかならぬ彼ら殺人鬼ではないかと・・・。
締めくくり●形式的なこととはいえ、これを書くと、中にはくどいと思われる方もおられるかもしれませんが、私と末永の解釈上の相違点は、「世界の終わり」と「母性の希求」とした点にあります。
これも、厳密に言うと、さしたる違いはないのかな、なんて思ったりもしています。
再び、締めくくり●絵の解釈としては、三通りありまして、全能の神ゼウスが門番を勤める人間界(世界の始まり?)とギリシア神話の世界と黄泉の国津神プルートが門番を勤める「世界の終わり」。
それぞれの世界のもつ特徴は、ゼウスの支配する俗界では、個々の登場人物が「重力に法則」に縛られて意味付与が行われ、有機的な関係を保っていることです。
(ヒントは、黒い背中の女性で、ここから誰が見てもわかる、俗流の解釈が成立する《朝》の場所)。
神話の世界では、神々は意味ありげな場所に立たせられ、神の役割を演じますが、他との関係付けが断たれ、(生死不明のまま)バラバラの状態で投げ出されています
(ヒントは、「重力の法則」で、ここから絵解きがはじめられるが、読解には神話的な知識が不可欠の《昼》の場所)。
地獄の世界では、黄泉の国津神プルートが支配する限り、神々は明らかに死した物(マテリアル)として投げ出され、マネキン人形化されています。
(ヒントは、レズに耽る大地の女神ガイアと月の女神ルナ。自然と、天津神ウラノスの不在が読み込まれ、隠された絵の意味「黄泉の国」が浮上してくる。ここからはもはや読解の困難な、死後・死前《世界の終わり=夕?》の場所)。
気の弱い新入生は、早々に教室の片隅を占拠します。これも彼特有の監視業務です。というのは、怖い世界に対して番をしているわけですから。
犯行予定日の1999年10月3日は「父さん・倒産・通さん」●
■【凶行】
予定していた日(註:10月3日)の4日前の9月29日、親から「冠水した車の廃車手続きは自分でするように」と言われて「この期に及んで面倒な廃車手続きをするなんてたまらない」と腹をたて、急遽計画を変更、自宅を軽自動車で出ると、下関市内で文化包丁を購入、午後1時過ぎに駅近くのレンタカー会社に車を預け、白の「マツダ ファミリア」を借りた。そして睡眠薬を飲んだ上部は車を発進させた。
午後4時20分頃、下関駅改札口付近は旅行代理店や売店、食堂が並び、下校途中の生徒やサラリーマンらで混雑していた。そこへ猛スピードで乗用車が駅のガラスを破り突っ込んできたのである。暴走した車は通行人7名を次々と跳ね飛ばした。改札口あたりで車を停めると、上部は文化包丁を振り回しホームに向かった。途中で1人、ホームで7人切りつけている。午後4時30分頃、そこで上部は現行犯逮捕された。結局この事件で5人が死亡、10人に重軽傷を負った。(『事件録』「下関通り魔事件」)URA:http://yabusaka.moo.jp/simonoseki.htm
「この男性不能と去勢化の様相は、理性の完全な支配ではなく、むしろ弧絶した現代人の性的疎外と愛の不毛を物語るのだろうか。女性讃美の絵と見えながら、男の自己愛と女性恐怖の病根を深く分有している。デルヴォー的な少年期退行は、明らかに現実の女をではなく、年齢も恥部の有無もこえた憧憬的女性の原型(母性)を希求しているのだ。・・・(「口絵解説」末永照和)
下関通り魔殺人事件は、対人恐怖症の裏返しの急性発症■対人憎悪の爆発例?
上部被告は、上辺だけの「自己確立」の道を生きた人だったのかという驚き、あるいは、一流の大学を出て、1級建築士の資格を持ちながら「なぜ?」とかいった素朴な疑問は、誰しも持たれるのが普通だと思います。
その点に関しては、畠山鈴香被告のように、「自己確立」よりも「心の問題」を抱えていて、この克服を人生最大の目標に置いていたから、上部被告は「大人になりきれなかった」ひとりであろうと私は見ています。
で、どんな「心の問題」を抱えていたかといいますと、次の引用にありますように、「対人恐怖症」とされています。
■【上部について】
上部康明は下関市の北隣に位置する豊浦町に1964年に生まれた。(豊浦町は05年に下関市などと合併している)
両親はともに教師。妹が1人いた。上部は地元の高校を出て、一浪したのち九州大学工学部建築学科に進んだ。ここまで熱心に努力を続けてきた上部は「大学では思いきって遊ぼう」と考えていたという。だが入学してみると、「みんなが自分のことを嫌っているのではないか」と思い始める。対人恐怖症(※)だった。
大学卒業後も上部は「人間関係が嫌だ」となかなか就職しなかった。このため87年には心配になった両親が東京の病院に入院させ、「森田療法」(※)の治療を受けさせた。88年5月には福岡市内の精神病院に入院している。
その後はいくつかの職場を経た後、福岡市内の設計事務所に勤めた。この事務所は所長と2人だけの職場で、上部も人間関係に悩まされることも少なくなった。症状も落ち着いていったという。だが一級建築士の資格を取得したのを機に、92年に退社して、父親の援助などもあり自身の設計事務所「康明設計」を開き、93年10月には結婚相談所で出会った女性と結婚し、福岡市内で生活していた。保母をしていた妻は二級建築士の資格をとり上部をサポートしていた。ここまでは多少のつまづきこそあったがまあ順調だった。(『事件録』「下関通り魔事件」)URA:http://yabusaka.moo.jp/simonoseki.htm
念のため、『現代のエスプリ』NO.127『対人恐怖」に目を通してみたら、「性的羞恥心」みたいな自然な感情の発露を「ふがいない自分」とみるところから対人恐怖症を発症するというようなことを書いています。
この点は、冒頭の末永氏の言葉「女性讃美の絵と見えながら、男の自己愛と女性恐怖の病根を深く分有している。デルヴォー的な少年期退行・・・」とは、若干の食い違いがありますが、イメージ的には、「デルヴォー的な少年期退行」のまま、上辺だけのオトナを生きていた上部被告と重なり合う部分があると思います。
管見をここで書きますと、「恐怖」という感情をいつまでも持していると、「嫌悪」の情に転じます。この点は、ホラー映画で恐怖シーンを引っ張りすぎると、気分が悪くなる例と大いに関係があると思っています。
この流れは、「拒否」症状を呈して、自己回復といいますか、落ち着いてきます。
これには、もう一つの流れがありまして、「願望」があとに、「憎悪」に転じるものです。
わかりやすいように、「女性」を頭にかぶせますと、次のようになります。
A 女性恐怖症→女性嫌悪症→女性拒否症
B 女性願望→挫折→女性憎悪
結論だけを取り出しますと、「対人恐怖症」がねじれて「対人憎悪」に化けて、通り魔事件を起こしていることです。
これで何かがわかったかというと、そういうものはまるでありません。
この下に何かが隠されており、それが何か、ということを掘り下げてみる必要を痛感しています。
ポール・デルヴォーの暗号解読●メッセは「世界の終わり」?
末永は、ポール・デルヴォーの絵を解釈して、「母性の希求」としたわけですが、とんでもありません。
『街の入り口』では、一人おいて右側にいる金髪の女性がまずエールを送ります。「あたしの裸を見れば、男なんてイチコロよ」と内心では思っているとみて、ほぼ間違いありません。
中央で立ちすくむ女性は「豊かな母性」の象徴です。この裸の意味が謎です。
続いて、右端の女性は、強力なライバルの出現に対して怖くなるぐらいの黒々とした背中を見せて、けん制しています。
画家の分身と思われる上半身裸の男(セレブのお坊ちゃま?)の上にいる女性は、以前は取り巻きの一人だったんですが、男の「無関心」に負けて立ち去りはしても、未練が捨て切れず、少し離れたところで男の出方を見守っています。
このように絵の中に登場する女性は、すべて意味があります。
独りの男の持つ求心力を失うと、女性たちは「惑星」のように宇宙の漂流を始めます。
まず手始めに通りすがりの謹厳な中年男に媚を売りますが、男のほうはすでに女心を見透かしていますから、無視します。
で、やむなく、女たちは集ってレズに耽るというわけです。
というように、絵に登場する人物は、重力の法則に縛られています。
この「重力の法則」を手掛かりにして、読み直しを行いましたら、次のようなギリシア神話の存在を発見しました
地図を読んでいる少年は、木星を意味して全能の神ゼウス。隣の美しい女性は金星で、愛と美の女神ビーナス。そのお隣のこれまた美しい(眺めているだけで、涎の垂れてくる)女性は火星で、好戦的な軍神のマルス。そして、怖いぐらいの黒々とした背中を見せているのが土星で、農業の神のサターン。占星術では、禍の星?
少年の真上にいて、遠くで見守っているのが水星で、守護神のマーキュリー。
背中を見せて歩いている男は、海王星で、海神のポセイドン。ゼウスの兄弟なんですが、「常に、三叉の鉾を持ち、青銅のひづめと黄金のたてがみをもつ馬が引く戦車に乗り、海の怪物を従えて海原を走る」(広辞苑)勇ましい面影はありません。
レズビアンに耽る二人の女性は、大地の女神ガイアと月の女神ルナでしょう。
ガイアの夫である天王星を意味する天津神ウラノスは、不在。
不在だから、ガイアはさみしくてさみしくてたまらず、お月様とエッチせざるをえなくなったわけでしょう。
この意味を裏付けるキーパーソンが、冥王星を意味する黄泉津国津神プルートーです。
どういうことかといいますと、その絵の世界が地上的現世的であるのならば、天津神ウラノスは、どこかに潜んでいるはずです。
しかし、彼の妻ガイアが月の女神ルナとレズに耽るということは、夫の不在(仮に、死亡のケースだと、かかる未亡人は再婚相手を探すのでは・・・)を告げていることになりますから、絵の持つ地上的現世的な意味が剥奪されます。
次に、冥王星を意味する黄泉の国津神プルートーなんですが、それらしき人物が絵からは見つかりません。
ですから、全能の神ゼウスが黄泉の国の神プルートーを兼任しているのかなと仮定しました。
この点について調べてみますと、次の引用にもありますように、二つの神はあきれるほど仲のいいことがわかりました。
「クロノスを王位から退けてしまうと、ゼウスは兄のポセイドーンやプルートーンといっしょに、クロノスの領土を分割しました。ゼウスの取り分は蒼穹(おおぞら)で、ポセイドーンは大洋、プルートーンは死者の国でした。そして地上とオリュムポスとは三人の共有の領土になりました。こうしてゼウスは神々と人間との王になったのです。(大久保博訳『ギリシア・ローマ神話』角川文庫・定価580円!)
「兼任」だけでは、解釈としてはクソ物足りないので、思い切って「ヤーヌス」にしてみました。
「ヤーヌスは門の守護神ですから、そのため普通、二つの顔を持った姿で表わされています。というのは、門はどの門でもみな二つの方向に面しているからです。(同上)
上の引用の解説にもありますように、絵の中の少年は単に二役を兼任しているのではなく、門番ヤーヌスとして、世界の片っ端(絵の中では、一隅)に身をおいて監視活動の拠点にしているのです。
(註:あれで「監視?」と、いぶかるのではなく、ああやって監視業務に専念していると解するほうが無難です。傍から見ると、腰掛けて楽そうですが、実際は、しんどいと思いますよ。大体が、ガードマンの仕事というのは、フリーな身動きができないんですからね)
もし仮に、拠点が「特異点」であるならば、宇宙の始まりを支配しているのが全能の神ゼウスであり、宇宙の終わりを支配しているのは、黄泉の国の神プルートーということになります。
私が思いますには、ポール・デルヴォーというベルギーの画家は、「宇宙の終わり(=究極?の地獄)」を表現したかったのではないでしょうか。
それが絵に託した現代にまで伝わるメッセージ(タイムカプセル)であり、多分、世界で最初に受信(発掘)に成功したのが・・・、と、まあ、こんなことはどうでもいい事柄なんです。
(転載の依頼があり、お金をくれるというのであれば、話は変わりますけど・・・夢のまた夢の話?)
言いたいことは、ポール・デルヴォーの絵の持つ意味が凶悪な事件を引き起こした犯人の心の世界を照らし出しているのではないかということです。
つまり、全能の神ゼウスと、黄泉の国津神プルートーという二つの顔を持った絵の中の少年像(良い子?)が外の世界へと飛び出したのが、ほかならぬ彼ら殺人鬼ではないかと・・・。
締めくくり●形式的なこととはいえ、これを書くと、中にはくどいと思われる方もおられるかもしれませんが、私と末永の解釈上の相違点は、「世界の終わり」と「母性の希求」とした点にあります。
これも、厳密に言うと、さしたる違いはないのかな、なんて思ったりもしています。
再び、締めくくり●絵の解釈としては、三通りありまして、全能の神ゼウスが門番を勤める人間界(世界の始まり?)とギリシア神話の世界と黄泉の国津神プルートが門番を勤める「世界の終わり」。
それぞれの世界のもつ特徴は、ゼウスの支配する俗界では、個々の登場人物が「重力に法則」に縛られて意味付与が行われ、有機的な関係を保っていることです。
(ヒントは、黒い背中の女性で、ここから誰が見てもわかる、俗流の解釈が成立する《朝》の場所)。
神話の世界では、神々は意味ありげな場所に立たせられ、神の役割を演じますが、他との関係付けが断たれ、(生死不明のまま)バラバラの状態で投げ出されています
(ヒントは、「重力の法則」で、ここから絵解きがはじめられるが、読解には神話的な知識が不可欠の《昼》の場所)。
地獄の世界では、黄泉の国津神プルートが支配する限り、神々は明らかに死した物(マテリアル)として投げ出され、マネキン人形化されています。
(ヒントは、レズに耽る大地の女神ガイアと月の女神ルナ。自然と、天津神ウラノスの不在が読み込まれ、隠された絵の意味「黄泉の国」が浮上してくる。ここからはもはや読解の困難な、死後・死前《世界の終わり=夕?》の場所)。
気の弱い新入生は、早々に教室の片隅を占拠します。これも彼特有の監視業務です。というのは、怖い世界に対して番をしているわけですから。
犯行予定日の1999年10月3日は「父さん・倒産・通さん」●
■【凶行】
予定していた日(註:10月3日)の4日前の9月29日、親から「冠水した車の廃車手続きは自分でするように」と言われて「この期に及んで面倒な廃車手続きをするなんてたまらない」と腹をたて、急遽計画を変更、自宅を軽自動車で出ると、下関市内で文化包丁を購入、午後1時過ぎに駅近くのレンタカー会社に車を預け、白の「マツダ ファミリア」を借りた。そして睡眠薬を飲んだ上部は車を発進させた。
午後4時20分頃、下関駅改札口付近は旅行代理店や売店、食堂が並び、下校途中の生徒やサラリーマンらで混雑していた。そこへ猛スピードで乗用車が駅のガラスを破り突っ込んできたのである。暴走した車は通行人7名を次々と跳ね飛ばした。改札口あたりで車を停めると、上部は文化包丁を振り回しホームに向かった。途中で1人、ホームで7人切りつけている。午後4時30分頃、そこで上部は現行犯逮捕された。結局この事件で5人が死亡、10人に重軽傷を負った。(『事件録』「下関通り魔事件」)URA:http://yabusaka.moo.jp/simonoseki.htm