横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

■非英雄論13■続・秋田児童連続殺人事件■総括=児童虐待の世代間連鎖の好例

2008-08-02 06:57:52 | Weblog
総括●秋田児童連続殺人事件は、PTSD患者による犯行

●次の引用(「弁護側冒頭陳述」)は、『MEPHIST』から引っ張ってきましたが、父親の暴力をうけてのPTSDによる人格障害という説が本当に思えてきますね。
 被告の小学時代は、心無い教師の言葉がヒントになって、「心霊写真」なんてあだ名がつけられていたとのことですが、授業中に、意識が飛ぶことが頻繁だったということでしょう。

■父親は機嫌が悪いと、小学生の鈴香に平手打ちをしていた。理不尽な振る舞いは中学からエスカレートし、殴る蹴るの虐待を高校卒業まで受けたが、鈴香はずっと耐えていた。この心理的肉体的虐待は、解離性障害の素地となった。(『MEPHIST』「畠山鈴香」)
URA:http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-85.html●(拙記事より抜粋)


 ここで浮かび上がってくるのが、「遺棄」の恐怖。
 たとえば、娘の鈴香が親のいうことを聞かないと、「棄てるぞ」と脅したのではないでしょうか(あるいは、「出て行け」という言葉に代表される「追放」の恐怖)。
 この場合、棄て場所が「川」だったのではないでしょうか。

 いま、この論拠を示すのは困難な状態にありますが、親と折り重なった「川」への恐怖のイメージを幼いころに植えつけられたのではないかと、拝察。
 仮に、親子が強い依存関係にあるとすれば、子がかかる恐怖で縛られていたとしてもおかしくはありません。
 一方で、「あたしを棄てたいのなら、・・・」と反抗した形跡も認められます。

 ですから、この父子に関する限り、依存しあっているのか、反対に、背きあっているのか、わからないところがあるわけです。

 ここで仮に、鈴香被告がPTSD患者であり、「遺棄の恐怖」が外傷として残っていれば、彼被告の人生最大の目標は、「自己確立(女子→母親)」ではなく、「遺棄の恐怖越え」と取り違えられたことは十分に考えられます。

 この場合の優先順位は、やはり、心の病の克服が先で、「自己確立」は後回しですよね。
 ところが、ずるずると克服も「自己確立」もできないまま、できちゃった婚なんかで親になるわけですが、どうしたって未熟な母親にとどまっている問題がそこにはっきりと現れています。

鈴香被告の人間性を大肯定●私はたとえ子殺しの罪を犯した鬼母のごとき女性として宣告を受けたとしても、鈴香被告の人間性まで否定する気にはなれずにいます。
 換言すると、被告は紛れもない「人の子」であったということです。

 このためには、被告がPTSD患者であることの証明と、この事件がPTSDの克服のために引き起こされたことの証明等が弁護側には求められると思います。

 特に求められるのが、心的外傷という場合の「損傷」部位の特定。

 いわゆる「児童虐待の世代間連鎖」の好例として、徹底分析の必要性をアピール。

 この場合、前記のとおり、「児童虐待」というPTSDなる傷の「特定」が求められていると考えています。

 で、いかなる傷かといいますと、「遺棄の恐怖」です。

「遺棄の恐怖」の世代間連鎖による遺棄事件が他ならぬ、秋田の彩香ちゃん殺害事件ではないかということです。

●「どういうことかといいますと、鈴香被告は実父と強い依存関係(D=Dependency)にあり、この関係のコピーが鈴香被告と愛児彩香ちゃん(C=Copy)なわけですよ。ですから、鈴香被告は実父との依存関係にひびが入ると、愛児彩香ちゃんへのネグレクトが加速するというように、一種の時限爆弾を取り付けた、危険な母子生活を送っているわけですよ。
 そうして実父との依存関係が破綻(これは、父親の院内暴力が関係するかも。あるいは、生活援助の打ち切り)してしまうと、あらかじめ用意していた時限爆弾の安全装置を取り外し、時間をセット。・・・・・
 無論、爆発の瞬間は、わが身を危険にさらしますから、遠くにいます。

《これを可能にするのが、解離性同一性障害者》」●(拙記事より抜粋)

 再度、自分の記事を上に引用しましたが、ここからはじめます。

 父子の関係を依存的とし、その関係を(D)関係とし、鈴香被告と彩香ちゃんの母子関係を(C)関係と置きます。

 (D)関係にひびが入ると、(C)関係にはネグレクトが加速すると書きました。
 こういう問題は、母親が自律的な自己を確立していれば、起こらないと思いますが、母親が他律的な自己の持ち主であれば、父親から受けた娘の暴力は、母親の娘に対してお返しされるのではないでしょうか(児童虐待の《同時的》な世代間連鎖)。
 万事がこういう調子ですから、父親が娘を見棄てるようなことがあると、母親はわが娘を見棄てることがあったとしてもなんら不思議ではありません。
 ここで問題なのは、本来は、子捨てにとどまるべきところを何ゆえに子殺しとジャンプしたかということです。

 単なる「遺棄」であるならば、母親自らの手で殺す必要はありません。どうしても貧しくて育てきれないというのであれば、福祉施設に預ければいいことです。
 仮に、母親の私がいなくなると、この子の人生は不幸が待っているというのであれば、母子心中の道を選択するのではないでしょうか。
 こうして、結局は、「この子さえいなければ、私は幸福になれる」という検察側の用意した「今田勇子」似の鬼母像が判決に採用されるのは、ある意味必然といえるかもしれません。

 しかし、冒頭にも書いたように、私はたとえ子殺しの罪を犯した鬼母のごとき女性として宣告を受けたとしても、被告の人間性まで否定する気にはなれずにいます。

 被告の人間性を大肯定するからこそ、仮に人間性が壊れての子殺しというのであれば、壊れた人間性について科学的な解明が可能になるのではないでしょうか。


PTSDとは、何か?●土居健郎の「甘え理論」を援用すると

a 幼児の意識はいつも、甘いイメージで満たされている。
b そこへ「恐怖」のクサビを打ち込む。
c すると、「クサビ」のために、甘いイメージで満たされた意識の流れが悪くなる。

 そういう神経症理論を打ち立てたのが土居健郎と見ています。
 土居理論によると、PTSDが「クサビ」に相当するならば、甘い感情で満たされた潜在意識の存在を仮定していたことになります。
「仮定」というよりは、「大発見」といい直すべきかもしれません。

 この理論の持つ利点は、神経症の心的機制の説明に役立つだけではなく、フロイドの唱えたリピドー説を超えています。フロイド説の弱点であった幼児の性衝動というバカげた仮定を不必要とし、代わりに、無理なく説明できるからです。
 もう一つの利点は、人間が幸福を求めるのはなんでもない・当たり前の行為と見逃してきたことを、理論はそうではなく、心の中の「重力の法則」に従うと、説明していることです。

この幸福の「重力の法則」説に従うと、正常な人間は内発的な幸福の感情に包まれているおかげで、彼は内的に幸福の人生を送ることができます。
 他方の病的な人間のケースでは、内発的な幸福の感情が欠乏している関係から、不足をソトに求めようとして、「底なし」の依存症を呈するのではないかと見ています。
 女性ならば、男性遍歴がやむことなく繰り返されます。
 男性ならば、ヤクザでしょう。欲望に限度というものを知りません。

土居は、「オモテが出来るということは現実に適応するということであり、そこには当然超自我が関与している。またウラが出来るということは本能衝動が防衛されているということであり、そこにはもちろんエスが関与している」と前置きして、次のように、述べています。

「オモテとウラの変容の第三は、オモテとウラの分化は出来ており、精神生活がこの二本立てによって行われるという原則は確立しているが、ウラの形成に不十分な場合である。ウラ付けがうまくいっていない。あるいはウラに無理なところがあるといっても良い。要するに、本能防衛に問題があるのであって、この際本来はウラにしまっておくべきものが、何らかの刺激を受けると、本人の意図に反して、オモテに顔を出すことが考えられる。オモテがウラを守らずに、かえってウラがオモテに侵入する結果となる。そして不安という現象は恐らくこのことと関係があるのではなかろうか。この種のウラとオモテの変容は日常最も頻繁に起こるものということができるのである」(土居健郎「オモテとウラの精神病理」論・所収『現代のエスプリ』127号)

 PTSD患者の例を上の引用にある土居理論を借りて、説明すると、「ウラの形成に不十分な場合」と「本能防衛に問題」があると述べているわけですが、この場合の「ウラ」とは、エス(註:潜在的な原始的な自我)が関与し、且つ、「本能衝動が防衛」するものとは、「(幼児のように)意識はいつも、甘いイメージで満たされている」a状態を指すものと考えています。
 ですから、わかりやすいように、「ウラ=甘え」という理解で支障はないと思っています。

 そこへ、虐待などで「恐怖」のクサビが打ち込まれると、エスの防衛機能が壊される結果、「本人の意図に反して、オモテに顔を出すことが考えられる」としています。
 この場合の「オモテ」とは、超自我(良心)が関与する抑圧的な「明るい自己意識」とでも訳せますか。

 この後、「オモテがウラを守らず、かえってウラがオモテに侵入する結果となる」を言葉どおり受けとると、「ウラ=甘え」が「自己意識」を犯しはじめ、心の中の緊急事態を告げると、それが「不安」なる心的現象と説明しているみたいですが、次のように、理解しました。

 無意識裡に自己意識が甘い感情に満たされており、はっとわれに返ったとき、その間の「記憶」が欠落しているから「不安」に駆られる。

 この症状は、半覚醒の酩酊状態に陥ったときに出現する意識に近く、酒の力で良心の働きが緩んだ時に、現われます。自他の間の距離感がなくなくなり、馴れ親しみやすくなります。

 無意識裡に起こる点では、両者は共通していますが、「記憶」や「不安感」の有無で違いがあげられると思います。
 病的な酩酊状態では、「記憶」のないことをもって、「不安」に襲われることはありません。

無論、鈴香被告の彩香ちゃん殺害時の心理状態も意味すると思っています。

私の世界観●外的な世界とは、恐怖に満ちている

私が思うには、外的な世界とは、死者が遍満するような恐怖に満ちています。まさに、幼児の「場所見知り」のごとき世界が外に出現しているのです。この真実の世界認識を妨げているのが超自我の機能であり、エスがもたらす内発的な甘い意識です。
 この2重のバリアによって、自己はパニックから護られているわけです。

 ところが人為的な介入によって、「本当のパパは怖い」という意識が植え付けられると、長じてからはこの意識に苦しめられます。
 記憶として残る映像によって苦しむ場合もありますが、きっかけは、真実の光景に遭遇した関係からではないでしょうか。

 これを土居の言葉を借りると、「ウラはオモテを守らず、かえってオモテがウラに侵入する」結果、PTSD患者はパニック症状を引き起こすと説明できないでしょうか。

(ソレガ存在ソレ自体ニ触レタトキノ感触ナノダ)。