横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

非英雄論23(終論)■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-20 09:33:32 | Weblog
下関通り魔事件の上部康明受刑囚の場合国語学と犯罪学と不倫妻

 発信者の向こうには、受信者が立っており、「花」という言葉を投げつけると、「花」とキャッチするために理解が成立するという時枝の国語学的な考えは、両者の間に物理的過程の存在を前提にしています。
 それに対して、若い時分の私は「理解」という以上は、「化学的過程」が必要と考えました。つまり、彼発信者は「花」ではなく、「花!」を伝えたいと思っているのであり、いつもは見馴れているはずの花が「花!」と見えるのは、恋人といるなどして生きている感動の瞬間に立ち会っているからこそ、なんでもない花が美しく輝いて見えるのだなと思って、発信者の「生の喜び」を読み取り、それをもって理解としました。
 しかし、現実は「花」を「花」とコピーするがごときをもって理解とするのが大多数なのですから、時枝学の優位性は、いまだに微動だにしません。

 時枝学に対しては、そういう不満を持っているわけですが、利点は、なんでもない行為に対して他者への指向性を読み取り、方法的に取り入れることによって、言語科学の道を切り開いたことです。

 この点は、犯罪学はどうでしょうか?

 犯行の動機の解明にのみ眼が向けられていて、犯罪行動のもつ他者への指向性は考察外とされているのではないでしょうか。
 私特有の言い方をしますと、犯罪学の関心は逸脱的な一「点」に向けられており、自己回復的な「線」的論理には今もって目が向けられていないということです。
(犯人自らが口にするように、「誰でもいいから殺したいと思った」からではなく、彼の置かれた状況が苦しいから想いもよらぬ犯罪行動をとらざるを得なかったのではないでしょうか)


 たとえば、努力という行為があります。国語学では見えていた他者の存在が視界から消える代わり、目的や目標が強調して語られることになります。
 努力こそ目的達成のための最強の手段であるとかなんとか。

 書くまでもなく。努力するのは、受験生だけと限ることができません。
 帰りの遅い夫を寝ずに待つ妻だって、努力しているのでありまして、目には見えない妻のがんばりに対して夫が応えきらずにいますと、妻はやがてスランプに陥り、悪ければうつ症を発して、不眠等の神経疾患で苦しむようになります。
 そういう苦しさから逃れようとして、精神科医に助けを求めたところで、薬を処方するだけというのが目に見えていますから根本治癒には程遠いということになります。
 賢い妻ならば、夫との依存関係に問題の原因があると読んで、不倫をすることで発症を回避するはずです。
 この場合は、努力主体を立ち上げた際に、潜り込ませた甘えに気づかずにいると、不倫妻は願望挫折に伴う報復感情を晴らすために、愛人の協力を得て、夫殺害をたくらむ可能性も出てきます。

 このように(非自己確立者にとって)努力主体を立ち上げることは、非常なリスクを背負うことになるわけですが、罪を犯せば、そこにいたる心理過程が読めないために、まじめな?妻ほど全責任をかぶることになるのではないでしょうか。