横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

非英雄論25(終論)■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-21 21:01:01 | Weblog
池袋通り魔事件の造田博受刑囚の場合●自己愛の肥大が自己の神格化?

 ネットで造田のことを調べていたら、「造田博教」なるものがあって、それが自己愛の肥大と関係するという説が飛び交っているのが分かりました。
 これに「努力する人」と「ノストラダムスの大予言」の二つを加えると、解読のキーワードが大体出揃ったという感じですか。

「肥大する自己愛」とは、彼の周りにひとりとして愛してくれるものがいないと、彼は自身を護る必要から自己防衛機制が働いて自己愛を肥大させると考えています。
 この意味で、理解者がひとりでもいれば自己愛の肥大を抑止させると考えていましたら、ある専門家はまったく別の考え方をもっていたので仰天しました。


■斎藤本来、男の子というのは16、17歳ぐらいになるとお父さんとの対立が起こり、少なくとも精神的には・こんな家にいられるか・となるものなんです。ところが、新潟の彼の場合は、お母さんがお父さんを捨てて、彼の側についちゃった。これによってものすごく高いプライドが生まれた。だって、そうでしょう。お母さんはお父さんを捨ててまで自分を生き甲斐にしている。それほど自分はお母さんの宝物なんだって思ったわけだから。家族の中に父性が不在だから、彼の自己愛は肥大する一方ですよ。精神的には幼児そのものだから、社会に出て就職したって半年ももたない。それに、彼がギャンブラーだというのはよくわかる。ギャンブラーは、自分がいい子なのかどうかを運とか神に判断してもらいたがっているところがある。で、ときどき当たりという形で、お前はそれでいいんだよという感覚を持ちたい、つまり自己愛を肯定したもらいたいんです。当たると、自分が人生をコントロールしているみたいな感覚が持てて気持ちがいい。だけど、そういう人に限って自分の人生を自分でコントロールできていない。新潟の彼はそういう人だと思いますね。
・・・・・
『ニッポン診断』「家族社会論」より抜粋
http://www.geocities.jp/supernil_mh/sabra/sabra_3.html

 斎藤とは、精神科医の斎藤学ですね。一字一句にインパクトがあって、やっぱり違うなと思いました。
 で、驚いたのは、「家族の中に父性が不在だから、彼の自己愛は肥大する 一方」と。

 これで気づいたといいますか、自己愛を肥大させる機縁として二つがあり、母親的な理解者と父親的な保護の不在。
 斎藤は土居の甘え(理論)の延長線上で「自己愛の肥大」を語っているのに対し、私は自己防衛の必要から自己愛を肥大させるとしているわけです。
 ですから、この違いの特徴は、甘えと恐怖にあるわけです。

 彼は父親という絶対的な後ろ盾がいないから、自己愛を肥大させて、恐怖主体へと自己を同化させてくると説明するところを、斎藤は、肥大した自己愛は、ギャンブラーと「自己を同化」させるとしているわけです。

「ギャンブラーは、自分がい い子なのかどうかを運とか神に判断してもらいたがっているところがある」としていますが、これは言い換えますと、畏怖する理解者(ズバリ、天)を想定しての甘えた行為がほかならぬギャンブルということになります。

 ここでまたまた修正を余儀なくされました。というのは、父親こそ絶対的な理解者で、母親とは絶対的な保護者ということです。

 ここで、土居が心理学の考察外とした「恐怖」について斎藤がどう取り扱うかに的を絞ることにします。

■--少女を拉致して、監禁したというのが彼にとってはコミュニケーションだったわけですね。
斎藤自分が絶対的優位に立っていないと、恐くて仕方がない。彼は対等の立場の女性には近寄れないでしょう。もし彼が我慢して会社に勤め続けていたら、そこらじゅうにいる、それらしい人になっていたと思いますよ。同じ男同士では妙によそよそしかったり、傲岸不遜だったりする。でも、それはコミュニケーションするのが恐いだけなんですよ、本当は。で、ロリコン的買春でしか女性とのコミュニケーションができない。で、けっこう高学歴なのに、そこらのサラリーマンにはなりたくないとか生意気なことを言って、これは世を忍ぶ仮の姿だという意識でいつまでもフリーターを続けている。私のところにもそういう人がたくさんカウンセリングを受けにきますよ。

 引用に見られますように、「自分が絶対的優位に立っていないと、恐くて仕方がない。彼は対等の立場の女性には近寄れないでしょう」と述べていますが、彼は自己愛を肥大させた結果として、「恐怖主体」と同化していると読むべきでしょうか。それとも、女性恐怖心の持ち主であることを言おうとしているのでしょうか。
 「もし彼が我慢して・・・」とは、要するに、対人恐怖の持ち主だからといったも同然だなと解しましたが、その結果、「自己愛の肥大」が説明できない状態に陥っています。といいますのは、社会に進出できるのは、「自己愛を肥大」させたからで、その結果として脆弱な自我をよろった(異様な)仮の姿が観測されるはずで、それが観測されず且つ社会に進出できないというのは「自我の肥大」の失敗の結果といえるのではないでしょうか。
 「甘え」はさておき、「恐怖」については、便宜的な取り扱いの域を出ないといえるのではないでしょうか。
 少なくとも斎藤の論理では、殺人事件はさばけないと思いました。
 次の引用は、ソースの全文です。


父親との接触と対立で男児は精神的に成長する
--前回、男のパラサイト・シングルはさまざまな問題を起こしやすい、というお話でしたが。
斎藤本来、男の子というのは16、17歳ぐらいになるとお父さんとの対立が起こり、 少なくとも精神的には・こんな家にいられるか・となるものなんです。ところが、新潟の彼の場合は、お母さんがお父さんを捨てて、彼の側についちゃった。これによってものすごく高いプライドが生まれた。だって、そうでしょう。お母さん はお父さんを捨ててまで自分を生き甲斐にしている。それほど自分はお母さんの宝物なんだって思ったわけだから。家族の中に父性が不在だから、彼の自己愛は肥大する 一方ですよ。精神的には幼児そのものだから、社会に出て就職したって半年ももたな い。それに、彼がギャンブラーだというのはよくわかる。ギャンブラーは、自分がい い子なのかどうかを運とか神に判断してもらいたがっているところがある。で、ときどき当たりという形で、お前はそれでいいんだよという感覚を持ちたい、つまり自己 愛を肯定したもらいたいんです。当たると、自分が人生をコントロールしているみた いな感覚が持てて気持ちがいい。だけど、そういう人に限って自分の人生を自分でコントロールできていない。新潟の彼はそういう人だと思いますね。
--彼の場合、すでに中学生の頃から自室にこもりがちだったといいますから、20年の長きに渡り自己愛を肥大化し続けてきたわけですね。
斎藤もともと母親と子供の間では言葉がいらないんです。お腹空いた? うーん……とかって唸るだけですんじゃう。そこに父親という存在が介在することでかろうじて言語能力が保たれる。しかし、その父親が追い出されてしまったから、コミュニケーション能力がどんどん貧弱になっていく。彼の場合、近所との付き合いもなかったわけでしょう。地域というのは家族と並んで子供の人間関係能力を磨いていく場所だけど、それも欠けている。 一般的に言っても、今の子供は学校の中だけでコミュニケーションの練習をしようとするでしょう。でも、学校では同学年、同年齢との付き合いしかないから、多面的 な関係が築けない。障害児でもいれば、その子をみんなで支えようというように弱者を保護する精神が発達するのに、障害児はふつうの学校から排除されてしまっていることが多い。で、弱い者はいじめて支配して優越感を持つという、男のいちばん悪い面だけが出てしまう。この頃は女の子もそれを真似して、力による支配が行われてい るようですけれどね。
--少女を拉致して、監禁したというのが彼にとってはコミュニケーションだったわけですね。
斎藤自分が絶対的優位に立っていないと、恐くて仕方がない。彼は対等の立場の女性には近寄れないでしょう。もし彼が我慢して会社に勤め続けていたら、そこらじゅうにいる、それらしい人になっていたと思いますよ。同じ男同士では妙によそよそしかったり、傲岸不遜だったりする。でも、それはコミュニケーションするのが恐いだけなんですよ、本当は。で、ロリコン的買春でしか女性とのコミュニケーションができない。で、けっこう高学歴なのに、そこらのサラリーマンにはなりたくないとか生意気なことを言って、これは世を忍ぶ仮の姿だという意識でいつまでもフリーターを続けている。私のところにもそういう人がたくさんカウンセリングを受けにきますよ。
 ・母子カプセル・を生む我が子への絶対的自信
--パラサイト・シングル、社会的ひきこもりを可能にしているのは、一方では今の日本の社会的豊かさであり、他方では母親の存在ですね。
斎藤エンプティネスト・シンドローム(空の巣症候群)という言葉があるんです。アメリカ人が作った言葉だから日本の母親だけじゃないんですけれど……子供が恋人を作って、結婚して、子供を産んでといった具合にカレンダー年齢に即した成長をして母親を見向きもしなくなり、一方、夫が呆けたり、死んでしまったりすると、エンプティネス(空虚感)に取りつかれる。 ところが、子供が新潟の彼のようだと、呆けてなんかいられない。彼のお母さんも彼のために寿司を買いに行ったり、73歳になるまで保険の外交員を続けていたり、彼を何とかしようと病院や保健所に相談に行ったりしていたわけでしょう。子供がいつ跳び蹴りをしてくるかわからないから、いつも身構えて宮本武蔵状態にいなくちゃならない(笑)。つまりバカ息子、バカ娘がいると母親は呆けられない。そういう効用があるというか、母さん孝行なんです、バカ息子、バカ娘は(笑)。本来、母親という存在は子供にとって支配的なもので、子供に対して絶対的な自信を持っている。子供が暴力的になって、一見子供に屈服しているように見えても、この子は私がいなければ生きていけない、私がいるからこそ生きているんだという自信がある。子供に対していつまでも授乳感覚を持ち続け、支配し続けようとする。だから、あそこまで頑張れちゃうんですよ。
--とすると、新潟の彼と母親との支配、被支配の関係は非常に倒錯的ですね。「オレの部屋に絶対に入るな」と厳命し、奴隷のようにこき使うという形で彼が母親を支配する一方、母親は「私がいないとこの子は生きていけない」という形で彼を支配していた。
斎藤バイオレンスというのはもともとそういうものでしょう。バタード・ウーマン(殴られる女性)とバトラー(殴る夫)の関係がそうですよ。リアルな世界では妻が夫を支配し、ファンタジックな、濃密な二者関係においては暴力を介して夫が妻を支配する。それと同じようなことが親子関係でもあるんです。そういう関係を二者間でやっている家族はいくらでもある。そこに少女という第三者を巻き込んだから、新潟の場 合、事件になっただけなんです。
『ニッポン診断』「家族社会論」』
http://www.geocities.jp/supernil_mh/sabra/sabra_3.html

追記■城尾死刑囚の犯した伊藤長崎市長射殺事件は、そういう関係で、アウトローが自己愛を肥大させ、恐怖主体と同化しての犯行とみています。
 城尾の場合、前市長は利益をもたらすよき理解者であったが、伊藤市長はそういう意味での理解者でなかったことが犯行の動機になっているわけですから、理解者の存在は、自己愛の肥大を抑止させると考えています。
 と書いてみて、抑止力は、城尾にとってハンパな理解者ではなく、絶対的な親ないしは保護者となりましょうか。

 次の引用は、関連の報道記事です。

■城尾被告に死刑判決 前長崎市長遺族が会見

 去年4月、前長崎市長が銃撃され死亡した事件で、殺人などの罪に問われた元暴力団幹部に対し、長崎地裁は26日、求刑通り死刑判決を言い渡した。遺族は判決後、会見であらためて被告への怒りをあらわにした。

 元暴力団幹部・城尾哲弥被告(60)は去年4月、長崎市で市長選の遊説から戻った伊藤一長前長崎市長に銃弾2発を撃ちこみ、殺害したとされる。検察側は「自由と民主主義の根幹を揺るがす選挙テロ」として、死刑を求刑していた。

 26日の判決で、長崎地裁・松尾嘉倫裁判長は、動機について「市への不当要求が受け入れられなかったため」と述べ、殺意は「市長が4選への出馬を表明した去年2月ごろに抱いた」と認定した。その上で「暴力団による銃器犯罪の典型で、行政対象暴力として類を見ない極めて悪質な犯行」などとして、求刑通り死刑を言い渡した。

 判決後、会見した伊藤前市長の長女・横尾優子さんは「死をもってしても私たちには何も帰ってこないけど、民主主義を暴力、恐怖で破壊しようとする今回の事件、社会は、絶対許してはいけないとの強い姿勢を示してくださった」と述べ、あらためて被告への怒りをあらわにした。

 一方、懲役刑を求めていた弁護側は、判決を不服として控訴した。

[080526日20時27分更新]日テレnews24


非英雄論24(終論)■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-21 13:01:08 | Weblog
下関通り魔事件の上部康明受刑囚の場合努力する精神異常者?

 前記の行動モデルの狂いは、理解者が易変性のものではなく、恒常的な点が挙げられます。
 秀才タイプの犯人が努力主体を立ち上げて、挫折すると、不良主体を立ち上げる点は、問題はないと思っています。
 この後の未熟な不良主体がなぜ成熟した恐怖主体を立ち上げるのか、この点の説明が課題として残りました。
 力(893)への願望(反権力志向)を設定すべきでしょうか。
 下の図。

C (オモテ系)努力主体 →挫折  →不良主体 →力(893)への願望→恐怖主体
                  ↓                             ↑↓
B (ウラ系)  願望主体 →挫折  →憎悪主体 →攻撃感情     →報復主体

 見られますように、願望系の憎悪主体と報復主体の間に、「攻撃感情」をはさみました。
 この両外側に、下のような没交渉的な2者を配置しました。


A (父親系)恐怖主体  →挫折 →敗北主体 →(人間宣言?) →成人?
D (母親系)理解者願望→挫折 →理解者放棄→絶望的な法悦→神格化?


 説明はどちらも、土居のオモテとウラで可能と踏んでいますが、メンドー臭いといいますか、力不足を痛感していて隠したいと思っているのか、とにかく、説明のために頭が働かずにおります。
 また、前記の恒常性に関しては、それを認めたのではクソ面白くないので、性懲りもなく、易変性を採り入れています。

 上部の努力主体の立ち上げは、事件を起こした1999年の2月に始まると見ています。新婚旅行で行ったニュージーランドへの移住資金を稼ぐために、軽トラの運送業を始めますが、次の『事件録』の引用にありますように、「逆に行き詰ま」るとあります。

■軽貨物輸送・・・・01年の「武富士弘前支店強盗放火殺人」の小林光弘も、03年の「名古屋・立てこもり爆破事件」の別府昇も起死回生、フランチャイズの軽貨物宅配の仕事を始めるが、逆に行き詰まり、犯行の要因にもなっている。
『事件録』「下関通り魔事件」
http://yabusaka.moo.jp/simonoseki.htm

引用は、「犯行の要因」としていますが、その通りだと思います。
 できれば、努力主体の立ち上げも、要因の一つに加えてほしいです。


■【凶行】

 予定していた日の4日前の9月29日、親から「冠水した車の廃車手続きは自分でするように」と言われて「この期に及んで面倒な廃車手続きをするなんてたまらない」と腹をたて、急遽計画を変更、自宅を軽自動車で出ると、下関市内で文化包丁を購入、午後1時過ぎに駅近くのレンタカー会社に車を預け、白の「マツダ ファミリア」を借りた。そして睡眠薬を飲んだ上部は車を発進させた。

 午後4時20分頃、下関駅改札口付近は旅行代理店や売店、食堂が並び、下校途中の生徒やサラリーマンらで混雑していた。そこへ猛スピードで乗用車が駅のガラスを破り突っ込んできたのである。暴走した車は通行人7名を次々と跳ね飛ばした。改札口あたりで車を停めると、上部は文化包丁を振り回しホームに向かった。途中で1人、ホームで7人切りつけている。午後4時30分頃、そこで上部は現行犯逮捕された。結局この事件で5人が死亡、10人に重軽傷を負った。


【事件後】

供述
「社会に不満があり、だれでもいいから殺してやろうと思った」
「池袋事件のようにナイフを使ったのでは大量に殺せないので車を使った」

 上部は逮捕後、「神の指示」などと意味不明の発言を繰り返し、時に奇声を上げて廷内で暴れるなど奇行が目立ち始める。こうした行動が罪逃れのための演技であるか実であるか、精神鑑定が行なわれた。
 検察側が死刑求刑の根拠とした鑑定は、犯行時の精神状態を「人格障害が背景となった反応性うつ状態を繰り返していたが、刑事責任能力への影響はない」と結論付けた。一方、弁護側が受け入れた鑑定では「統合失調症に近い妄想性障害で、心神喪失または心神耗弱」と判断している。
(同上)


上部の精神異常●「1流大学を出た」から万能?

上部のように、外国へ移住すれば、と考えるのは、「関係妄想」様の神経症を患った漱石的な発想で、似ているなと思いました。同時に、九大に入るぐらいだから、漱石の「草枕」の冒頭の一節なんか諳んじていそうなものですが、理系は小説は読まないということでなくて、入試問題によく出るわけだから、頭に残っていない方が不思議というもんです。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角がたつ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくにこの世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安いところへ
引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、
詩が生まれて、画ができる。
(夏目漱石「草枕」より)

 対人恐怖症については、前に述べましたが、高所恐怖症に近い高位恐怖症ではなかったんですかね。
 九大なんかに入学できると大いに誇示したくなるところ、目立つことに対して萎縮してしまうタイプといいますか、自意識過剰の部分があって、本当は周囲の風景に溶け込んでしまうひとりに過ぎないんじゃないんかと思いたいんですが、やっこさんは調べてみると、188センチもある大男ですか。
 目立つのが当たり前で、頭を使うよりもレスラーに転向した方が良かったかもしれませんね。

「何をやっても成功せず、いつも自分だけが貧乏くじを引きみじめな思いをしている。中卒でもできる運送業を、どうして1流大学を出た自分ができないのか。ただでは死ねない・・・」
『無限回廊』『下関通り魔殺人事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/simonoseki.htm

 上にある「1流大学を出た自分ができない」というのは、課題に対して突破力がないことをさらけ出していると思いましたが、人生においてエレベーターのように昇降を繰り返さずにいられないのは、前記のように、高位恐怖症の影響と見ていいのではないでしょうか。
 それと「1流大学を出た」から万能という思い込みに、内閉的な生活を送りやすい上部の幼児的なナルシシズムが読み取れます。


 そういうアホみたいな夜の観念は、まず言語化してみることですね。すると、外の光にさらされることによって、色あせて見えてきます。
 それでも見えてこないときは、ブログで公開し、人の目にさらすに限ります。
 文章をチェックしてくれる人もおりますし、中には、一字一句を添削してくれる親切な方もおります。

 そういう努力を日常的に欠いたことが一番の背因(敗因?)ではなかったでしょうか。


 しかし、よくよく考えてみますと、そういう試みは、手ごたえがまるでないと、発狂するリスクを背負いかねませんから、甘えを克服してからやりましょう、ということですか???