池袋通り魔事件の造田博受刑囚の場合●自己愛の肥大が自己の神格化?
ネットで造田のことを調べていたら、「造田博教」なるものがあって、それが自己愛の肥大と関係するという説が飛び交っているのが分かりました。
これに「努力する人」と「ノストラダムスの大予言」の二つを加えると、解読のキーワードが大体出揃ったという感じですか。
「肥大する自己愛」とは、彼の周りにひとりとして愛してくれるものがいないと、彼は自身を護る必要から自己防衛機制が働いて自己愛を肥大させると考えています。
この意味で、理解者がひとりでもいれば自己愛の肥大を抑止させると考えていましたら、ある専門家はまったく別の考え方をもっていたので仰天しました。
■斎藤●本来、男の子というのは16、17歳ぐらいになるとお父さんとの対立が起こり、少なくとも精神的には・こんな家にいられるか・となるものなんです。ところが、新潟の彼の場合は、お母さんがお父さんを捨てて、彼の側についちゃった。これによってものすごく高いプライドが生まれた。だって、そうでしょう。お母さんはお父さんを捨ててまで自分を生き甲斐にしている。それほど自分はお母さんの宝物なんだって思ったわけだから。家族の中に父性が不在だから、彼の自己愛は肥大する一方ですよ。精神的には幼児そのものだから、社会に出て就職したって半年ももたない。それに、彼がギャンブラーだというのはよくわかる。ギャンブラーは、自分がいい子なのかどうかを運とか神に判断してもらいたがっているところがある。で、ときどき当たりという形で、お前はそれでいいんだよという感覚を持ちたい、つまり自己愛を肯定したもらいたいんです。当たると、自分が人生をコントロールしているみたいな感覚が持てて気持ちがいい。だけど、そういう人に限って自分の人生を自分でコントロールできていない。新潟の彼はそういう人だと思いますね。
・・・・・
『ニッポン診断』「家族社会論」より抜粋
http://www.geocities.jp/supernil_mh/sabra/sabra_3.html
斎藤とは、精神科医の斎藤学ですね。一字一句にインパクトがあって、やっぱり違うなと思いました。
で、驚いたのは、「家族の中に父性が不在だから、彼の自己愛は肥大する 一方」と。
これで気づいたといいますか、自己愛を肥大させる機縁として二つがあり、母親的な理解者と父親的な保護の不在。
斎藤は土居の甘え(理論)の延長線上で「自己愛の肥大」を語っているのに対し、私は自己防衛の必要から自己愛を肥大させるとしているわけです。
ですから、この違いの特徴は、甘えと恐怖にあるわけです。
彼は父親という絶対的な後ろ盾がいないから、自己愛を肥大させて、恐怖主体へと自己を同化させてくると説明するところを、斎藤は、肥大した自己愛は、ギャンブラーと「自己を同化」させるとしているわけです。
「ギャンブラーは、自分がい い子なのかどうかを運とか神に判断してもらいたがっているところがある」としていますが、これは言い換えますと、畏怖する理解者(ズバリ、天)を想定しての甘えた行為がほかならぬギャンブルということになります。
ここでまたまた修正を余儀なくされました。というのは、父親こそ絶対的な理解者で、母親とは絶対的な保護者ということです。
ここで、土居が心理学の考察外とした「恐怖」について斎藤がどう取り扱うかに的を絞ることにします。
■--少女を拉致して、監禁したというのが彼にとってはコミュニケーションだったわけですね。
斎藤●自分が絶対的優位に立っていないと、恐くて仕方がない。彼は対等の立場の女性には近寄れないでしょう。もし彼が我慢して会社に勤め続けていたら、そこらじゅうにいる、それらしい人になっていたと思いますよ。同じ男同士では妙によそよそしかったり、傲岸不遜だったりする。でも、それはコミュニケーションするのが恐いだけなんですよ、本当は。で、ロリコン的買春でしか女性とのコミュニケーションができない。で、けっこう高学歴なのに、そこらのサラリーマンにはなりたくないとか生意気なことを言って、これは世を忍ぶ仮の姿だという意識でいつまでもフリーターを続けている。私のところにもそういう人がたくさんカウンセリングを受けにきますよ。
引用に見られますように、「自分が絶対的優位に立っていないと、恐くて仕方がない。彼は対等の立場の女性には近寄れないでしょう」と述べていますが、彼は自己愛を肥大させた結果として、「恐怖主体」と同化していると読むべきでしょうか。それとも、女性恐怖心の持ち主であることを言おうとしているのでしょうか。
「もし彼が我慢して・・・」とは、要するに、対人恐怖の持ち主だからといったも同然だなと解しましたが、その結果、「自己愛の肥大」が説明できない状態に陥っています。といいますのは、社会に進出できるのは、「自己愛を肥大」させたからで、その結果として脆弱な自我をよろった(異様な)仮の姿が観測されるはずで、それが観測されず且つ社会に進出できないというのは「自我の肥大」の失敗の結果といえるのではないでしょうか。
「甘え」はさておき、「恐怖」については、便宜的な取り扱いの域を出ないといえるのではないでしょうか。
少なくとも斎藤の論理では、殺人事件はさばけないと思いました。
次の引用は、ソースの全文です。
父親との接触と対立で男児は精神的に成長する
--前回、男のパラサイト・シングルはさまざまな問題を起こしやすい、というお話でしたが。
斎藤●本来、男の子というのは16、17歳ぐらいになるとお父さんとの対立が起こり、 少なくとも精神的には・こんな家にいられるか・となるものなんです。ところが、新潟の彼の場合は、お母さんがお父さんを捨てて、彼の側についちゃった。これによってものすごく高いプライドが生まれた。だって、そうでしょう。お母さん はお父さんを捨ててまで自分を生き甲斐にしている。それほど自分はお母さんの宝物なんだって思ったわけだから。家族の中に父性が不在だから、彼の自己愛は肥大する 一方ですよ。精神的には幼児そのものだから、社会に出て就職したって半年ももたな い。それに、彼がギャンブラーだというのはよくわかる。ギャンブラーは、自分がい い子なのかどうかを運とか神に判断してもらいたがっているところがある。で、ときどき当たりという形で、お前はそれでいいんだよという感覚を持ちたい、つまり自己 愛を肯定したもらいたいんです。当たると、自分が人生をコントロールしているみた いな感覚が持てて気持ちがいい。だけど、そういう人に限って自分の人生を自分でコントロールできていない。新潟の彼はそういう人だと思いますね。
--彼の場合、すでに中学生の頃から自室にこもりがちだったといいますから、20年の長きに渡り自己愛を肥大化し続けてきたわけですね。
斎藤●もともと母親と子供の間では言葉がいらないんです。お腹空いた? うーん……とかって唸るだけですんじゃう。そこに父親という存在が介在することでかろうじて言語能力が保たれる。しかし、その父親が追い出されてしまったから、コミュニケーション能力がどんどん貧弱になっていく。彼の場合、近所との付き合いもなかったわけでしょう。地域というのは家族と並んで子供の人間関係能力を磨いていく場所だけど、それも欠けている。 一般的に言っても、今の子供は学校の中だけでコミュニケーションの練習をしようとするでしょう。でも、学校では同学年、同年齢との付き合いしかないから、多面的 な関係が築けない。障害児でもいれば、その子をみんなで支えようというように弱者を保護する精神が発達するのに、障害児はふつうの学校から排除されてしまっていることが多い。で、弱い者はいじめて支配して優越感を持つという、男のいちばん悪い面だけが出てしまう。この頃は女の子もそれを真似して、力による支配が行われてい るようですけれどね。
--少女を拉致して、監禁したというのが彼にとってはコミュニケーションだったわけですね。
斎藤●自分が絶対的優位に立っていないと、恐くて仕方がない。彼は対等の立場の女性には近寄れないでしょう。もし彼が我慢して会社に勤め続けていたら、そこらじゅうにいる、それらしい人になっていたと思いますよ。同じ男同士では妙によそよそしかったり、傲岸不遜だったりする。でも、それはコミュニケーションするのが恐いだけなんですよ、本当は。で、ロリコン的買春でしか女性とのコミュニケーションができない。で、けっこう高学歴なのに、そこらのサラリーマンにはなりたくないとか生意気なことを言って、これは世を忍ぶ仮の姿だという意識でいつまでもフリーターを続けている。私のところにもそういう人がたくさんカウンセリングを受けにきますよ。
・母子カプセル・を生む我が子への絶対的自信
--パラサイト・シングル、社会的ひきこもりを可能にしているのは、一方では今の日本の社会的豊かさであり、他方では母親の存在ですね。
斎藤●エンプティネスト・シンドローム(空の巣症候群)という言葉があるんです。アメリカ人が作った言葉だから日本の母親だけじゃないんですけれど……子供が恋人を作って、結婚して、子供を産んでといった具合にカレンダー年齢に即した成長をして母親を見向きもしなくなり、一方、夫が呆けたり、死んでしまったりすると、エンプティネス(空虚感)に取りつかれる。 ところが、子供が新潟の彼のようだと、呆けてなんかいられない。彼のお母さんも彼のために寿司を買いに行ったり、73歳になるまで保険の外交員を続けていたり、彼を何とかしようと病院や保健所に相談に行ったりしていたわけでしょう。子供がいつ跳び蹴りをしてくるかわからないから、いつも身構えて宮本武蔵状態にいなくちゃならない(笑)。つまりバカ息子、バカ娘がいると母親は呆けられない。そういう効用があるというか、母さん孝行なんです、バカ息子、バカ娘は(笑)。本来、母親という存在は子供にとって支配的なもので、子供に対して絶対的な自信を持っている。子供が暴力的になって、一見子供に屈服しているように見えても、この子は私がいなければ生きていけない、私がいるからこそ生きているんだという自信がある。子供に対していつまでも授乳感覚を持ち続け、支配し続けようとする。だから、あそこまで頑張れちゃうんですよ。
--とすると、新潟の彼と母親との支配、被支配の関係は非常に倒錯的ですね。「オレの部屋に絶対に入るな」と厳命し、奴隷のようにこき使うという形で彼が母親を支配する一方、母親は「私がいないとこの子は生きていけない」という形で彼を支配していた。
斎藤●バイオレンスというのはもともとそういうものでしょう。バタード・ウーマン(殴られる女性)とバトラー(殴る夫)の関係がそうですよ。リアルな世界では妻が夫を支配し、ファンタジックな、濃密な二者関係においては暴力を介して夫が妻を支配する。それと同じようなことが親子関係でもあるんです。そういう関係を二者間でやっている家族はいくらでもある。そこに少女という第三者を巻き込んだから、新潟の場 合、事件になっただけなんです。
『ニッポン診断』「家族社会論」』
http://www.geocities.jp/supernil_mh/sabra/sabra_3.html
追記■城尾死刑囚の犯した伊藤長崎市長射殺事件は、そういう関係で、アウトローが自己愛を肥大させ、恐怖主体と同化しての犯行とみています。
城尾の場合、前市長は利益をもたらすよき理解者であったが、伊藤市長はそういう意味での理解者でなかったことが犯行の動機になっているわけですから、理解者の存在は、自己愛の肥大を抑止させると考えています。
と書いてみて、抑止力は、城尾にとってハンパな理解者ではなく、絶対的な親ないしは保護者となりましょうか。
次の引用は、関連の報道記事です。
ネットで造田のことを調べていたら、「造田博教」なるものがあって、それが自己愛の肥大と関係するという説が飛び交っているのが分かりました。
これに「努力する人」と「ノストラダムスの大予言」の二つを加えると、解読のキーワードが大体出揃ったという感じですか。
「肥大する自己愛」とは、彼の周りにひとりとして愛してくれるものがいないと、彼は自身を護る必要から自己防衛機制が働いて自己愛を肥大させると考えています。
この意味で、理解者がひとりでもいれば自己愛の肥大を抑止させると考えていましたら、ある専門家はまったく別の考え方をもっていたので仰天しました。
■斎藤●本来、男の子というのは16、17歳ぐらいになるとお父さんとの対立が起こり、少なくとも精神的には・こんな家にいられるか・となるものなんです。ところが、新潟の彼の場合は、お母さんがお父さんを捨てて、彼の側についちゃった。これによってものすごく高いプライドが生まれた。だって、そうでしょう。お母さんはお父さんを捨ててまで自分を生き甲斐にしている。それほど自分はお母さんの宝物なんだって思ったわけだから。家族の中に父性が不在だから、彼の自己愛は肥大する一方ですよ。精神的には幼児そのものだから、社会に出て就職したって半年ももたない。それに、彼がギャンブラーだというのはよくわかる。ギャンブラーは、自分がいい子なのかどうかを運とか神に判断してもらいたがっているところがある。で、ときどき当たりという形で、お前はそれでいいんだよという感覚を持ちたい、つまり自己愛を肯定したもらいたいんです。当たると、自分が人生をコントロールしているみたいな感覚が持てて気持ちがいい。だけど、そういう人に限って自分の人生を自分でコントロールできていない。新潟の彼はそういう人だと思いますね。
・・・・・
『ニッポン診断』「家族社会論」より抜粋
http://www.geocities.jp/supernil_mh/sabra/sabra_3.html
斎藤とは、精神科医の斎藤学ですね。一字一句にインパクトがあって、やっぱり違うなと思いました。
で、驚いたのは、「家族の中に父性が不在だから、彼の自己愛は肥大する 一方」と。
これで気づいたといいますか、自己愛を肥大させる機縁として二つがあり、母親的な理解者と父親的な保護の不在。
斎藤は土居の甘え(理論)の延長線上で「自己愛の肥大」を語っているのに対し、私は自己防衛の必要から自己愛を肥大させるとしているわけです。
ですから、この違いの特徴は、甘えと恐怖にあるわけです。
彼は父親という絶対的な後ろ盾がいないから、自己愛を肥大させて、恐怖主体へと自己を同化させてくると説明するところを、斎藤は、肥大した自己愛は、ギャンブラーと「自己を同化」させるとしているわけです。
「ギャンブラーは、自分がい い子なのかどうかを運とか神に判断してもらいたがっているところがある」としていますが、これは言い換えますと、畏怖する理解者(ズバリ、天)を想定しての甘えた行為がほかならぬギャンブルということになります。
ここでまたまた修正を余儀なくされました。というのは、父親こそ絶対的な理解者で、母親とは絶対的な保護者ということです。
ここで、土居が心理学の考察外とした「恐怖」について斎藤がどう取り扱うかに的を絞ることにします。
■--少女を拉致して、監禁したというのが彼にとってはコミュニケーションだったわけですね。
斎藤●自分が絶対的優位に立っていないと、恐くて仕方がない。彼は対等の立場の女性には近寄れないでしょう。もし彼が我慢して会社に勤め続けていたら、そこらじゅうにいる、それらしい人になっていたと思いますよ。同じ男同士では妙によそよそしかったり、傲岸不遜だったりする。でも、それはコミュニケーションするのが恐いだけなんですよ、本当は。で、ロリコン的買春でしか女性とのコミュニケーションができない。で、けっこう高学歴なのに、そこらのサラリーマンにはなりたくないとか生意気なことを言って、これは世を忍ぶ仮の姿だという意識でいつまでもフリーターを続けている。私のところにもそういう人がたくさんカウンセリングを受けにきますよ。
引用に見られますように、「自分が絶対的優位に立っていないと、恐くて仕方がない。彼は対等の立場の女性には近寄れないでしょう」と述べていますが、彼は自己愛を肥大させた結果として、「恐怖主体」と同化していると読むべきでしょうか。それとも、女性恐怖心の持ち主であることを言おうとしているのでしょうか。
「もし彼が我慢して・・・」とは、要するに、対人恐怖の持ち主だからといったも同然だなと解しましたが、その結果、「自己愛の肥大」が説明できない状態に陥っています。といいますのは、社会に進出できるのは、「自己愛を肥大」させたからで、その結果として脆弱な自我をよろった(異様な)仮の姿が観測されるはずで、それが観測されず且つ社会に進出できないというのは「自我の肥大」の失敗の結果といえるのではないでしょうか。
「甘え」はさておき、「恐怖」については、便宜的な取り扱いの域を出ないといえるのではないでしょうか。
少なくとも斎藤の論理では、殺人事件はさばけないと思いました。
次の引用は、ソースの全文です。
父親との接触と対立で男児は精神的に成長する
--前回、男のパラサイト・シングルはさまざまな問題を起こしやすい、というお話でしたが。
斎藤●本来、男の子というのは16、17歳ぐらいになるとお父さんとの対立が起こり、 少なくとも精神的には・こんな家にいられるか・となるものなんです。ところが、新潟の彼の場合は、お母さんがお父さんを捨てて、彼の側についちゃった。これによってものすごく高いプライドが生まれた。だって、そうでしょう。お母さん はお父さんを捨ててまで自分を生き甲斐にしている。それほど自分はお母さんの宝物なんだって思ったわけだから。家族の中に父性が不在だから、彼の自己愛は肥大する 一方ですよ。精神的には幼児そのものだから、社会に出て就職したって半年ももたな い。それに、彼がギャンブラーだというのはよくわかる。ギャンブラーは、自分がい い子なのかどうかを運とか神に判断してもらいたがっているところがある。で、ときどき当たりという形で、お前はそれでいいんだよという感覚を持ちたい、つまり自己 愛を肯定したもらいたいんです。当たると、自分が人生をコントロールしているみた いな感覚が持てて気持ちがいい。だけど、そういう人に限って自分の人生を自分でコントロールできていない。新潟の彼はそういう人だと思いますね。
--彼の場合、すでに中学生の頃から自室にこもりがちだったといいますから、20年の長きに渡り自己愛を肥大化し続けてきたわけですね。
斎藤●もともと母親と子供の間では言葉がいらないんです。お腹空いた? うーん……とかって唸るだけですんじゃう。そこに父親という存在が介在することでかろうじて言語能力が保たれる。しかし、その父親が追い出されてしまったから、コミュニケーション能力がどんどん貧弱になっていく。彼の場合、近所との付き合いもなかったわけでしょう。地域というのは家族と並んで子供の人間関係能力を磨いていく場所だけど、それも欠けている。 一般的に言っても、今の子供は学校の中だけでコミュニケーションの練習をしようとするでしょう。でも、学校では同学年、同年齢との付き合いしかないから、多面的 な関係が築けない。障害児でもいれば、その子をみんなで支えようというように弱者を保護する精神が発達するのに、障害児はふつうの学校から排除されてしまっていることが多い。で、弱い者はいじめて支配して優越感を持つという、男のいちばん悪い面だけが出てしまう。この頃は女の子もそれを真似して、力による支配が行われてい るようですけれどね。
--少女を拉致して、監禁したというのが彼にとってはコミュニケーションだったわけですね。
斎藤●自分が絶対的優位に立っていないと、恐くて仕方がない。彼は対等の立場の女性には近寄れないでしょう。もし彼が我慢して会社に勤め続けていたら、そこらじゅうにいる、それらしい人になっていたと思いますよ。同じ男同士では妙によそよそしかったり、傲岸不遜だったりする。でも、それはコミュニケーションするのが恐いだけなんですよ、本当は。で、ロリコン的買春でしか女性とのコミュニケーションができない。で、けっこう高学歴なのに、そこらのサラリーマンにはなりたくないとか生意気なことを言って、これは世を忍ぶ仮の姿だという意識でいつまでもフリーターを続けている。私のところにもそういう人がたくさんカウンセリングを受けにきますよ。
・母子カプセル・を生む我が子への絶対的自信
--パラサイト・シングル、社会的ひきこもりを可能にしているのは、一方では今の日本の社会的豊かさであり、他方では母親の存在ですね。
斎藤●エンプティネスト・シンドローム(空の巣症候群)という言葉があるんです。アメリカ人が作った言葉だから日本の母親だけじゃないんですけれど……子供が恋人を作って、結婚して、子供を産んでといった具合にカレンダー年齢に即した成長をして母親を見向きもしなくなり、一方、夫が呆けたり、死んでしまったりすると、エンプティネス(空虚感)に取りつかれる。 ところが、子供が新潟の彼のようだと、呆けてなんかいられない。彼のお母さんも彼のために寿司を買いに行ったり、73歳になるまで保険の外交員を続けていたり、彼を何とかしようと病院や保健所に相談に行ったりしていたわけでしょう。子供がいつ跳び蹴りをしてくるかわからないから、いつも身構えて宮本武蔵状態にいなくちゃならない(笑)。つまりバカ息子、バカ娘がいると母親は呆けられない。そういう効用があるというか、母さん孝行なんです、バカ息子、バカ娘は(笑)。本来、母親という存在は子供にとって支配的なもので、子供に対して絶対的な自信を持っている。子供が暴力的になって、一見子供に屈服しているように見えても、この子は私がいなければ生きていけない、私がいるからこそ生きているんだという自信がある。子供に対していつまでも授乳感覚を持ち続け、支配し続けようとする。だから、あそこまで頑張れちゃうんですよ。
--とすると、新潟の彼と母親との支配、被支配の関係は非常に倒錯的ですね。「オレの部屋に絶対に入るな」と厳命し、奴隷のようにこき使うという形で彼が母親を支配する一方、母親は「私がいないとこの子は生きていけない」という形で彼を支配していた。
斎藤●バイオレンスというのはもともとそういうものでしょう。バタード・ウーマン(殴られる女性)とバトラー(殴る夫)の関係がそうですよ。リアルな世界では妻が夫を支配し、ファンタジックな、濃密な二者関係においては暴力を介して夫が妻を支配する。それと同じようなことが親子関係でもあるんです。そういう関係を二者間でやっている家族はいくらでもある。そこに少女という第三者を巻き込んだから、新潟の場 合、事件になっただけなんです。
『ニッポン診断』「家族社会論」』
http://www.geocities.jp/supernil_mh/sabra/sabra_3.html
追記■城尾死刑囚の犯した伊藤長崎市長射殺事件は、そういう関係で、アウトローが自己愛を肥大させ、恐怖主体と同化しての犯行とみています。
城尾の場合、前市長は利益をもたらすよき理解者であったが、伊藤市長はそういう意味での理解者でなかったことが犯行の動機になっているわけですから、理解者の存在は、自己愛の肥大を抑止させると考えています。
と書いてみて、抑止力は、城尾にとってハンパな理解者ではなく、絶対的な親ないしは保護者となりましょうか。
次の引用は、関連の報道記事です。
■城尾被告に死刑判決 前長崎市長遺族が会見
去年4月、前長崎市長が銃撃され死亡した事件で、殺人などの罪に問われた元暴力団幹部に対し、長崎地裁は26日、求刑通り死刑判決を言い渡した。遺族は判決後、会見であらためて被告への怒りをあらわにした。
元暴力団幹部・城尾哲弥被告(60)は去年4月、長崎市で市長選の遊説から戻った伊藤一長前長崎市長に銃弾2発を撃ちこみ、殺害したとされる。検察側は「自由と民主主義の根幹を揺るがす選挙テロ」として、死刑を求刑していた。
26日の判決で、長崎地裁・松尾嘉倫裁判長は、動機について「市への不当要求が受け入れられなかったため」と述べ、殺意は「市長が4選への出馬を表明した去年2月ごろに抱いた」と認定した。その上で「暴力団による銃器犯罪の典型で、行政対象暴力として類を見ない極めて悪質な犯行」などとして、求刑通り死刑を言い渡した。
判決後、会見した伊藤前市長の長女・横尾優子さんは「死をもってしても私たちには何も帰ってこないけど、民主主義を暴力、恐怖で破壊しようとする今回の事件、社会は、絶対許してはいけないとの強い姿勢を示してくださった」と述べ、あらためて被告への怒りをあらわにした。
一方、懲役刑を求めていた弁護側は、判決を不服として控訴した。
[080526日20時27分更新]日テレnews24