次数制限に引っかかりましたので、続きです。
再び、なぜ群集なのか?●土居の発見した「重力の法則」を援用すると・・・
これ以上は望めない答え(ベストアンサー?)を出しておいて、さらに答えを要求されるっていうのは、公判で弁護士から重複尋問を受けるようなものですから、普通のケースなら、頭のおかしくなるところです。
(取調室での容疑者への検察官尋問は、こんな甘いもんじゃない?)
ですから、この上に何の説明を加える必要があるかと思っているわけですが、とはいっても、図式だけでは説明不足は否めず、一方で、自分の力に負えない部分もあります。
たとえ不完全な説明でも、ないよりはましだろうということで始めますので、ヨロシク。
実際の対人恐怖症は、幼少期に受けた心的外傷が因となるケースが多く、長い潜伏期間をおいて突如として発症するため、症者は原因不明の症状に苦しめられます。
これを図に表わそうとすると「PTSD→対人恐怖症」となりますが、この図を採用できないのは、両者がオモテとウラの関係にあるためと考えています。
PTSDとはウラに所属するために、まさにPTSDであるわけですが、この傷の存在が治療者の協力で症者が自覚したとき、寛解の道が開けるのではないかと見ています。
この自覚レベルにあることをオモテといえるのではないかと、私は受け取っています。
図では、PTSDは願望を前提にして起こるウラの事件ですから、2番目の位置を占めます。
では、初めにある「対人願望」とは何かというと、それが土居の言う「甘え」に相当します。
この「甘え」の特徴は、いつも甘えたいというウラの感情で満たされていることです。これがPTSDなどで甘えられなくなると、「甘え」と「非・甘え」の関係が生まれ、このアンビバレンスな対処法として、日本人はそれぞれをウラとオモテとして使い分けているというのが、土居理論のコアではないかと見ました。
註:「いつも甘え」云々には、ニュートンの発見に比すべき、「重力の法則」の発見を前提にしては考えられません。リンゴは木から落ちるのが当たり前と思うように、幸せを求めるのは人間としてはあたりまえと処理するところを、土居は「心の中の重力の法則」によると見抜いたのです。
ソトの流れとして、「対人恐怖症」から「対人嫌悪症」と変化するとしましたが、女性恐怖症の例から類推したもので、「あいつの顔なんか、見るのも嫌だ」というような症例を言います。
そんな調子ですから「拒否症」に転じて、さらに、独身主義という形で、病的なゆるぎない自己を確立させる流れを言います。
他の流れについては、説明の必要ないと見ていますが、残る問題はソトからウラへと降下するかどうかの点ですか。
この点(水路)は、何を仮説するかで、説明内容が異なってきます。
私が考えているのは、挫折を回避しようとして、ウラからオモテへ逃れる心的機制の存在。
次に、逆の流れをもつ心的機制の存在。
三番目に、この往来を可能にする仮説の存在。
こういうものがあると仮定しての図式です。
説明が不十分なのは承知の上ですが、この辺で。
以上、「対人願望」についていうならば、土居の言う「甘え」を指すのではないかと思っています。
この点は、そういう理解でいいと思っていますが、もう一つの「自己願望」が問題で、潜在的な「変身願望」ではないかと。
これが、極端になると、「全能の神」を自己の姿と重ね合わせようとして、挫折するのではないでしょうか。
人間はもともと神ならぬ身ですから、「挫折」というほうがおかしいんですが、幼児的ナルルシシズムに馴れ親しんだ人は、かかる変身願望に固執したことは十分に考えられます。
上部被告に対しては、そういう見方を採用しています。
土居健郎の「オモテとウラの精神病理」のこと●小川捷之のわかりやすい解説全文つき
昔から精神科医の間で根源的な両価感情(アンビバレンツ)として囁かれていたのが「恐怖」と「願望」の2種の感情です。
現代のことは、よくわからないのですが、多分、科学的裏づけの取れない「仮説」扱いでしょうか。
これが「空説」扱いされずにいるのは、やはり、心のことを説明するのに「便利」な仮説だからでしょう。
心の説明には非常に便利であるけれど、「実説」取り扱いができない理由は、なんといっても検出ができないことと、2元論的な説明に終始する点にあるのではないかと思っています。
この背景には、1元論的な説明方法を科学的とする考えがあって、2元論的な説明方法を非科学的「魔術」的思考法と受け止められたからだと思っています。
ところが、この2元論的な問題を方法的にクリアした論文に出会って、仰天しました。
周知のとおり、土居健郎の「オモテとウラの精神病理」なんですが、「私は、これは日本人がアンビバレンスに対処する仕方であろう」と前置きして、ちょっと長いんではないのと思われるくらいの、丁寧な基盤整備に取り掛かります。
「そこでここではオモテとウラという日常語を、もちろん言葉自体が欧米語に翻訳できないわけではないが、しかし人間特有の意識構造を意味する用法は日本語以外には見当たらないことと、しかもこの言葉が比較的中立的で価値判断の意味合いを持つことが少ないので、そのまま使うことにしたいと思う」(同上)
と、断りを入れた後の切り込みが素晴らしくて、呆気に取られたというわけです。
それまでの私は、土居の書き物をかるんじる気持ちがあって遠ざけていたのですが、無論、これには理由があります。
確か、「甘えの構造」だったでしょうか。冒頭に、外国で暮らしていた子どもが日本に来て急に甘えだして困るという母親の訴えがきっかけになって、甘えを研究対象にしたとはっきりと述べています。
子どもが甘えだしたのは、場所見知りとでもいいますか、恐怖を覚えてのことですから、「甘え」と「恐怖」という二本立ての研究をスタートさせるべきところを「甘え」に限定したから、片手落ちのやり方だと思って、不満に思ったわけです。
それだけではなく、片翼の飛行なんてやがて失速して墜落するぞとまで思っていたわけです。
それが気づいてみると逆転していたといいますか、土居は成功したが私は失敗した、この明暗を分けたものとは何かと、とにかく疑問に思ったわけです(その前に、彼我を同じ土俵の上にのせて比較するなんて、雲泥の差があってはじめから比較の対象にするのが無理な話といった雑音が気になりましたので、勝手に消去いたします)。
その謎が解けたといいますか、土居はそのとき「甘え」を精神科医として心=ウラの事象であるから考察の対象として選択する一方で、「恐怖」の方を意識のオモテの事象として考察の対象外としたいきさつが読み取れたわけです。
ということは、三歳ぐらいの幼児にあらわれるアンビバレンスな態度は両価的ではあっても、根源的ではないことを意味します。
土居に言わせれば、より根源的なのは「甘え」であって、「恐怖」はよりオモテにあらわれやすい感情ということになります。
正解はどっちとかいうことではなく、そういう認識を持っていた土居は成功したが、私は「恐怖」は「根源的」との思い込みが強すぎて失敗したことに気づかされたのです。
そういう次第で、軌道修正をおこなうと同時に、土居の方法を採用してみることにしました。
ここで、土居の論文の読んだあとの自分なりの理解の内容を明らかにしますと、心にはウラがあるのみで、心にウラとオモテの2種があるのではない。それは矛盾する。根源的なものとして「甘え」と「非・甘え」の2者の平行関係を仮定して、「ウラ=甘え」と語規定を行う一方で、「非・甘え」には多義性を温存させている。そして、両者は相補性としたことで、和製構造主義的な手法をとりいれている。
しかし、土居理論は致命的な欠陥を有しているために、一時的な隆盛を極めることができましたが、それが原因の今日の精神医学の低迷を誘ったと見ています。
背景に、ヒトゲノムの解析に始まった、発達の著しい遺伝子工学?や大脳生理学?や再生医療学
?に基づく薬理学理論の優位性が存在するのかもしれません。
一方で、オモテとウラという言葉は使い勝手がいいわけで、ここから語規定を行うと、オモテは「抑圧」に関係し、ウラは「検閲」に関係している可能性があります。
言い換えますと、フロイドを超える理論が提示された可能性があるということです。
前に一度引用しましたが、再度行います。
土居は、「オモテが出来るということは現実に適応するということであり、そこには当然超自我が関与している。またウラが出来るということは本能衝動が防衛されているということであり、そこにはもちろんエスが関与している」と前置きして、次のように、述べています。
「オモテとウラの変容の第三は、オモテとウラの分化は出来ており、精神生活がこの二本立てによって行われるという原則は確立しているが、ウラの形成に不十分な場合である。ウラ付けがうまくいっていない。あるいはウラに無理なところがあるといっても良い。要するに、本能防衛に問題があるのであって、この際本来はウラにしまっておくべきものが、何らかの刺激を受けると、本人の意図に反して、オモテに顔を出すことが考えられる。オモテがウラを守らずに、かえってウラがオモテに侵入する結果となる。そして不安という現象は恐らくこのことと関係があるのではなかろうか。この種のウラとオモテの変容は日常最も頻繁に起こるものということができるのである」(土居健郎「オモテとウラの精神病理」論・所収『現代のエスプリ』127号)
『現代のエスプリ』所収の土居の論文は理論提示にとどまっている関係で、依然として私もそうですが、理解は難しく、代わりに、添付の小川捷之のわかりやすい解説の全文引用を行います。
「ここで、土居の考察した神経症の箇所を対人恐怖に読みかえて考えてみたい。まず、自--他が病気と認めるか否かという観点であるが、たしかに対人恐怖の者は、自己を問題にする意識が熾烈で、自分自身の否定的な側面を過剰までに気にし、訴えるといえる。しかし、周囲の者にとっては、その個人が自己の問題をそのように深刻なものとして悩んでいるとは受けとってはいない。特に、対人恐怖の場合、彼等は自己の小心さを隠そうとする。そして、中間的な親しさの間柄では、極めて傲慢であったり、大胆に振舞ったりする。そして、治療者などとの親密な収斂した関係では、大いに依存し、甘え、自分のことを雄弁に物語ったりする。
第三の秘密の有無に関してであるが、症者のほとんどは自己の秘密を秘密として守ることが出来ず、誰かにそれを打ちあけようとするか、もしくは、それが他の人の目に触れるのではないかと恐れる。症者には、自己の秘密を、「秘密」として自己の内に保持し続ける強固な自我は期待できないといえる。つまり、症者にあっては「オモテがウラを守らず、ウラがオモテに進入してしまう」のである。
土居は、この点に関して日本人は「甘えの感情にいつも生きており、しかも甘えはアンビバレンスの原型と考えられるので、これをさばくために、オモテとウラを使いわけることを身につけた」と述べている。日本人は「甘え」と甘えられないことからくる「恨み」の両価性の中で生きているということができる。そして、症者では、オモテとウラ、タテマエとホンネを「さばく」柔軟な自我機能が十分に機能していない。つまり、これらをさばく核になる「自分」を見失っているといえる。」(小川捷之「解説」同上所収)
註:「非・甘え」の語規定が厳密性に欠けるせいか、解説者までが「恨み」と誤解して受けとっています。