横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

非英雄論13-6■続・秋田連続児童殺人事件■宮崎事件の真犯人は、「キ奴の手」?

2008-08-07 07:06:51 | Weblog
「母親物語」、違いは、虚実であるか?●今田勇子似の畠山鈴香被告


 いま少し、宮崎について書くことのお許しを!

 独身にして男、さらに、女性とのあの経験が皆無の宮崎勤にわが子などいるはずがありません。そんな関係から手紙に盛り込まれた、わが子を失った母親物語は、まるで作り話という見方が定着してしまいました。
 仮に、そうだとしても宮崎の創作した母親物語を踏襲したような殺人事件が20年位の歳月を経て、秋田の僻地で現実に起きたわけです。
 通常は、こういうことが起きると、ドストエフスキーの『貧しい人々』のように、当時の時代を反映した出色の文学作品とかの理由を付けるなどして、「母親物語」に対して惜しみない称賛を送ってもおかしくないケースです。
 こういう点に関しては、日本人は徹頭徹尾ケチな民族ですから誰も言い出しませんが、アメリカのメデイアがこの件を知れば、即大ニュースでしょう。
(獄中の身とはいえ、宮崎は時の人として一躍クローズアップされたはず。アメリカにいれば・・・)


 いずれにしろ私たちに残された課題とは、なぜ現実に起きたかと問題化することであり、その徹底分析ではないでしょうか?
 この地道な努力を欠いて、防犯をと叫んだところで、何の意味がありましょうか?

 そのための拙考の試みと目的を限らずに、私自身の興味ごころを満たすためにも書いています。

 実を言うと、この問題に関しては、20年も前に「手が照らすMの暗域」と題した小論文(雑文)で、答えを出しています。コアは「手」は「所有欲」を表わすといったもので、文章の書き方は今でも下手ですが、この関係からか、黙殺されちゃいました。
 私は私で、これがきっかけで自分の場合は格段の環境整備が求められているのかなと反省しまして、拙論の基盤整備といいますか、一にも二にも「道」が大事だと思って、村の和尚のように竹箒を両手にもってですね、きれいに掃き清めながらのろのろの筆を運んでいます。
 これさえやっておけば、後は何とかなると思っています。ですが、読まれてのとおり、力不足は否めません。

 で、ここで書きたいと思っていることは、当時、思いついた「手」の意味と、後から思いついた「子母関係」をワンセットにした新・宮崎論です。

 まず絵画表現における「手」の持つ象徴的な意味は、前記のとおり、「所有欲」だと考えています。中には、オウム真理教の信者の子の描く「手」が八手みたいだから、それは「自由への渇望」と言った評論家がおりましたが、バカも休み休みに言えといいたくなりました。「自由」は長い足によって表現されます。
 今、名前が思い出せずにおりますが、ひとりの裸婦を中心においてその下に無数の手を描いている作品がありました(ゴッホ?)。ですから、その絵が発信しているメッセは、「お前の美しいその体がオレは欲しい。なんとしてでもオレは欲しい・・・」であり、(ゴッホならではの)地響きを伴った・なんとも浅ましいまでの・明々白々の男の欲望表現は難なく伝わってきます。

 こういうことから、ある識者から「年寄りくさい」と悪く書かれた宮崎のビデオのマニアックなコレクトは、実は、宮崎の「手」に関係するのではないかと見当を付けました。
 宮崎の手は、もうご存知のように、茶碗を持つのに糸切りに掌が回せないという障害を持っています。
 物をもらうのに、両の掌をそろえることができませんから、所有欲を満たそうと思えば、勢いしっかりと握り締める必要があるわけです。
 ですから、ここからは異常に《握り締める》欲望構造が見えてきたとしてもおかしくはありません。

 もうお気づきかと思われますが、私たちは宮崎はビデオを集めるのが趣味だから、セレブのお坊ちゃまゆえの財力に物を言わせて、6000本もの数のビデオを集めたと受け取ってしまいがちですが、そうではなく、障害のある手が「欲しい」というから、宮崎本人が買い与えたという解釈も成立するはずです。

 この関係が宮崎において成立するならば、それは宮崎の中における共依存の関係です。

 この共依存の関係こそ、子が母親をリードする子母関係ではないかと思っています。

■共依存(きょういそん、きょういぞん)とは、相手との関係性に過剰に依存し、その人間関係に囚われている状態を指す。一般的に、共依存者は自己愛・自尊心が低いため、相手から依存されることに対し、無意識に存在価値を見出し共依存関係を形成することが多い。(wikipedeia「共依存」)

概要■共依存という言葉は、学術的用語でなく、明確な定義はない。当初の定義としては、アルコール依存症患者を世話する家族が、結果として、依存症の回復を遅らせている現象を指した。この状況では、アルコール依存症患者が家族に依存するため、自立する機会を失い、家族もまたアルコール依存症患者の世話をすることに自らの生きがいを見出し、悪循環を生み出していると説明される。
現在では、単にアルコール依存症患者との関係だけでなく、「ある人間関係に囚われ、逃れられない状態にある者」としての定義が受け入れられている。例えば、暴力を振るう夫とそれに耐える妻の関係、支配的な親と愛情を受けたい子供の関係、相手から愛されることが目的となっている恋愛関係などがある。(同上)
 上にあるような、あいまいな定義にたいして、「アルコール依存症患者」を「病的主体」とし、患者を世話をする「妻や母親」などを「病的準体」(一般的には、「受動的従体」)と呼びたいと思っています。
 というのは、そのように定義を行うと、たとえば、解離性人格の疑いのある犯人を分析して、「犯行主体」と「犯行準体」という概念で、共依存関係にある複数の別人格の診断に役立つと考えられるからです。

 たとえば、宮崎の犯した幼女誘拐並びに殺害、さらに、遺体損壊は、宮崎本人の欲望を満たすためというよりは、わが子なる「手」の三重の欲望を満たすための犯行と考えられるわけです。
 三重の欲望、言い換えますと、底なしの欲望を貫く、非人間的な・快楽的なものこそ「手」ではないかと。

 一方で、公判における宮崎の何を話しかけても魚の面に水式の受信性の不在を捉えて、「主体性の欠如」といったのは、確か、芹沢俊介だったと思っていますが、その責を帰すべき犯行主体でないことからくる、ある種の自信の裏付けから生じていたのでは?


(宮崎勤の起こした事件は、どれもこれも解読記号《子(ネ)に始まる》犯罪です)