横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

非英雄論13-5■続・秋田連続児童殺人事件■彩香ちゃん殺害以後

2008-08-06 08:41:39 | Weblog
今田勇子似の畠山鈴香被告●わが子を失った「不幸な母親」役


「今田勇子」とは、連続幼女殺人鬼の宮崎勤が逮捕されるまでの間に朝日新聞本社などに「犯行声明」と「告白文」なる手紙を立て続けに送り付けた際の差出人の名前です。
 下に引用を行いましたが、不幸な母親を演じる点で、今田勇子と畠山鈴香被告は似ていると思いました。

「では、どうして真理ちゃんをあやめたかについて告白をいたします。
 私は、私の不注意からなる不慮の事故で、5才になる、たったひとりの子供を亡くしてしまいました。高齢と切開の事情で、今まで目の前にいたその子供を見ると、むしょうに、手が届かなくなる圧迫感にかられました。無念の一語で、子供をふとんに寝かせたままその日が過ぎ、頭の中もぼやけてきました。何を思ってか、砂糖湯だとか、湯たんぽを買いに行くは(ママ)、なぜか、看病のことしか頭になく、それでも、いつの間にか、防腐剤まで買ってきてしまいました。どうしても可哀そうだという思いしかなく,誰に知らせることもなく二日がたってしまいました。もう人に言えない」(「告白文」)

 見られますように、「不慮の事故で、たったひとりの子供を亡くし」た「不幸の母親」とは、初動捜査で手抜きをした警察の用意してくれた、おあつらえ向きの母親役だったのですが、なぜか鈴香被告はこれを書き換え、事件でわが子を失った「不幸な母親」役を演じます。
 犯人探しのポスターまで作り、多分、電信柱に貼り付けたことでしょう。

(ここで突然、電信柱男が乱入。ポスターをべたべた貼られてさぞや気持ちがわるかったろうって?ンなもん平気。なぜって、超人的な忍耐力がおいらの取り柄なんだもん。フン)

 このように両者は酷似しているわけですが、「犯人探し」を試しにテーマとして絞り込みますと、両者の違いがくっきりと浮かび上がります。つまり、宮崎は「犯人は、オレオレ」と自己顕示欲をむき出しにしているのに対し、鈴香被告の方は、「犯人は自分ではなく、別にいる」と、誰が見ても胡散臭いメッセを発信していたことになります。

 そういう違いがあげられる一方で、共通点は、わが子のいる死後の世界とつながった自分と、社会的な関係といいますか、社会に対して関係を築こうとしている自分というように、この点で非常に似ているといえるのではないでしょうか。

 「死後の世界」とは、誰にとっても恐怖に満ちた世界であります。これに対し、社会の方は、社会的弱者にとっては現実法則に縛られる厳しい世界ですが、多くの中産階級にとっては消費社会を生きているような、いろんな願望に満ち溢れ、同時に、実現可能な別世界であります。

 ここで難しい言い方をしますと、根源的な両価感情と言われている「恐怖」と「願望(甘え)」の二つの世界に股をかけたようなあり方が見えてくると思います。
 つまり、鈴香被告は、死後の世界を恐れて、社会の方に甘えだしているわけです。他方の宮崎は、もはや社会は甘えられる世界ではなく、怖い場所と化していて、「怖くないぞ」と虚勢を張っているわけです。
 ここで疑問が生じます。

 宮崎の甘えられる場所とは、どこか?

 それは、書くまでもなく、死後の世界です。宮崎にとってそこが甘美な世界なのです。
 一般論として言えば、快楽殺人とは、週末というご褒美の「余暇」との関連で語られます。殺すことが直ちに「快楽」を意味するのではありません。
 これは、従来の論とは別に、私が導き出したオリジナルの答えということで、誠に勝手ながら切り上げます。

註:「今から墓石をどかして骨を出すわけにはゆかないのです。私の子の骨が混じっているにせよ、真理ちゃんの骨も混じっている。誰も警察を非難しません。真理ちゃんの骨が本当に入っているからです。誰もとがめません。墓に眠っている子供には、誰一人、手を出しません。眠りをさます権利は誰にもないからです。
 ・・・眠っている霊をいじくらないで下さい。子供は、すぐにおきてしまいます。ですので、お願いです」(同上)
(見られますように、意味不明の言葉が続くわけですが、それでもお墓をスイート・ホームとしている感じは伝わってきます)

 ここで付け加えたいことは、彩香ちゃん殺害以後、それまでの父親との依存関係が切れていることです。
 言い換えますと、父親との関係が、「社会」と書き換えられていることです。

 ですから、それが非英雄の基本路線を生きらざるを得なかった者の、哀しい自己確立法なのかな思えてなりません。ア~メン。