横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

ゆるい言語の体系□横断論⑧の2

2007-11-13 04:01:26 | Weblog
お断り■改稿したところ、1万字をオーバーしましたので、2部に分けます。

「横断論⑧の1■ゆるい言語の体系」は、10月28日の拙記事です。
拙記事のURLが見つからないもので、お手数をかけます。


「神」という数学上の概念■ 《たとえば、ここに「ある」という動詞がある。ふつう存在または状態の動詞と呼ばれ、動作の動詞と区別されているものだ。「渡る」などがある点からある点への移動を表しているのに対して、「ある」はある点での停止を表しているとの認識に立つもの、といってよかろう。だが、果たしてそうか。私の考えを言えば、「ある」は「ない」から「ない」という点に向かう過程の移動を表している。こう考えてくれば、動作・存在・状態と分けることはおよそ無意味に思われる。いわゆる動作、存在、状態をひっくるめて、動詞はもっとも人間的な言葉ということができるのではあるまいか。(『讀賣新聞』)

 上にあるような高橋の動詞分類への強い拘りは、レヴェルが低すぎて、正直なところ、ついていけない面があるのも事実だが、反対に、自説の生き死に関わるような、大事な問題が隠されているのではないかと推理を働かせることもできる。
 その大事なものを見極めることは、負託されたも同然、とはいわないが、探ってみるだけの価値はあるだろう。

 ここで、高橋の仮説を借用すると、文はまず「点ありき」と説明できる。と同時に、「ある点からある点へ」と渡るものとして過程動詞化される。
 ということは、それらの文が「アチラのひとが花になって咲き顕われる」や「アチラの神が風となって吹き顕われる」という万葉集の事例にあるような、言葉のゆるい働きを示唆するものとなろうか。
 それが歌の「解釈」とすれば、「歌」がある前景としての詩情のあふれる世界の存在を示唆していることになる。
 「ある点からある点へ」という言い方が「異界から異界へ」と翻訳できることは前に述べた。
 それが「太郎は学校へ行く」という文に現れるとき、一方が異界にいる「絶対前者」ならば、他方は、もうひとつの異界にいる「絶対後者」となろう。
(例文には、絶対的な太郎と、絶対的な学校のイメージが宿る)
 高橋の説を歌のイメージに引っ掛けると、「絶対前者のいる点から絶対後者のいる点へ」向かおうとするのが過程動詞の意味となろうか。

 「絶対」という言葉に《恐怖》の意味を注入すれば、それは「神」の意義になる。
 それをせずに一個の存在と考えるならば、数の対象になる。「ゼロ」や「無限」を意味する数学論上の概念として用いることができるはずだ。
 ふつう、文というものは、前者と後者ともいうべき名詞で構成されている。間に、中間者としての名詞を入れてもいい。
 それらを主語とか目的語とか補語と呼んでいるわけだが、氏の動詞論?ではほとんど問題にしない。なぜなら、すべての表現が《ある意志》が加えられて、「ある点からある点へ」と化けるからだ。
 そういう絶対的な、あるいは、数学論的な見方が導入された以上、何が主語かと問うことは無意味になりやすい。
 仮に主語たりえたとしても、たまたまということに過ぎないのではないか。
 たとえば、次のような文例である。

  羊の群れが動く。

 もし比喩表現として眺めるならば、羊は「雲」の動くさまを意味し、「綿」の木でもかまわないし、「神々」を指すことだってありうる。
 そうした場合、どれをもって主語とすべきであろうか。ほんの一例にすぎない。
 何が主語かを問う正統派の文法論があってもいいし、それを超えようとする文法論があってもいいはずだ。

動詞の分類法■今度は、もうひとつのアプローチとして、動詞の分類法の持つ問題提起から始めたい。
 これは「・・・・動作・存在・状態と分けることはおよそ無意味に思われる」とあるように、よくよくの事情があってのことだろうから、高橋を苦しめている「事情」に迫りたいと考えている。
 氏の言葉はさらに、「いわゆる動作、存在、状態をひっくるめて、動詞はもっとも人間的な言葉ということができるのではないか」と結ばれる。
 この意味が解き明かすことができれば万々歳だが、はなから自信がもてずにいる。
 つぎの用例は、動作動詞「する」がその意味に反して、多様な解釈法が可能であることを示す。しかも、「状態」と「動作」と「過程」とそれぞれの動詞の働きに即して。

  A 太郎は(毎日)公園で野球をする(状態動詞化=文意の安定化)
  B 太郎は(その日)公園で野球をする(動作動詞化=文意の不安定化)
  C 太郎が公園で野球をする!(過程動詞化=「するようになった!」という驚きが伝わってくる)

 今度は、述語は主語規定を行うから、その規定力を用いて用例を作り直すと、次のようになる。

  A' (野球少年の)太郎は毎日公園で野球をする
  B' (いつもはしない)太郎がその日に限って野球をする。
  C' (野球嫌いの)太郎が公園で野球をする!
  D' (人殺しの)太郎が公園で幼児を金属バットで撲殺する。

 述語は主語規定を行う力があるといいつつ、D'のケースでは逆転している。
 このケースに限り、主語の方に述語規定力が認められ、述語が変質をきたしたと説明できるのではないか。
 高橋のいう過程動詞がDのケース(絶対的主語や「死」の出現)を指すものとみているが、A'、B'、C'のケースの存在まで否定するのは無理ではないか。
 それでも高橋寄りの立場をキープすると、Bのケースを無効とする考え方が生まれる結果、次のような二つの仮説が導き出せる。

  Ⅰ 文意は、常に安定を保とうとする。
  Ⅱ 文意が不安定化した場合、動詞機能は過程化して安定を図ろうとする。

 Ⅰ説にある文意の安定化にかかわるのが述部動詞の状態的な機能と考えている。
 Ⅱ説の不安定化に関係するのが動作的意味で、その克服に過程的な働きがかかわるのではないか。
 とすると、Ⅰ説にある状態動詞の存在まで否定はできないはずだ。

註3)動詞活用で「行く」をもって、終止形とすれば、音楽の演奏の終りのごとき印象を与えかねないが、実際は、封印したにすぎず、「文」の持つ興奮状態は解消されていないと考える、この立場は、今でも変わらない。
 たとえば、「太郎は本を読む」という例文において、文意の安定を読むか、不安定を読むかで、両者の態度はおのずと異なってくるだろう。
 言葉は悪いが、かかる表現に対して平然とクリアできる鈍感な者が文法研究に携わっている面のあることは否定できないのではないか。
もう一例挙げると、「I have a pen.」を直訳して「私はペンを持つ」と口にでもすると、聞き手の側は「えっ、何が言いたいの?」と思うことだろう。
 こういう例があることから、活用形に言う終止形とは、神語りを誘発する止め方と認識している。



 ここで、さらなる高橋寄りの立場をキープすると、「太郎は毎日公園で野球をする」という文意の安定した文はあることはあるが、それは「人殺しの太郎が毎日公園で幼児を金属バットで撲殺する」といった解釈上の文を喚起する以上、状態動詞文の存在は怪しくなるから、あるようでないに等しい・・・。
 例文が例文でなくなるという異常事態が起きているとすれば、見せ掛けの例文の持つ状態の機能さえ無効とする考え方が生まれてもおかしくはない。
 それが「高橋を苦しめている」とすれば、文法学上のばかばかしい俗説が世にはびこりすぎのせいとなろう。

 残された結論部分--私が「ここにある」とは、詩情に支えられてあるように「動詞文」もそういう在り方をする以上、「動詞こそは最も人間的な言葉」とする、でいいのではないか。
 第一原因としての「詩情」の存在を仮定すれば、「動詞=私=人間」という等号的関係が易々と導かれると思う。

 この場合の人間とは、理想的なモデルのそれではなくて、戦後的な全敗的な気分に満たされた人間存在とか、人間自身が人間であることに耐え切れなくなって、変身願望を持ったり、超越的な存在を希求する哀れな人間の類であろうか。
 とすると、スーパー機能を持った動詞のイメージとは、相反するものとなろう。

 それでも見果てぬ夢を見るが故に・・・・淋しい、淋しいと嘆くばかりの、それこそ本来的な人間というものの、赤裸々姿というのであろうか?



文とは、数式である■この章の終りに、高橋の説によって仮定された、もうひとつの動詞的時間説について。
 ここでは一例として、文を計算過程と捉え、文のもつ「解」を導き出したいと考えている。
 高橋先生にはまことに申し訳ないが、ここは真打を務める。

 認知言語学でいう「相同性」を使うことからはじめる。
 「相同性」とは、「ある領域Aに属する要因としてaとb、それとは別の領域Bに属する要因としてcとdとの関係にひとしい場合、aとb、および、cとdとの間の関係は相同的である」とする。
 たとえば、ドライブでA点とB点の間の距離が一〇〇キロだとすれば、車で平均時速四〇キロで走れば、走破するのに二時間半を要することになる。
 これと同じような「解」の出る事例を「太郎は学校へ行く」という文表現の中に見出すことができるだろうか。

 この場合、「解」が「未来の意味」とおけるならば、それはドライブにおける「解=二時間半」にほかならず、地点AとBの距離が「一〇〇キロ」とか「平均時速四〇キロ」とかは、解を導き出すための「導因」とみなすことができる。
 文表現における「解」として、加え算による「和」があると仮定するとき、文「太郎は学校へ行く」における「太郎」と「学校」は単なる名詞ではなく、和を導くためのふたつの「導因」とならなければならない。
 このときの和を「太郎と学校はひとつになる」とおく。

 解としての「和」がいま少しわかりにくいと思われるので、もう一例だけ示す。
 売買動詞は、もともと、往復的な意味を持っている。文「太郎は花子に本を百円で売った」では、文の持つ「和」は、太郎が「百円を所有」する一方で、花子は「本を所有」と説明できる。
 それぞれの解を正と負の「和」と呼ぶこともできる。

 この文における「和」は、ドライブでA点からB点へという旅において、旅の目的地にたどり着くことで得られる「解」でもある。註3)
 この意味では、「未来の意味」としての両者の「解」は異にする。しかし、「解」を導く点において両方の二つの導因は同じ性質を持つといえる。
 「導因」であることは、すでに「要因」としての要件を満たしているから、両者は相同性と合同性のはざまにあるといえ、この意味で、準合同的な関係にあるといえるのではないか。


註4)点と線からなる図形的な意味が漏出してくるから、文と数式の平行関係が破られる。
 つまり、文とは、数式でもあり、図形的でもあるために、単一的な数式的なモデルを拒否している。

註5)数学と詩は、最も縁遠い関係のように思われるかもしれないが、実は、イメージで密接するジャンルといえる。言葉の意味を追求することが苦手な代わり、イメージの想起の才のある人が数学者であり、詩人ということだ。
 計算に関しては、教え込めば類人猿は速い、という報告がある。これは猿にとって数がイメージとして捉えることができたからだと考えている。
 言葉には、このような意味とイメージの他に、シンボルを加えて、3つの意味を持つと考えている。このうち、緩いものといえば、やはり、イメージであろう。
 シンボルは、イメージが地に喩えられるならば、天である。


註6)第一原因としての詩情とは、怠惰な病者の意識を満たしているものをいう。この意味では、潜在意識を指し、自覚できないまま、潜在意識で侵された意識状態をいう。
 甘美な想念が滾々と湧出するなど、「願望」で彩られた潜在意識は、大脳の中の太陽ともいうべき海馬の働きに負うと推定している。太陽が周期性を持つように、海馬の働きも周期性を持つと考えられる。
 高橋のいう「詩情」が私のいうがごときのものと違うのか、あるいは、同じなのか、今の時点ではわからない。
 詩人が詩情を云々するのは、言い換えると、病者の意識を第一原因とすることだから、狂気と紙一重といえる。
 一方の数学者の親しんでいるはずの数のイメージとは、良性のイメージと考えている。
 悪性のイメージで満たされた病者の意識の掃除役を務める良性のイメージで、ここにはアポロンの神が宿ると考えている。
 アポロンとは、ギリシヤ神話に登場する神であるが、精神の秩序・回復を司っているから、精神分析的な精神科学が導入する以前は、精神病の治療に一役買っていたのではないか。
 アポロンの神、つまり、数のイメージを想起することが、精神病の治療に役立つ、っていうことじゃないのかな。

 詩で言えば、これに近いのがフランスのサンボリズムの精神ではないかと思っている。
 サンボリズムの精神は、一部を書いて全体を照らす点にあると伝えられるが、良性のイメージ効果は付随的なものであったとしても(中世の暗い意識からの解放に貢献という)精神史の上で、もうひとつの評価を与えるべきではないかと思っている。

 今述べたような二種の詩について、代表的な二人を挙げるとすれば、独のリルケと仏のボードレールあたりかな・・・。

 ちなみにニーチェは、生の深淵を覗き見た天才的な、独逸の誇る哲学者のひとりだが、晩年はその深淵に呑み込まれたと思っている。


改稿のお知らせ■横断論Ⅷ□ゆるい言語の体系

2007-11-13 03:51:12 | Weblog
 説明不足等を補うため、次のように「註」を添えるなど、改めました。
 今後も引き続きご愛読とご批評をお願い申し上げます。


註1)■「名でもて明らか」は、高橋の説に負う。
 参考までに、高橋の「名」に対する考え方を紹介する。

《名とそれを包む闇について考える。
 ・・・幼い私たちは大人たちから闇を怖れることを教わったものだ。闇に克つ、といわないまでも、闇に耐えて生きる呪法として名を知ることを教わったものだ。あれはクスノキ、あれはギシギシと教わるたびに、闇はそれだけ少なくなった気がした。・・・
(『恋のヒント』小沢書店)

 見られるように、高橋の「名」に対する考えは、どのページをめくっても同じで、「照明」機能を説いている。


註2)別解(「名=装」説)■「名」に神が宿る。
 故に、ボデイは切り捨てられる。
 故に、女性は美顔術を施す。
 故に、売春業が成立する。
 故に、「顔面」機能の存在が露わになる。
 故に、装うところに、神宿りとなり、「名=装」説が浮上してくる。

 個人的な意見としては、「名をもて物をことわり、装をもて事をさだめ」とするよりは、「名をもて事をさだめ、装をもて物をことわり」とした方が、わかりやすい。というのは、その土地で暴れる竜を鎮めるために冠したものが「地名」にほかならないからで、この場合は、「装」の意義が定まらなくなる。
 逆に考えると、用言を「装定」とした成章の、喝破というか、観察眼の鋭さが光りだす?

註3)動詞活用で「行く」をもって、終止形とすれば、音楽の演奏の終りのごとき印象を与えかねないが、実際は、封印したにすぎず、「文」の持つ興奮状態は解消されていないと考える、この立場は、今でも変わらない。
 たとえば、「太郎は本を読む」という例文において、文意の安定を読むか、不安定を読むかで、両者の態度はおのずと異なってくるだろう。
 言葉は悪いが、かかる表現に対して平然とクリアできる鈍感な者が文法研究に携わっている面のあることは否定できないのではないか。
もう一例挙げると、「I have a pen.」を直訳して「私はペンを持つ」と口にでもすると、聞き手の側は「えっ、何が言いたいの?」と思うことだろう。
 こういう例から、活用形に言う終止形とは、神語りを誘発する止め方と認識している。




註4)点と線からなる図形的な意味が漏出してくるから、文と数式の平行関係が破られる。
 つまり、文とは、数式でもあり、図形的でもあるために、単一的な数式的なモデルを拒否している。

註5)数学と詩は、最も縁遠い関係のように思われるかもしれないが、実は、イメージで密接するジャンルといえる。言葉の意味を追求することが苦手な代わり、イメージの想起の才のある人が数学者であり、詩人ということだ。
 計算に関しては、教え込めば類人猿は速い、という報告がある。これは猿にとって数がイメージとして捉えることができたからだと考えている。
 言葉には、このような意味とイメージの他に、シンボルを加えて、3つの意味を持つと考えている。このうち、緩いものといえば、やはり、イメージであろう。
 シンボルは、イメージが地に喩えられるならば、天である。


註6)第一原因としての詩情とは、怠惰な病者の意識を満たしているものをいう。この意味では、潜在意識を指し、自覚できないまま、潜在意識で侵された意識状態をいう。
 甘美な想念が滾々と湧出するなど、「願望」で彩られた潜在意識は、大脳の中の太陽ともいうべき海馬の働きに負うと推定している。太陽が周期性を持つように、海馬の働きも周期性を持つと考えられる。
 高橋のいう「詩情」が私のいうがごときのものと違うのか、あるいは、同じなのか、今の時点ではわからない。
 詩人が詩情を云々するのは、言い換えると、病者の意識を第一原因とすることだから、狂気と紙一重といえる。
 一方の数学者の親しんでいるはずの数のイメージとは、良性のイメージと考えている。
 悪性のイメージで満たされた病者の意識の掃除役を務める良性のイメージで、ここにはアポロンの神が宿ると考えている。
 アポロンとは、ギリシヤ神話に登場する神であるが、精神の秩序・回復を司っているから、精神分析的な精神科学が導入する以前は、精神病の治療に一役買っていたのではないか。
 アポロンの神、つまり、数のイメージを想起することが、精神病の治療に役立つ、っていうことじゃないのかな。

 詩で言えば、これに近いのがフランスのサンボリズムの精神ではないかと思っている。
 サンボリズムの精神は、一部を書いて全体を照らす点にあると伝えられるが、良性のイメージ効果は付随的なものであったとしても(中世の暗い意識からの解放に貢献という)精神史の上で、もうひとつの評価を与えるべきではないかと思っている。

 今述べたような二種の詩について、代表的な二人を挙げるとすれば、独のリルケと仏のボードレールあたりかな・・・。

 ちなみにニーチェは、生の深淵を覗き見た天才的な、独逸の誇る哲学者のひとりだが、晩年はその深淵に呑み込まれたと思っている。


横断論⑤■「理解」の方程式□鏡像

2007-11-09 14:44:08 | Weblog
時枝の言語過程説との巡り会い■高橋の提示した動詞の問題について他に解決の助けを求めて出会ったのが、時枝誠記の国語学論であった。

 なぜ時枝だったのか?

 それまでに研究テーマに沿って数限りないほどの文法学書や語学書などを読み漁りながら、ひとつだけテキスト『国語学原論(岩波書店)』として採用した理由について、今整理してみると、次のような三点が挙げられる。

  A 仮説そのものへの関心。
  B 個々の木よりも、森の全体像に魅かれた。
  C 逸脱した所に魅かれた。

 問題はそれ以上に、今それらの理由について説き明かすことにどんな意味があるかであり、弊論それ自体の持つ意義ではないかと思われる。
 明らかに内発的な、この厄介な問題に対して、時枝は国語学の自由化を控えて、国内の火急の問題とした上で自らの論述を正当化したことは歴然としている。
 もとよりこの種の仰々しい大義を弊論に望む事自体が無理な話で、自分自身の学生時代の経験に照らしても、方言への露骨な介入などを通して権威を保とうする国語学への嫌悪感は終生捨てきれずにいる。
 であるから、ここでの試みは、逸脱以外の何者でもなく、それゆえの逸脱論であり、ただの私論としての位置づけでしかないことを断っておく。
 「文法論」という俗称の採用も、その辺にある。
 さて、Aにある仮説への関心だが、時枝の提唱の「言語過程説」を指すことはいうまでもない。が、正体不明の怪説といった印象は、今でもぬぐいきれずにいる。
 もともとは、高橋の動詞説によって興味を持ったことで、関心は両説はひとつに重ねられるのではないかという一点に関心を集めたが、どうなるかはお楽しみ。「

 私見によると、「言語過程」観とは、言語の化ける仕組みを明らかにしょうとする宣長に始まる国学的立場の、伝統的な言語観である。ポイントは、「風が吹く」という文が時として「神風が吹く」と解釈できる点にあり、こういう<化ける>事例が万葉集において頻出することはいうまでもない。
 だから、万葉集などの古典に事例を求めて、「言語過程」説を立ち挙げなかったのかと、その点に恨みが残った。
 では、「風が吹く」という文がどうして「神風が吹く」と解釈できるのか。

 この点の詳述は次章に譲るが、高橋の動詞説にキーが隠されていた。
 例文の「吹く」は、風自らの行う動作でありながら、風の本来的な状態をさし表す動詞である。しかし、「過程」という働きを仮定するとき、例文からは<神が風に化けて>というひとつの意味が生まれてくる。
 高橋の説くようにーーといっても、説はそこまで踏み込んでいないのだが、言葉の化ける仕組みが動詞にあり、「過程」的な働きに負うとすれば、時枝の言語過程説は浮き上がってこよう。

 次に、Bの「森の全体像」だが、はじめに個々の木ありきといったヨーロッパ式の観察内容には、まるで関心のないことはすでに明らかだと思う。
 「国語学の森」といった、鬱蒼とした・くらいイメージが好みなのであり、特に、ゲームとしての迷路。したがって、迷い込んだ地点を起点として出口を求めることに、生のエネルギーの大半が費やされる。
 この成功によってもたらされる純粋なご褒美とは、アメリカ的な「戦勝気分」である。

他説への「介入」の問題■確かに、こういうゲーム設定は、だいいちおとなげのないことであり、口にすること自体が恥ずかしいし、品位や誠実さに欠けることも事実である。
 翻って、問題点の多い、一種おいしそうなブランドの論述に対して、どんなアプローチが可能であろうか。
 問題は、「大義」は捨てた。次に控えているのは、「介入」の問題である。
 もし必要な手続きの手間を省いて、介入をやれば目に余る言葉の暴力と受け取られる可能性がじゅうぶんに考えられる。
 言論の自由といったところで、建前に過ぎず、権威は一介の狼藉者の暴走行為とみなす限り、いささかも揺るがず依然としてそびえたったままである。
 もし、正式の手続きを踏み、「介入」の問題がクリアできたとしても、事態はまるで変容していない現実に遭遇することも考えられる。
 それはそれでいたし方のないことで、ただペン葬の件は、歴史的事実として残る。

 「介入」の問題は、従来のやり方を踏襲することで、解決の道が開けようか?

 つまり、自説を唱えた後、他説をなぎ倒すやり方(アニキのように)。これは、その実、問題の本質的な解決にはなっていない。
 なぜなら、「他説」とは一般的にはある場所に眠った状態で保管されてあり、「自説」に対しては反撃は無論、「介入」のないものであるからだ。
 ただ自説から他説への働きかけとしての「介入」が白昼堂々と、いわばペーパーの上で「日常化」しているだけで、棚上げの状態であることになんら変わりはない。
 ここでもし、自説の提唱を取りやめて、言い換えると、自衛のポーズを捨てて、「介入」を引き起こすとどうなるだろうか?

 ここにいたってはじめて、「アグレッシブ」の問題に突き当たる。才長けた者は、それを「真剣」と知らずに振り回したために、自らの一生を台無しにした例の、数限りのないことは言うまでもない。

 先へ進みたいから、「介入」の問題解決の現代的な方法を簡単に示しておく。
 それは「解体」と「再建」をセットにして提示するもので、論述の持つ欠点を「逸脱」として俎上に載せ、すぐその後においしい料理として食卓に並べてみせることである。
 具体的には、「逸脱」は複数箇所にのぼるから、逸脱を「点」と設定し、「点」と「点」を結びつければ、「線」としての論述が生き返ることになる。
 ここまでしてあげると、「アグレッシブ」は活剣として見直されるのではなかろうか。

 さて、Cの「逸脱」だが、当然のこととして、それをそれと判定する基準の問題に突き当たる。 自説や他説の利用を除いて、絶対的なものさしがこの世に存在するのだろうか。
 答えはすでに明らかである以上、自身の観察眼に頼るしかなく、そこに時代の制約や眼力の限界や私情の混入といった問題の余地が生じてくるが、所詮は、一介の人間のやることだから何がおきてもおかしくはなく、そう思ってご許容願うしかない。

 まずは、文体の検討から入る。
 時枝は文とは思想なりの考えを文体において著わしたもので、この点をクリアできれば、時枝の言語理論は理解に難いものではない。
 次は、序において、「いはば言語の本質が何であるかの謎に対する解答」と前置きした上で、時枝の提示した理論上の仮説である。

《・・・・・私は、言語の本質を主体的な表現過程の一の形式であるとする考に到達したのである。言語を表現過程の一形式であるとする言語本質観の理論を、ここに言語過程説と名付けるならば、言語過程説は、言語を以て音声と意味との結合とする構成主義的言語観或いは言語を主体と離れた言語実体観に対立するものであって、言語は、思想内容を音声或いは文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体であるとするのである。『国語学原論』(岩波書店)

 実をいうと、前に書いた引用部分に目を通してみたところ、上の棒線部分が気になって、原文と照合してみたところ、誤植でないことを確認した。
 自分の目を信じるしかないが、それを述語表現からの逸脱とおく。
 それを「帰点」とおくと、起点を引用の中にある「言語の本質を主体的な表現過程の一の形式」とする考えにおく。
 というのは、「主体」的である限り、「本質」的な問題解明へのアプーローチ法にはならないからである。それはローカルな言葉の説明には役立っても、それ以上のものではない。
 一方の「のである」は、文末の細部に拘泥した一種の抑えすぎで、言い換えると、「吾かく思う」と念を入れ込みすであろう。これを「細部的な粗雑さ」と称したい。
 粗雑な表現のおかげで「吾輩は大学者である」といった読み手に対して格上とする、尊大な主体的な表現方法が成立する。
 これを逆にして読み手に対して格下とする主体的な・粗雑さの混入した・表現方法とは、「なのです」調を指すことはいうまでもない。
 この両者をつなげてよみがえる線的な意味とは、敬語の「です」や「のである」といった主体的な表現方法は、わが国の伝統的な文章作法にかかわる、瑣末にして国語教育上の中心課題ということではなかろうか。

時枝の説と逸脱論の方法■ここで試みに、「起点」をそのままにして、「帰点」を奥付に求める。
 奥付にある第一刷発行の日付は、昭和十六年十二月十日。発行の日付に問題があるのではなく、同年同月八日の日本海軍の真珠湾奇襲攻撃と軌を一にする点にある。
 その日付の持つ意味が歴史的な逸脱と書くと、いささか矛盾した意義が含まれるが、大筋において良しとしたい。一方の粗雑な主体的な表現方法である「のである」は、尊大な意味が浮上することはすでに述べた。
 ここで、当時の時代を背景に置くと、時枝の国語学思想の「防波堤」となるべく気負った意識がみえてくる。
 といっても、両者を結び付けて生じる線的な意味はねじれているから、論述的な意味としては不適切である。というのは、もし逸脱が一部の将校のフライングのせいであるとするならば、時枝の「防波堤」とする意識はそれに反している。反対に、時枝の「防波堤」たらんとする意識が逸脱とするならば、将校のフライングは正当化できる。
 このように両者の関係がねじれている以上、線的な意味としては採用できない(両者間の逸脱的関係は、「特異点」とも言うべき中点の仮設によって線的論述は、劇的に回復するという考え方もできる)。

 今見たようなやり方が揚げ足取りに過ぎないことも十分承知している。であるから、理論そのものに触れてみることにしたい。
 次にある三角形は時枝のオリジナル作品で、言語の存在条件としての「主体「(話し手)」「場面(聴き手)」「素材」の三者の関係を三角形になぞられたものである。

              ・場面
              |
  素材・          |
              |
              ・主体

 問題は、上の三角形にある「場面」で、その導入は時枝の言語理論の破綻を意味するのではないか。
 というのは、一般的にいう言語とは緊張関係にある何かであって、「場面」というゆるい空間で生起する言語的現象を指すのではないからだ

 たとえば、「太郎は学校へ行く」という文にある緊張関係は、太郎と学校を結ぶ緊張した線的関係を前提として、「太郎」という主体的機能を持った主語が学校までの間を移動することを意味する。そこに「あくびをしながら」というゆるい要素が取り込まれたとすると、「昨夜は遅くまでテレビゲームに興じていたから」という説明文を後に付け加えることで、前文の持つゆるい要素は即座に排除される仕組みといえないだろうか。
 仮に、「太郎はあくびをしながら学校へ行った」という文がチェックを受けずまかり通ることがあるとすれば、フレーズはその緩さゆえにイメージ(=歌)として立ち上がってくる可能性がある。あるいは、「夜が遅かったから」と説明不足を補うことで、その文の持つ不安定さを打ち消そうとするだろう。
 ほかには、三角形の輪郭を意味する線について、「三者は相互に堅き連携を保ち」とあるように、文のいちファクターとしての線の認識の遠いことが窺える。
 この言語理論からの脱落を逸脱とし「起点」とすれば、「帰点」を時枝の説くところの文の性質規定に求めたい。

Ⅰ 具体的な思想の表現であること。
Ⅱ 統一性があること。
Ⅲ 完結性があること。

 上のうち、Ⅲの完結性は三角形のもつ「出口のない」円環構造から生じる論理的帰結と思われるが、採用しがたく思っている。
 時枝もまた不採用の立場を採用しているらしく、「裏の小川はさらさらと流れ」を引き合いに出しながら、次のように一種常識的な説明を行っている。

《という表現においては、陳述は零記号の形式で存在はしているが、それが「流れ」という動詞の連用形が示すように、完結しないものとなり、この表現全体がある統一を得ながら、更に展開する姿勢を取っている。・・・・この表現が文であるためには、表現の最後が、終止形によって切れる形をとることが必要な条件となる。(時枝誠記著『日本文法-口語篇』岩波書店)

 見られるように、「形」にウェートを置いた論定は、時枝らしからぬやり方で、理論との不整合を指摘するだけで十分であろう。
 なお、私見は、引用の「裏の小川」云々は、出所は不明だが、ゆるい形で終わっているから、歌=イメージが立ち上がるという見解を採る。
 ここで、両者を結んで生き返る線的論述として、具体的な言語体験から抽象化して理論的な言語のモデルを提示するならば、次のようになる。

      C
  A・--・--・B(A=話し手、B=聞き手、C=素材「もしもし」)

 上は、駅前広場で、話者彼が「もしもし」と呼びかけたところ、相手が日本語を解せぬ外国人であったため無視されたが、たまたま通りがかりの別の日本人が聞きとめたことにより、完成した言語回路の図式である。さらに、図式は、「太郎は花子に本を貸した」という4語文のモデルにもなるのだが、この点は、次章で述べる。

 ついでに、二語文についての見解を簡単に加える。「風吹く」等の文は「花は美しい」という形容詞文のカテゴリーに属すること。これらの文は緩い体系に属するもので、日本語には陰と陽ともいうべき二種の言語体系が混じた独特の言語的特徴を有することを書き加えたい。ここで留意されたいことは、「場面」というタームに象徴される、緩い言語の体系の掘り起こしに尽力した点において、時枝の業績は再評価されてしかるべきことを。さらに言うならば、高橋の動詞説がこの緩い体系の存在を鋭く言い当てていることも。


「理解の方程式」としての言語の過程■最後に、時枝のいう「純物理的」な「言語の過程」を取り上げる。



(画像で、充当)



 上は、前掲書の九十一ページにある図解のコピーだが、一読するとわかるように、話者と聴者が空間伝達過程をはさんで、「鏡像の関係」に立っている。図は、時枝の説明に従うと、具体的事物としての「花」を話者が概念化、聴覚映像化、音声化という三段階を経た後、空間伝達過程を通過して、彼方にいる聴者は耳にした「ハナ」という音声を聴覚映像に直し、概念化して「花」と理解するにいたるまでの道筋を表している。
 図解は、当時の教授と学生の関係を表している。ちなみに、再現すると、教授が「花」と黒板に書くと、学生は黙したまま「花」とノートに書き写す戦前の講義風景である。そこに、ゴッホの描く「花」や「氷の花」というさまざまな聴覚映像が十人十色であるにもかかわらず、個人差がまるで認識できていないことを明示している。 
 図の持つ逸脱を「起点」と置くと、「帰点」を詞辞説に求める。
 この詞辞説は、今日の国語学の正統派的な位置を占めるひとつの学説である以上、それへの口出しは重大な問題を引き起こさないともいえない。世界の転覆は、杞憂であるかもしれない。自分にあるのはそこまでやっていいのかという、ただの倫理的な問題であり、それが解決できない限り、それへの論及は避けることのほうが賢明と考える。
 しかし、この問題は詞辞説を「逸脱」とおかず、旧来型のどこにでもあるような批評方法を試みるだけでクリアできるはずだ。なぜなら、言論の自由を基盤として花開いた現代思潮のひとつである戦後批評の流れに即するからだ。

 と、以上のような検証を通して、時枝のいう「理解」とは、あくまでも椿事に類する出来事だと受け取るにいたった。いわば「鏡」で隔てられた彼方、要するに、神の領域で実現可能と妄想しているのが時枝の特徴的な考え方と解したのだ。
 言語過程説とは、聖俗の二つの過程がワンセットになる仕組みのもので、先の図でいえば、遂行課程の俗性を受容過程の聖性が包み込んでいるのだ。したがって、時枝のいう「志向的対象となる処の聴手」とは、「聖なる聴者」をさして、いうなれば「単なる聴手」を想定しているのに対し、他方では、俗なる聞き手には「受容者であれ!」という悲鳴に近い願望の盛り込みが読み取れよう。繰り返すが、「理解」とは神事に他ならない。
 聖俗のワンセットなるものが、例の詞辞論と思われる。

《詞如 寺社 手爾波者如 荘厳 以 荘厳之手爾波 定 寺社之尊卑

 上の「定家の著と伝えられる手爾波大概抄」の一説を引用して、時枝は「寺社とその荘厳とはまったく別の次元に属するものであり、荘厳は寺社を包むところのもの」と解釈を示した上で、

《詞は、「山」「川」などの客体化して表現するもの、
辞は、「テニハ」などの主体的に表現するもの、

 と説明して、当時の国語学界を一時混乱に陥れたように、別の著書(『遺稿論文集』〉では受け取った。この場合の「主体的表現」とは、包容する「甘いオブラート」に相当しよう。
 とすると、先の図解で「純物理的」と称した意味が解けやしないだろうか。つまり、「ハナ」という音声には、味もそっけもないとでもいうような。

《・・・・・国語はその構造上、統一機能の表現は、統一され、総括される語の最後に来るのが普通である。

    花咲くか。

 といった場合、主体の表現である疑問「か」は最後にきて、「花咲く」という客体的事実を包み且つ統一しているのである。この形式を仮に図を以て表すならば(図示困難のため、省略)、

 |花咲く|か|  或いは   花咲くか
        
の如き形式を以て示すことができる。この統一形式を風呂敷型統一形式と呼ぶことが出来ると思う。(前掲書二三九-二四〇頁)

 上にある「風呂敷」が「神的なもの」と理解したうえで生じる問題は、それが「幻想」であるか否かであろうか。幻想だとしても、聖俗がワンセットになる在り方、たとえば、神人を代表として、四十八士や勇猛果敢な兵士などは、典型的な日本人である一方で、ごく平均的な日本人でさえ、包まれて在る、という幸せの意識は持っているものだ。それが「安全」であったり、「理解」であったり、「潔白」であったり、「救い」や「祈り」の違いがあるけれど、全般的に「理解」は神事とする考え方に変わりはない。そういう聖俗が一体化した、本来的な在り方を時枝は言語に見ようとしたのではないか。

 今すこし補説を行うならば、時枝の言語過程説とは、「はじめに詞辞論ありき」で、理論的背景として言語過程観の樹立を試みた事情である。これには、ソシュールの言語理論の国内輸入によって、伝統的なものが危機に瀕するとの切迫した想いが引き金になったのであろう。この場合の伝統的なものとして、「祝詞」や「うけひ」の例を挙げるだけでいいだろうか。
 「祝詞」などを思い浮かべるとき、時枝のいう「聴手は同時に場面である」や「主体的な表現過程」の意味が理解できるように思えてならない。おそらくは、古代人にとっては言葉とは「事件」を惹起するものとして、みだらな使用はタブーに近い、禁制が敷かれていたことだろう。文字にしても「シルシ」の顕われとして、読むことはもとより目に触れるだけで、パニックに陥ったのではなかろうか。

追記■時枝の言語過程説は、未完の言説である。詞辞説が完成した説といえるならば、言語過程説もそのような形で完成すると考えるべきである。
 時枝は、話者と聴者の関係をあたかも鏡像の関係として捉えているるが、そうではなく、話者の行う発信を聴者が包み込むように受信してこそ、理解は成立すると解釈するべきであろう。
 つまり、遂行過程の俗性を受容過程の聖性が包み込んでいるのである。

 図式は、驚くべきことに、緊張の物理的な伝わり方を図示するものだが、ゆるい言語と緊張の言語の区別もない時代のことだから、混乱があって当然と受け止めている。

芥川のゲーム理論▽横断論⑫の2

2007-11-02 10:31:45 | Weblog
『タバコと悪魔』に隠されたギャンブル用語■以上が作品の「読み直し」に関係したものだが、今度は「ヒトモク」の用語規定に迫る。
 「ヒトモク」という賭博用語は、作品『タバコと悪魔』にこそ由来すると思われるので、まずは抜粋である。

《ー-その代わり、私が勝ったら、その花の咲く花をいただきますよ。
ーーよろしい。よろしい。では、確かに、約束しましたね。
 ーー確かに、御約定いたしました。御主エス・クリストの御名にお誓い申しまして。
 伊留満は、これを聞くと、小さな目を輝かせて、二、三度、満足そうに鼻を鳴らした。それから、左手を腰にあてて、少しそり身になりながらも、右手で紫の花にさわってみて、
 ーーではあたらなかったらーーあなたの体と魂とを、もらいますよ。

 紅毛の人に化けている悪魔「伊留満」は煙草畑の前を通りかかった牛商人に、煙草をメモクにして賭けることをすすめている。草の名前を言い当てたときは、それを全部やるという。反対に、言い当てることができなかったときは、体と魂をもらうというのは、ヒトかモクかのことであり、ここから「ヒトモク」という言葉の誕生が考えられたとしても何の不思議もない。
 ここにおける煙草と牛商人と悪魔の三者関係が、ほぼ『羅生門』での倒錯的ともいえる三者関係と対応する。メモクとは「美しい娘」の換喩であろう。とすると、「美」は即自的な存在として、彼とともにある。この上なき幸福の状態にあるのだが、その幸せに目覚めることがあるとすれば、そのときの彼ははじめて対自的な存在者、即ち、ヒトモクに生まれ変わり、同時に、脱自、つまり、「良心」の支配下におかれることになる。言い換えると、美と良心の間にあって翻弄される人間の換喩が「牛商人=ヒトモク」なのだ。
 ところで、これまで取り上げた芥川の作品には一度として「美しい娘」というヒロインが登場しておらず。誰でも気になる点であろう。
 そう思って作品を読み返すと、それらしき人物が『羅生門』にいることに気づかされる。例の「蛇を切り売りする髪の長い女」である。死体なのだが、生前の彼女は「それはそれは美しい娘であった」とすれば、髪を盗みたがる老婆の気持ちは少しは理解できるのではないか。   
 では、老婆がパラノイアともいうべき、倒錯的な美の崇拝者とするならば、「追剥ぎ」をする下人とは、悪魔の化身なのか?
 この問いに対して明らかに言えることは、作家自身はそのようには下人を人物設定してはいないことだ。かといって、「老婆」に喩えられるようなエゴイズムの塊でもない。彼こそは善良な心を持った人間なのだ。それも脱自的存在、つまり、作家の「良心」を代表させているのだ。
 とすると、下人と老婆は近代人の持つウェヌスのごとき相反する二つの顔を代表させたことになろうか。
 そんな善良な心を持つ下人があの鬼気迫る問答を了えた途端、「リンチ」ともいうべき制裁をどうして老婆に加えることができたのか。
 このときの下人こそ悪魔の心を持ち、無実の老婆こそ濡れ衣を着せられたばかりに赤裸々な人間の心をさらけ出しているのではないか。

 詭弁を弄しているのではない。外から見れば、どちらも悪いように見える民事事件も、ウォッチングの眼で裁判所の傍聴席に立ってみると、白黒の見分けがつくまでに眼が肥える。
 そうだとして、もし、物語のピークに役割の交代という劇的な変化があれば、二点間の中点に小説的な「スーパー機能」が宿ると仮定することができる。仮定は、すぐにでも「超論理」の存在によって裏付けがとれる。と同時に、下人の用いた論理に逸脱のあることが暴露される。
 こうして下人の悪魔的良心と老婆の潔白性という対照的な立場が明らかになったところで、それが何になるというのだろうか?

 と、こういう自問は、どこに由来するのであろうか。

 自分にしてみれば、これ以上のサービスはないと考えているのだが、それがダメとする根拠は、・・・・不可解である。

「羅生門」の民事事件への置き換え■事の次第が明らかになったところで、小説機能の作動する、ホットな・近代設備の整った工場の中を見学することにしよう。
 そのために、物語の主だった流れを追うことから始めたい。

 下人が一夜の宿を羅生門の楼にもとめる。上ってみると、放置された死体に混じって、意外なことに人がいる。しかも、不審な動きである。そこで勇気をふるつて追い詰めると、老婆であった。黙秘権を行使するようなので、思い余って刀を突きつけて自白を強要すると、「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ」と喘ぎつつ、なにやら犯行の動機めいたものを打ち明けてきた。余りの凡庸さにがっかりしていると、なんと自らの行為を正当化するようなことまで言い出したではないか。「なるほどな。死人の髪の毛を抜くということは、なんぼう悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいのことは、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などは、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だというて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいたことであろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいというて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは。この女のしたことが悪いとは思うていぬ。せねば、餓死をするのじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたのないことを、よく知っていたこの女は、大かたわしのすることも大目にみてくれるであろ」。それに対して、下人は「きっと、そうか」と念を押すと、「では、己が引剥をしょうと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死する体なのだ」というなり、老婆の着物を剥ぎ取ると、その場から遁走をはじめる。

 物語のピークは、老婆の心を漂白した瞬間とその後に起こる下人の盗人への変身の二点に的を絞る。
 両者の関係について、「食物連鎖」とか「エゴイズム」云々とする意見が多いが、とにかく、権利者と義務者の関係に置き換える。法論理の観点から眺めると、「超論理」が駆使されているからだ。
 下人は利害当事者ではないが、遺族の債権者サイドに立つ法定代理人である。一方の老婆は、返済を迫られている哀れな債務者である。
 老婆の言い分は、次のように訳せよう。

「私はこの女から金なんど借りた覚えはない。確かに、死後に借りたことは事実だが、それは女が生前生きるためにやむを得ず借りた金を病で倒れたために返せずにいるから、そのままでは心苦しかろうと思って、全額とはいわないまでも利子分を私が貰い受けたものだ。多分、あの世にいる女は、それを許してくれると思う」

 言い分は大筋において問題はないが、細部に引っかかりのある債務不服申し立てである。
 というのは、死後に金を借りた件に関して死者の魂を弔うためと供述しているわけだから、返済すべきかどうかの点は争点にならないと申し立てていることになる。
 だから、それが弔いか否かについて議論の余地が生まれるところ、債権者サイドに立つ下人は、問答無用とばかりに弁を競おうとはせず、債務者の敗勢に乗ずるように、代理人の権利を執行している。それだけではなく、巻き上げた金を依頼人に渡さないで私物化したわけだから、代理人は利害関係にある双方の当事者に対して二重の罪を犯したことになる。

 そのときの下人の「きっと、そうか」と念を押した後、「では、己が引剥ぎをしようと恨みまいな、己もそうしなければ、餓死する体なのだ」という言い訳は、法論理から見れば「逸脱」というほかはなく、老婆のとった行動が正当と認めるならば、債務者は債務から解放されたのである。そして、下人は自らが正当と認める行動、このケースでは、死者からの略奪を執り行うべきなのだ。
 にもかかわらず、私情を打ち明け、債権の取立てを強行執行したわけだから、下人の行ったことは、「私刑」執行の際の権利の濫用以外の何者でもない。結果的に、下人ひとりが道を誤ったのである。

 このことからいかなるアレゴリーが引き出せるだろうか?
 と、このケースでの、そういう問題設定は不要であろう。いくら鬼才の芥川といえども、そこまで読んでいたとは考えにくいからだ。ただ、ウバの着物には霊力が宿るように、老婆の着物に「民話機能」を宿らせたお話とは言える。
 というのは、下人が霊力を奪うことで不死の生命力を獲得したのに対し、不死の老婆は霊力を失うと同時に衰弱死したと考えられるからだ。


今一度、「悪魔と煙草」■論を戻すことにすると、「美」に翻弄される牛商人は煙草がなかった時代のことだから、紫色の花を咲かせる魅惑的な草の名前など知るべくもない。絶望の淵にあると思われた行商人は知恵を振り絞って、悪魔自身の口から草の名前を聞き出すことに成功する。

「この畜生、なんだって、己の煙草畑を荒らすのだ」。

 賭け事は、牛商人が勝って「美しい娘」と晴れて結婚するのだが、芥川は「この伝説に、より深い意味がある」として、次のように「寓意」を引きだして見せる。

《悪魔は、牛商人の肉体と霊魂とを、自分のものにすることができなかったが、その代わりに、煙草は、あまねく日本全国に、普及させることができた。してみると、牛商人の救抜が、一面堕落を伴っているように、悪魔の失敗も、一面成功を伴ってはいないだろうか。悪魔は、ころんでも、ただは起きない。誘惑に勝ったと思うときにも、人間は存外、負けていることがありはしないだろうか。

 上の文章は、実をいって、歯切れが悪い。「煙草こそは悪魔」としたい基本的な考え方が伝わってくるのは、まあいいとしても、「(美の)誘惑に勝つ」云々は、余りにも常識的すぎる。しかし、牛商人がそのときヒトモクとして自己の体と魂を悪魔に差出さえすれば、煙草はあまねく普及することはなかったとでも伝えたいのなら、至極論旨のあいまいな文章といわねばならぬ。なぜなら、煙草=悪魔による汚染は、煙草の播種によってすでに始まっているからだ。つまり、悪魔に負けたときも、人間は存外勝っているものだと論を結べるからだ。

 それにしても奇っ怪な作品と感服せずにいられないのは、それまで人間の仮面をかぶせていた悪魔をそのままの姿でゲームに参加させたことだ。だから、かえって種を明かす気になったことに対して不審の念が呼び起こされるのだ。
 理由として、持ちパイの手薄な状況を考えてみたが、涸れるどころか、以後の芥川は量産態勢に入っている。ということは、それまで無意識に組み立てていた「ゲーム理論」の存在を自覚したことの現われと受け取りたい。
 特に、心境の上で飛躍があり、それまで禁欲的な態度をとり続けた作者が誘惑に負けたことにして、美=メモクとするギャンブラーとしての危険な第一歩を踏み出したのではないか。


最後に、『手巾』■最後に、『手巾』を取り上げる。品行方正な作品で、姿勢の正しさだけでも「一流」と判を捺したくなる秀作である。

《そのとき、先生の目には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持った手が、のっている。・・・・が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるえているのに気がついた。ふるえながら、それが感動の激動を強いておさえようとするせいか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりにかたく、握っているのに気がついた。そうして、最後にしわくちゃになった絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれているるように、ぬいとりのあるふちを動かしているのに気がついた。--婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。 

 上は、先生が手に持っていた朝鮮うちわを床の上に落としたので、それを拾おうとしてたまたま眼にした、婦人の「膝の上」の出来事である。その中で何が「美」かと問われれば、これまでに述べたいきさつで「手巾」としか答えようがない。というのは、フェチ特有の美意識が婦人の握り締めたものに吸い付いているからだ。
 婦人の演技は確かに感動的なものだが、劇作家ストリンベルグの言葉の引用によって、「臭い」とされる。

《・・・・私の若い時分、人はハインベルク夫人の、たぶんパリから出たものらしい、手巾のことを話した。それは、顔は微笑していながら、手は手巾を二つに裂くという、二重の演技であった。それを我らは今、臭味と名づける。

 メッツヘンが、最後に再度登場する。

《先生は不快そうに二、三度頭を振って、それからまた上目を使いながら、じっと、秋草を描いた岐阜ちょうちんの明るい灯をながめ始めた。

 上の「秋草・・・・」は、三好によって「小説の首尾を貫」くと評されるものだが、型が「死」を暗示しなくなったとき、換言すると、婦人の迫真の・そして魅惑的な演技にも心が動かされず、先生がゲームの勝利者として生の方に振り分けられるならば、それは演技同様、「臭い」ものにちがいない。

(完)
2004/4/21記

横断論⑫の1■芥川のゲーム理論

2007-11-02 10:29:20 | Weblog
二つの死に顔■志賀文学との関連でいえば、芥川文学への関心は、結末に向けられるべきだ。なぜなら、二つの死の「型」が確認できるからだ。
 たとえば、処女作『老年』では、「雪はやむけしきもない」という言葉で終わっている。これは、作品のはじめにある「朝からどんよりと曇っていたが、午ごろにはとうとう雪になって、あかりがつく時分にはもう、庭の松に張ってある雪除けの縄がたむるほどつもつていた」という表現を承けたものだが、物語の進行と平行して増殖するような降雪のイメージは、小説の首尾を貫いている。
 この降雪・積雪のイメージが『羅生門』でも活かされている。

《ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

 上の冒頭にある「暮れ方」は、結末では、時間の経過とともに「闇」の降り積もった結果として、「夜」は漆黒に塗りこめられている。

《外には、ただ、黒陶々たる夜があるばかりである。・・・・

 今見たような二例の、三好行雄の言葉にもある「小説の首尾を貫く」く型の意味とは、「死」の暗示であろう。あるいは、死にも似た運命的な巨大なカラクリである。物語の進行とともに増殖するイメージは、物語の結末に再度姿を現して、暴力的な「機能」を発揮してとじるカラクリなのだ。

 もうひとつの型は、即物的な「死」を指しあらわそうとしている。
 たとえば、『ひょっとこ』では、「ただ変わらないのは、・・・・さっきのひょっとこの面ばかりである」という言葉で終わる。「仮面」は、死んだ男の上になおも覆いかぶさろうとする<死に顔>を象徴している。
 驚くべきことに、「死に顔」、すなわち、〈永遠の相〉は型でも破るように、作品ごとに成長している。
 次の引用は、特にそうだが、それとはわからないほど、目にも留まらぬ早業である。

《ーー無理に短くしたで、病が起こったのかもしれぬ。
 内供は、仏前に香花を供えるようなうやうやしい手つきで鼻をおさえながら、こうつぶやいた。
 翌朝、内供がいつものように早く眼をさましてみると、寺内の銀杏や橡が一晩のうちに葉を落としたので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜がおりているせいであろう。まだ薄い朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀を上げた縁に立って、深く息を吸い込んだ。(『鼻』)

 上にある「病」が転轍機となって、内供は病死し、「翌朝」に始まるのは、死後ではないかと理解している。だから、その辺が読めないでいると、「モチーフの一貫性に欠け」るといった批評がはびこることになる。

《『羅生門』と『芋粥』は、こうして存在悪(人間の本質としての悪)と状況悪(人間関係の織りなす社会の悪)の認識という、芥川文学のもっとも本質的な主題の所在を告げる作品となった。この二作に比して、『鼻』は漱石に激賞されて文壇登場の機縁になった記念碑だが、モチーフの一貫性にやや欠けたところがある。内供の自尊心や虚栄を冷笑する偶像破壊のモチーフと、その内供をあえて被害者として描く後半の意図とが亀裂する。<こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない>という、秋風になぶられての内供の独白は明らかに錯覚である。なぜなら、無責任な傍観者はこんどは長くなった鼻を嗤うはずだからである。(三好行雄「作品解説」-角川文庫)

 作家の名誉回復のためにあえて書くが、三好の誤解は明らかである。なぜなら、「こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない」と二度目に呟くときの禅智内供の身は、この世の者ではないからだ。
 断っておくが、氏の言葉で不満なのは、ゆうにその一点だけだ。しかし、看過された一点は、《闇》たる、もうひとつの芥川論の所在を告げているはずだ。
 すでにその点は、志賀直哉が指摘していることで、次のようにくさしている。

《一体芥川君のものには仕舞いで読者に背負い投げを食わすようものがあった。これは読後の感じからいっても好きでなく、作品の上からいえば損だと思うといった。・・・・(『沓掛にて』)

 技法としてみれば、志賀の言葉にもあるように鼻につくし、背負い投げを食わされたことに気づかなかった読者は、それを知るや惨めな思いを味わうことだろう。しかし、単なる技巧上の問題として片付けられるものではない。
 『鼻』に関する限り、そこに隠された主題は、自己の生がいかに悲惨であろうとも野放図な改善を試みるものは天罰をかぶるということではなかろうか。
 「改善」への強い欲求が逆に「必罰」として働く。言ってみれば、小説の「装置」のような大がかりな仕掛けが隠されているようなのだ。

 「改善」への欲求がいつも「必罰」という形で結末を準備させるのではない。
 『仙人』では、仕事の道具のほかに「何も持っていない」李小二という見世物師は、あるすすけた廟の軒下で、彼よりも貧しい身の上と思われた老道士と出会うことで「陶朱の富を得」る。
 この場合は、仕事を日々こなすだけの不器用な生き方ゆえに、換言すると、生活の「改善」に向けて大した努力もせずにいたから、死苦を脱して無聊をもてあます仙人から、「大金」が授与されたことになろうか。
 その結果、『仙人』では、結末の持つ「死のイメージ」は生死を超越している。

 「改善」への欲求という主題は、『芋粥』にも通うものでありながら、やはり、結末を異にする。 「芋粥を飽きるほど食べてみたい」と心の中で思っている五位は、願望の実現に向けて懸命の努力をしている男ではない。にもかかわらず、ある日のこと、野狐を操る利仁という不思議な侍に連れられて遠いところの敦賀の地に招かれる。
 そこでは、巨大な鍋の中に「海のごとくたたえた」芋粥を眼の前にして、「まだ、口をつけないうちから満腹を感じ」てしまう。何度すすめられても、堤にはいった芋粥を二分の一とさらに三分の一を食べたところで、辞退してしまう。
 願望は心理的過食に追いやられることで一旦は満たされるが、「現実機能」の介入で、最後には夢は破られてしまう。

《・・・・晴れてはいても、敦賀の朝は、身にしみるように、風が寒い。五位はあわてて、鼻をおさえると同時に銀の堤に向かって大きなくさめをした。

 上にある「くさめ」こそ隠された転轍機で、竜宮城的な夢想の世界から連れ戻す働きをしている。
 結末の意味は、五位が死んでいないとすれば、一抹の夢として、「物語」そのものを葬り去るものといえないか。
 これらの作品例からいえることは、志賀論では十分すぎるほどの位置をもっと考えられた「小説機能」がさしたる価値を有するものではないこと。芥川にあっては小説機能の近代化に向けた努力よりも、前代的なものを利用してでも、アレゴリーの捻出に心血を注いだということ。
 しかし、苦心して産み出しだ「死に傾き」がちな意味さえ、最後には転換してしまうのが芥川の小説流儀なのだ。

 無論、「アレゴリー」といっても、芥川ほど危険な主題を持つ作家はいない。なぜなら、私たちはそういうことで他人を笑う(ヒトモク、特に、弱者を狙撃するような集中砲火)といつかは自分に還ってくるよといってブレーキの掛けるところを、芥川は反対にアクセルを踏み込んでいるからだ。

「能勢、能勢、あのおかみさんを見ろよ」
「あいつはふぐがはらんだような顔をしているぜ」
「こっちの赤帽も、何かに似ているぜ。ねえ能勢」
「あいつはカロロ五世さ」

 この直後、能勢は悪友たちの言葉に乗せられて、たまたまプラットホームに居合わせた自分の父親にまで辛口の批評を試みることになる。

「あいつかい。あいつはロンドン乞食さ」

 作品『父』にしてもそうだが、能勢という人物の未来に用意されるものは、尋常の人生でもなければ、バラ色の人生でもない。芥川の小説は一見したところ、「寓意」に満ちているが、時として諸刃の刃として自己に向かって斬りかかってくるものだ。
 能勢に早すぎる「葬儀」が用意されるのならば、同じように、五位の住む世界は本来的には、狐が導く「異界」でなければならぬ。

--なぜか?

 これまでの枠組みの中で考えるならば、型にはまった「永遠の相」によってひとつの解答が得られたことだろう。
 しかし、『芋粥』は例外である。「物語」と「小説」を天秤にのせて、最後に、もうひとつの重みのあるほうに傾きかけた、いわゆる型破りの作品であるからだ。
 というのは「くさめ」の後にはじまる世界は、小説家さえ書くことがはばかれるような、日常そのものの味気のない世界でなければならぬからだ。 

登場人物はすべて、雀牌■もろもろの疑問を解くために、三つの仮説を立てることからはじめようと思う。

A 無意識のうちに組み立てられた、ゲーム理論がある。
B パイの一つが生か死のいずれかに振り分けられる。

 次に、この二つの延長線上に、もうひとつの仮説が生まれてくる。

C 自分の持ちパイがすべてなくなったとき、最後に振り込んだものが自分であった。

 作中の登場人物はすべてパイだという考え方をのぞけば、「ゲーム理論」にしろ最後の仮説にしろ、自分でもばかばかしい考え方とは思うのだが、これを設定しない説明は所詮は行き当たりばったりの対症療法的なものにすぎないから、しまいにはつじつまが合わなくなるような気がしてならないのだ。
 ただ、なんとなくだけど。そして、なんとなく思われることなんだけど、「ゲーム理論」という以上は、自分を安全の側に置くこともできる。一方で、ロシアン・ルーレットのように死を賭してのスリリングな遊びもある。一作一作が。
 とはいっても、純文学風の作家たちが全身全霊を込めて作品を書き上げ、いわば自己の死と引き換えに、芸術作品を産み落とすことを言おうとしているのではない。
 はじめは芥川とて、安全の側に身を置いていたはずだ。それが次第に、主客が転倒し、最後に気が付いたときには、自己の生を賭した「ゲーム理論」にまで成長していたのではなかったか。例の「小説の首尾」を飾るもののせいで。

 で、理論の核を構成するものとして、<ヒトモク>の論理を用いることにする。
 ヒトモクとは、元々は、賭博用語である。人は当たり目を予想して舟券なり馬券なりを買おうとする。これをメモクと呼ぶらしい(安部譲二説『フォーカス』九九年十二月のある号)。何分にも賭博のことであるから、なかには勝負運に見放された人間もいるわけだ。ここからヒトモクという買い方が生まれるというのだ。というのは、彼の買う券がことごとく外れるのならば、逆に、買わなかった券を選んで買えば、それだけ自分の方に勝負運を引き寄せられるというわけ。
 この論理を駆使すると、芥川の作品分析と解釈は次の三点に絞り込むことができる。ただし、用語には独自の字釈を施している。

a 作品の中で、ヒトモクとなる中心的人物がいる。
b ヒトモクはパイとして、生か死のいずれかに振り分けられる。
c その理由とは?

上のうち、前二者は作品分析にかかわるもので、後一者だけが「読み」に関係する。したがって、後者の場合、それぞれのケースに即して「読み分け」を行うことになる。
 前置きが長引いたが、以上の三点に絞って、個々の作品の読み直しを行う。

『老年』 a=房、b→死、c=愛人というメモクの欠如の故。
 この作品では、噂の渦中にある「房」という人物がヒトモクである。しかし、歌沢の師匠「房」にはヒトモクに当たる「愛人」が不在である。結末は「雪はやむけしきもない」という言葉で終わっている。雪が死を暗示するのであれば、じきに房自身が捨てパイとして振り込まれることになる。なぜなら、ゲームでの敗北が明らかになったからだ。では、負けがどうして死に結びつくのか。理由は、詰まるところ、房自身の愛人を身代わりのヒトモクとして差し出すことができなかったからだ。

『ひょっとこ』 a=山村平吉、b=死、c=うそを除いた後には何も残らないから。
 主人公の平吉は、船の上でひょっとこの面をかぶってばか踊りするが、脳溢血で頓死する。ヒトモクにおいて何が身代わりのヒトモクか、と問いかけでもするように執拗な真相究明の筆を揮っているのだが、わかったことといえば、酒好きと平素はうそつきということのほかに、経歴もでたらめということ。うそを取り除いたら酒好き以外何も残らないがゆえに、捨てパイとして振り込まれたと考えられる。
 この場合、酒好きにおいては酒がメモクではないか、との見方も成立するが、メモクに溺れすぎた酔狂ゆえのいちギャンブラーの頓死との判定も可能。 

『仙人』 a=李小二、b=生、c=鼠というメモクが大当たりを引いたから。
 主人公の小二は、「鼠に芝居をさせて商売している男」という説明が冒頭にある。この意味が定まらないかもしれないが、李はこれまでの主人公とは異なり、死にパイとして振り込まれることはない。なぜなら、ゲームの勝利者であるからだ。李が鼠をメモクとした結果、「仙人」という大当たりを引いたことを意味する。
 この場合の「仙人」とは、鼠の神様と考えられる。ということは、金生水の相生の理が関係した民話機能のお話と解釈可能。

『羅生門』 a=下人と老婆、b→生と死、c=「夜」が両者の幽明を分ける。
 この作品(女性のシンボルへの嫌悪感を歌った)は、一見したところ、下人は老婆とのゲームで勝ちを収めた勝利者を装っている。「外には、ただ、黒陶々たる夜があるばかりである」との死の暗示は、老婆を名指して葬ろうとするものだ。いうまでもなく、ゲームの敗者であるからだ。では、どこに勝ち負けの判定が下されたのか。両者はそれぞれ身代わりのヒトモクを持ち、老婆が「蛇を切り売りする女」からならば、下人は「死体から髪の毛を抜く老婆」から一回の当たりを勝ち取っている。ということは、老婆は負けもあるが勝ちもある、いわばプラマイナーゼロの振り出しに戻った状態である。それに対し、下人はコマを一つ進めただけの勝ちでしかない。ゲームの流れとしては、そのまま二ラウンドに突入してもおかしくはないのだが、突如とした「夜」の介入で、両者の勝敗は幽明を分かち合うことになり、老婆は死へと振り込まれたのに対し、下人は「行方は、誰も知らない」とあるように、生の方にとにもかくにも振り分けられたのだ。

『鼻』 a=禅智内供、b=死、c=鼻というメモクをなくしたから。
 この作品(巨根のシンボルへの悲哀を歌う)は、禅智内供と自身の「腸詰のような」鼻との関係にヒントが隠されている。内供は周りの人間におけるヒトモクだが、鼻は彼自身のメモクである。そうであるがゆえに、バランスシートでいえば、勝ち負けのいずれにも偏らないプラマイナーゼロの均衡状態を保っている。本当は、巨根を誇れるゲームの勝利者なのだ。ところが、民間療法で病んでもいない鼻を治療としたばかりに、内供はゲームの敗者に転落したのだ。このとき、捨てパイとして振り込むのに「死」の介入を必要としなかった。なぜなら、自分で選んだ死であるからだ。

『父』 a=能勢、b=死、c=ルール違反の故。
 能勢のやっていることは、他人をことごとくヒトモクに置き換えることである。彼はゲーム巧者にはちがいないが、最後に、致命的なルール違反を侵したのだ。それは能勢をヒトモクとして早くから照準をさだめていたオヤに対して、ゲームを挑んだことだ。このとき、いち早くルール違反を感知した「死」が介入に及び、コである能勢を捨てパイとして葬ったものと考えられる。

『芋粥』 a=五位、b=生、c=メモクとする芋粥に飽きたから。
 五位は「芋粥(性交のイメージ)に飽きん」ことを人生最大の喜びとしている、哀れな男である。そんな男に利仁という侍が不思議な方法で夢をかなえさせてやる。しかし、彼は食べる前から心理的過食の状態に陥る。このとき、メモクに賭ける正直な男と、ヒトモクに賭ける狡猾な利仁の間に(くさめ=現実)が介入して、ゲームは振り出しに戻ったと考えられる--と書くと、いかにも楽々といった感じに受け取られそうだが、「現実」を介入させたことで、作家自身は毒杯をあおったともいえる。

横断論⑪2■逸脱論的文法論

2007-11-01 11:08:51 | Weblog
ノート6□文を取り巻く内外の環境■方法上、次の三段階を踏むことにし、四を持って閉じる考えである。

  一 ひとつの文を取り巻く環境について。
  二 環境的な因子を取り除いて、純粋に文と接しえることが可能か。
  三 純粋な文の抽出が可能とした場合、その文のイメージとは。
  四 その際の動詞のイメージとは。

 まずは、一の「環境」であるが、これはこれまでの文法研究において閑却されていた問題で、いかにして環境的な因子を取り除き、純粋な文を取り出すかの試みである。
 時枝の文規定のひとつ「完結性」は、「環境」の問題と無縁ではなく、この手間を省きがたいための性急な説という考え方もできる。

 単文を取り巻く環境として、次のような「内」と「外」の二つの考え方が導かれる。

  Ⅰ そこにある文は、ある前提の展開として捉えることができる。前提的なそれを「過去」とおく。過去からの展開が「現在」にほかならず、それが「文」として顕在しているのである。とすると、現在の次の展開として「未来」があるという考え方が導かれることになろう。

  Ⅱ もうひとつの環境として、そこにある文は、それとは異なった別の文が「前」にあり、前文の展開として次の文があると考えられる。すると、更なる展開として別の文が「後」に用意されると。

 たとえば、次のような文章では、二番目の文に関する限り、環境としてのⅡのような外的な条件を満たしている。

《むかし津軽の国、神梛木村に鍬形惣助という庄屋がいた。
四十九歳で、はじめて一子を得た。
男の子であった。
(太宰治作『仙術太郎』)

 では、Ⅰのような内的な条件はどうだろうか。
 「四十九歳で、はじめて一子を得た」という二番目の文に注目する限り、その文は〈男には妻がいたが、長い間、子供ができなかった〉という前提の下に展開している。しかし、前の文は、「鍬形惣助という庄屋」という男についての説明しか行っていない。
 このことから両者の間にはズレのあることがわかる。だから、そこに文があるということは、前文の外的な展開としてあると同時に、内的な前提的意味の展開でもあるという考え方が導かれよう。
 しかし、内的な意味としてどのような「未来」が開けるのかまでは読めないでいる。「長い間、子供が授からなかった」という前提的な意味を踏まえれば、それは「非常な喜び」を未来に用意するかもしれないが、こと文の内的な未来に関する限り、先の展開はやすやすと読めるものではない。
 引用では、「男の子であった」という文を配している。それは前の文の外的な展開であるが、必ずしも内的な意味の展開に結びつくわけではない。が、未来は感動の解消に向かうという意味では、内的な意味の解消に役立つものといえる。なぜなら、三番目の文は、「なんと男であった!」と内的に訳せるからだ。
 そういう考え方は、一方で、単一の文を取り巻く内的な環境の有無に限らず、外的な環境は整っているという考え方を用意させるし、外的な環境の有無に限らず、内的な環境は整っているという考え方も可能にする。あるいは、環境的なものをまったく無視して、単一の文について純粋に観察できるという考え方を生む。

I have a pen.■たとえば「I have a pen.」という英文に接するときの私たちの態度は、どちらかというと後者に近い。しかし、それを訳した文「私はペンを持っている」と接するとき、純粋な観察態度は維持できないと思う。というのは、翻訳に際して、知らず知らずのうちに、文化的な介入を行っているからだ。
 いうまでもなく、動詞haveと対応する日本語は「持つ」である。にもかかわらず、「持っている」と意訳する。
 この理由は、直訳「私はペンを持つ」と置くと、あたかも戦場を前にして、「ペンは剣よりも強い」といった調子の、原文にはない石と化した決意表明のごときものが伝わるからであろう。
 でなければ、「持っている」と置くことで、文意が安定するからだ。

 では、立場を逆にして、英米の文法家は「I have a pen.」と接するとき、日本人と同程度に純粋な態度で文を観察することができようか。

 これは語学にくらい自分の推理でしかないが、少しでも例題と向き合う機会があれば、同じように、「(戦場では)私はぺンで戦う」といったジャーナリスト風の気概を読むのではなかろうか。 でなければ、外的な環境の整った中でのありふれた一文である。
 それでも「I have a pen.」を運用から、言い換えると、それらの環境から切り離して、独立的な一個の文として観察ができようか。
 できるのならば、理由は、例文がひとつの完結した世界と考えられているからであろう。

 ところで、この場合の完結とは、どういう意味を持つ用語であろうか。

《A sentence is a word or group of words capaple of expressing a complete thought or meaning.(前掲書三三〇ページ)

 時枝の説明によると、上にあるcompleteの訳語よって普及したとある。訳は「完全」か「完結」かで迷うとしたあと、「思想の完結したる」という翻訳の紹介につとめているが、別のところでは、次のように述べている。

《完結と完全との根本的相違は何処にあるかといへば、完全とは主観的基準に於いてのみいひ得ることであって、完結とは客観的に規定された事実である。(前掲書)

 上にあるような主観と客観の区分けはナンセンスであろう。
 たとえば、「完全なる人間」とはいいえても、「完結したる人間」との言い方は成立しない。このわけは、それぞれが空間と時間を基準としているからだ。
 絵画が空間芸術とすれば、「完全な絵」といいえるように、小説が時間芸術とすれば、「完結したる小説」といいえる。
 それでも、逆の言い方がは成立するのは、シリーズものの絵に限定しての「完結したる絵」のいいであり、小説の場合は、空間的な造形性になぞらえた上での「完全なる小説」という破格の評価法が例外的に成立する。

 このように見てくると、時枝のいう「思想の完結したる文」という言い方のおかしいことに気付くはずだ。なぜなら、文という空間的なイメージに対して、完結という時間的なイメージでもって律しょうとしているからだ。
 それでも、そういう言い方が成立するのは、単一の文には空間的には思想が宿り、時間的には、完結しえるものと考えているからであろう。
 この意味では、時空を兼ねた文規定を行ったことになる。

註)時枝の用語では、空間的なものを「主観」的といい、時間的なものを「客観」的と言い表したとみている。

 引用も含めて伝わってくる完結のイメージは、およそ「完備」ではなかろうか。
 言い換えると、文としての条件が完備していれば、それをもって文の完結の意義と定めるーーと。
 ただし、短絡的な思考の後だけが歴然たる欠陥として残っている。

 その点は、こう考えることによって論理的な整合性がえられるのではないだろうか。
 条件が完備さえすれば、文には「装置」のようなものが作動して、意味的「内」的に完結する。
 ということは、文としての条件が完備し且つ意味的に完結した文があれば、間には「地球機能」と呼ぶべき文法機能が力を発揮している思われるから、機能を摘出すればいいことになろう。
 なんための摘出か?
 それが弊論の目指す《闇》たる、動詞のイメージに他ならないからだ。


感動文が純粋な文■なんといっても一番の障害は、前途に立ちはだかる言葉の壁である。 入り口でたちはだかる「文としての条件」をどう捉えるかである。
 通念的には、主述のほかに、述語の性質に応じて目的語や補語を含むものを指すと見て支障なかろう。
 時枝の詞辞説に従うと「花よ」でもって、「文の条件」は完備ということになりそうだ。
 たとえば、次のような使い古された文である。

  太郎は学校へ行く。

 すべての文例についていえることだが、いくら条件の点で満足できても、「風船玉」のごときものとして直ちに観察の対象とすることができない。
 なぜなら、文のあること自体が、内外の環境に取り囲まれてあることに変わりがないからだ。
 この事実は、国語学者らの用いる例題そのものに対して向けられたひとつの疑念なのだが、先の文も含めて、多くが感動文に置き換え可能なのだ。

  象は鼻が長し。  「何を食べる?」「ウナギ」
  山は雪か。     私は大野です。
  木の葉が舞ふ。  裏の小川はさらさらと流れ。
  波が岸を噛む。   このテーブルで食べませう。
  春が訪れる。    水が飲みたい。
  地球は丸い。    酒に飲まれるな。
  動詞は渡る。    前へ進め。
  労働は運ぶ。    ・・・・・・

 上の左側の文は、いずれもなんという言葉をかぶせて、感動文としての取り扱いができる。
 ただし、右側は例外。
 このことから、発見の感動が個々の平叙文を包み込んでいるのではないかと考えた。

 こうして最後に立ちはだかるのが、どういう文例を使うかという点だ。
 そこで思うのだが、先に掲げた感動に裏打ちされた文こそは、文としての条件を満たしかつ独立し、さらに、完結かつ充足した意味的世界を有するのではないか。
 とすると、内外の環境的な意味から独立した、純粋な文こそ感動文と認められるであろうか。
 それならば、前述したように、あたりの前の関係と思われていた事柄に文法機能があると仮定して、「装置」のようなものを引きずり出せば、この仕事は完了したも同然であろう。

 その際に「風船玉」の使用をためらわせるのは、感動の処理である。覆不覆のいずれの文を採用すべきかどうかで悩むのだ。


二種の動詞のイメージ■どちらでもいいというのであれば、文法機能は、述語が主語を規定する力に現れている。
 たとえば、文「吾輩は猫である」は、主述をかねている点で条件を満たしている。しかし、意味的には矛盾を抱え込んでいるから、本来ならば文法的なトラブルを引き起こさずに入られない。
 しかし、意味的なおかしさは総合的に包み込まれている。この場合、述語が主語を規定する力はエヘンとでも威張りたがっている「吾輩」なるイメージの修正に取り掛かっている。
 かくしてひげを生やした謹厳な紳士のイメージは、本の表紙にあるような、ひげを生やした愛らしい猫顔のイメージ・キャラクターに取って代わられる。
 このとき、主語が何の規定も受けなければ、意味的矛盾がひとり歩きすることになる。

 このひとり歩きの好例は、「動詞は渡る」という文によって別の意味の確認が取れよう。
 もし主語「動詞」のイメージが述語の力によって修正もされず、固定したままであると「渡る」という述語との間に生じる意味的ギャップが克服できないことになる。
 この力こそが述語の持つ「時間作用」ではないかと考えている。動詞的な時間が主語や目的語を取り込む際の「同化作用」として威力を発揮するのだ。
 しかし、主語や目的語は取り込まれても時間ではない何かであるから、当然そこには「異化作用」が生じる。こうして生まれた「時間ではない何か」が時間のファイナル・アタックを受けて「転化」し、未来に向かって投げ出されるのだ。

 今見たような述語の持つ三種の働きが、いわゆる《意味的分類法》として還元される「ある=状態」「する=動作」「なる=過程」と訳されるところの、三種の働きではないかと受け取っている。
 そうやって動詞述語の持つ時間作用は、文表現を計算過程に転換してしまう。
 それは、究極のところ、加え算ではないかというのが持論である。
 次は、そのいくつかのパターンを見ることにする。

  Ⅰ 加算   太郎は花子と出会う。太郎は学校へ行く。
  Ⅱ 名詞化 太郎は学校を休む。太郎は花子を殺す。
  Ⅲ 主客転倒   太郎は次郎から百円を借りる。

 Ⅰのケースでは、「A・--・B」と二点形式に置き換え可能である。Ⅱのケースでは、単純に置き換えたのでは、式は「行く」の意味になるから「太郎・--・休みーー・学校」と三点形式に置き換える必要が生じる。この場合の「太郎」と「休み」は一体関係にあるが、「休み」と「学校」の関係は分離の関係にある。だから、式は「太郎は学校へ<休み>を運んだ」と訳しうる。Ⅲでは、「次郎・--・百円ーー・太郎」と置き換えられる。この三点形式でも、一体関係と分離の関係は同じである。従って「次郎は<百円>を太郎に貸し運ぶ」と訳しうる。
 つまり、二点形式では、移動格は起点格が兼務するが、三点形式では、中点格が移動格を務めることになる。
 無論、従来の文法学における便宜上の格関係は全否定である。

 今見たような式化は、動詞述語に限られ、形容詞述語に働くものは、状態化と過程化の二種ではないかと考えている。
 たとえば、文「象は鼻が長い」での述語は状態化して文意を安定させている。
 「地球は丸い」も同じような働きをしているようだが、「地球は平らだ」という考え方が支配的な時代にあっては、文「地球は丸い」は、主述の間で意味的ギャップを引き起こす。
 このときの、述語に規定されえない主語のコワモテの、絶対的なイメージが(詩語のように)ひとり歩きするとき、述語は過程化するのではないか(例:登校拒否児童の太郎が仕置き場という学校へ逝く)。

 動詞述語の時間作用を考える場合、障害になりやすいのが「風が吹く」のような二語文の存在である。これに対する私見は、計算過程への転換はないと解している。
 というのは、例題の主語は、述語の同化作用をこうむっても「名詞」は「名詞」である。こうして異化作用の洗礼を受けた名詞の残骸は一個のために組すべき相手がいないという不自然な事態が生まれる。
 これが「する」と訳される動作動詞の持つ「文意の不安定化」の原因ではないかと考えている。だから見た目には「仕掛け」と映るのではなかろうか。そこで仕掛ければ述語は「神風が吹くようになる」と過程化する。
 仕掛けなければ、述語は安定化して「本来的な風が吹く」と主語規定が行われ、あるいは「吹いている」と助動詞化した上で、文意を安定させようとする。
 無論、こういう考え方は、述語論理学の盲点を突き刺すに違いない。
 なお、記号処理の際の二語文等は、何の妨げにもならないことをば付け加えたい。つまり、ゆるい関係は、破線で代行。
 以上、二種の動詞のイメージについて述べた。


ノート7■驚異の実例報告

 テキストは、青森県西津軽郡の昔話『桃の子太郎』(『日本の昔話Ⅱ』岩波書店)を使用。
 引用は、冒頭の十一行の文章に及ぶが、個々の文に番号札をつけた上で、点と線の関係に置き換えている。これは文のシークエンスでの文法機能を見極めるためのアカデミックな観察方法である。従来の文法論では、単文に限られての研究や観察報告しかない以上、弊論の試みは式化も含めてすべての試みが斬新といえる。
 置き換えに当たって、「爺様」と「婆様」はpとqで表示。*印は移動格を意味し、線上にない場合は、始点格が兼務するものとする。なお、要の語が省略の場合、( )付きで表示した。動詞などの解消語は、すべて下段に表示。ただし、格助詞は省く。

①昔、むかし、あるところに爺様と婆様とがあった。
 pとq・--・昔、あるところ        アル・タ
②婆様が川へ洗い物に行った。
   洗い物
 q・--*--・川             行ク・タ
③すると川の上の方からきれいな箱が流れてきた。
        きれいな箱
 川の上の方・--*--・q       スルト・流レテクル・タ
④婆様が拾って、中をあけてみた。
 q・--・(きれいな箱)           拾ウ・テ
 q・--・箱の中              アケテミル・タ
⑤すると、桃こ一つ入っていた。
 桃こ一つ・--・箱の中         入ッテイル・タ
⑥家に持って行って、爺様にみせる気になって箪笥の中にしまっておいた。
     (箱)
 q・--*--・家             持ッテ行ク・テ
     (箱)
 q・--*--・爺様           見セルキニナル・テ 
     (箱)
 q・--*--・箪笥の中        シマッテオク・タ
⑦すると、爺様が山から帰ってきた。
    爺様
 山・--*--・(家)           スルト・帰ッテクル・タ
⑧爺様も面白かったので、また箪笥の中にしまっておいた。
 p・----・(きれいな箱)          面白カッタノデ              
   (きれいな箱)
 P・--*--・箪笥の中        マタ・シマッテオク・タ
⑨すると夜中になっておぼこの泣く声がするので、どこだべなと思って探しにいった。
 (X)・----・夜中             スルト・ナル・テ
 おぼこの泣き声・--・(qの耳)    スル(聞コエル)・ノデ
 (おぼこの泣き声)
 (q)・--*--・どこだべな      思ウ・テ 
  (おぼこの泣き声)
 (q)・--*--・探し          行ク・タ
⑩すると、何でも箪笥のなかで泣くような声がした。
   泣くような声
 (qの耳)・--*--・箪笥の中    スルト・何デモ・スル・タ
⑪それで、婆様が箪笥のなかを開けてみると、めごい男の子が生まれていた。
 q・--・箪笥の中            ソレデ・開ケテミル・タ
 めごい男の子・--・箪笥の中    生マレテイル・タ

横断論⑪1■逸脱論的文法論

2007-11-01 11:07:04 | Weblog
「始点」と「原罪」■始点を逸脱とする考え方は、旧約聖書にある「原罪」に通う。
 アダムは神より任命された、エデンの園の保護管理者である。次に、アダムのあばら骨の一本をとって、エバが造られる。二人は人類初の夫婦となって幸福な日々を過ごすが、ある日、狡猾な蛇のわなにかかってエバは禁断の果実「知識の木の実」の半分を食べてしまう。エバは果実の残りの半分をアダムに与える。

「彼らは自分たちが裸であるのに気がつき、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆った。彼らは神に見られまいとして隠れた。神が彼らに問いただしたとき、アダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにした。神は蛇のその後の姿や、エバが苦しんで子を生むこと、アダムが額に汗して働き死ぬべきことを定めた。その後、彼らが命の木の実を食べて永遠に生きるものとならないよう、エデンの園から追放された。・・・・・・」(『聖書百科全書』三省堂)

 上の解釈にある「追放」とは、「エデンの園」が「母親の胎内」にほかならず、「出産」を意味すること。その出産に「蛇」という「へその緒」機能が関与していること。つまり、へその緒にけしかけられることで分娩が始まることを意味する。
 こうして誕生した赤児が「原罪」を背負わされるのはいうまでもない。この回復のために「祈り」を中心とした宗教生活が用意されるところ、旧約聖書にあるのは、「労働」という罰である。一説によると、「第一のアダムの失敗は第二のアダムであるイエスによって処理され、世界に救済がもたらされたと考える」(前掲書)とあっても、「労働は罰」とする視点に何の変化もない。
 ところで、旧約聖書の言葉を持ち出したのは、「点は逸脱」「線は回復」とする考え方がキリスト者では日常生活のうえで活かされていると思ったからである。そのくせ、無定義のまま放置されていたのは、格言にもあるように「灯台下暗し」のゆえと考えられる。

 問題は、つまるところ、無定義の「点」と「線」であるが、それに対して「点は逸脱」「線は回復」と定義づけたところで、何の意味があるのかという点であろうか。
 こういう内発的な問いは、答えるよりも前に無力さに押し潰されるものだが、あえて自ら信じるところを述べ、もって窮地を脱したいと考えている。

 何のために?

 持説を自らの手で埋葬するために、とでも答えることにするか。


逸脱論的文法論■文に対する私の考えは、関係式「A・--・B」に還元できる何かであって、関係式に基づいて、次のように性質規定を行っている。

  Ⅰ 文は、三個以上の言葉からなる。
  Ⅱ 一個の述部動詞は、線として働く。
  Ⅲ 複数の名詞は、点として働く。

 たとえば、「太郎は花子に本を貸した」という文を関係式に還元すると、次のようになる。

      C
  A・--・--・B (A=太郎、C=本、B=花子)

 本は太郎の所有物であるから、太郎と本の関係は一体的な関係にあるといえる。これを時間であらわすと「過去」の関係となる。
 本は花子のものでないから、花子と本の関係は分離しているといえる。これを時間であらわすと「現在」の関係となる。
 ここに「緊張」の関係を導入すると、分離した2者の関係は繋がり、「未来」は、2者の一体関係が導かれることになる。したがって、花子と本は一つになったという「解」が導かれるはずである。
 今述べたこと整理すると、AとCの関係は一体関係にあるから、A=Cというように、等号の関係として表せる。
 一方のCとBの関係は、分離しているが緊張の関係を導入すると、両者の関係は繋がる結果、未来の解として、B=Cという一体関係が用意される。

 こういう関係式の還元は、「太郎は花子に本を貸した」という例文に限られるかというと、そうではなく、ほとんどの例文において還元が可能だと見ている。
 「ほとんど」と限定したのは、中には、例外もあるからで、私自身はこの点に非常な関心があり、後回しになるが、できるだけ取り上げたいと思っている。

 はじめに断っておきたいことは、私は言語の専門家ではないこと。また、その道のエキスパートとの交流もないし、指導を受けたこともない。
 では、素人の言語研究家であるかというと、これも怪しく、たとえば、専門雑誌「言語」に目を通してみて、中にある論文が理解できるかというと、できないと答えることしかできずにいる。
 理解できないから、素人研究家ではない、とするのは論理の短絡というものであろうから、水準には達していないが、一介の素人の研究家として「関係式」を通して見える事柄をノート風に書き留めることにする。


ノートⅠ□内在する時制論■関係式を通して、否応もなく見えてくるものは、式の内部にある過去と現在と未来との関係である。喩えていうならば、過去とは根のように潜在化しており、現在とは幹のように顕在化しており、その先端は見えずにいるが、あるとすれば、それは未来の果実というものではないだろうか。

 それが式の内部に存在する時制であるとするならば、述部動詞のもつ線的機能であることを証明する必要が出てくる。
 というのは、次の引用にあるように、時制は動詞機能のひとつと考えられているからだ。

《時制とは動詞が指示する時間の違いに応じて語形を変化させる機能のことである。(秦宏一「動詞と時制「言語」1989年9月号)

《動詞が表す内容の時間的位置(過去・現在・未来)を示す文法的範疇。また、それを表す言語形式。(広辞苑)

 とはいうものの、日本語の場合は、動詞自体には時制の機能はなく、膠着言語の性質上、助詞や助動詞を文末にべたべたとくっ付けて、時間を表すと考えられている。
 しかし、「太郎はご飯を食べなかった」という過去表現はありえたとしても、「ご飯を食べよう」という未来表現は、「呼びかけ」にかわる。同じように、「皿を洗おう」という未来表現は、押しつげがましい命令口調に聞こえてくる。
 こういう時制の問題は、すでに異口同音で語られていることであり、内在的な時間論は大野の論文に片鱗らしきものを見かけたが、ついぞ発展させることはなかったと認識。
 この点は、見習いと職人の関係にヒントを得て、過去を潜在的とし、現在を顕在的なるものとする時間哲学みたいな一考察があるので、これを別に提出することにし、ここでは簡単な説明を試みる。。
 例文「太郎は花子に本を貸した」の述部動詞「貸す」は、「aはbにCを貸す」というように、3つの格を要求する動詞である。
 動詞の持つ線的機能は、一般的に「運ぶ」と訳せる。つまり、過去的な一体関係にある一部(主語格の有する本)を抽出して、(一本の緊張の回路を伝って)運び出し、それを今に現れている他者(花子)に手渡すことで、その意味(ひとつになった)が未来に必然的に反映される仕組みの線的な時間と考えられる。
 ここで、述部動詞「貸す」の働きが「運ぶ」であるならば、その意味は、次の文に運ばれるという考え方が導かれるはずである。
 しかし、こういう意味が次の文へと繰り越されるという考え方は、外在的な時間論に傾くもので、内在的な時間論と混同される可能性が生じる。、
 ・・・(書きかけ)


補稿)■時間というものに対していろんな考えがあってしかるべきだが、そうだからといって文表現から離れてしまっては、その時間論は無用のものとなるであろう。
 そういう反省に立って、「内」と「外」の二つの時間的な考え方について簡単に述べる。
 たとえば、太宰治の作品『仙術太郎』に目を通すと、次のような三文を立ち上げている。

a むかし津軽の国、神梛木村に鍬形惣助という庄屋がいた。
b 四十九歳で、はじめて一子を得た。
c 男の子であった。

 文表現にある外在的な時間とは、目に見えるものである。二番目のb文を中心におくと、そこにある文は、それとは異なった別の文Aが「前」にあり、前文aの展開として次の文bがあると考えられ、更なるb文の展開として別の文cが「後」に用意されるという考え方ができる。。
 これに対して内在的な時間とは、外在的な時間に左右されない、その文の持つ固有の時間といえようか。
 この点は、  文bの「四十九歳で、はじめて一子を得た」という二番目の文に注目する限り、その文は〈男には妻がいたが、長い間、子供ができなかった〉という前提の下に展開している。しかし、前の文は、「鍬形惣助という庄屋」という男についての説明しか行っていない。
 このことから両者の間にはズレのあることがわかる。だから、そこに文があるということは、前文の外的な展開としてあると同時に、内的な前提的意味の展開でもあるという考え方が導かれよう。
 しかし、内的な意味としてどのような「未来」が開けるのかまでは読めないでいる。「長い間、子供が授からなかった」という前提的な意味を踏まえれば、それは「非常な喜び」を未来に用意するかもしれないが、こと文の内的な未来に関する限り、先の展開はやすやすと読めるものではない。
 引用では、「男の子であった」という文を配している。それは前の文の外的な展開であるが、必ずしも内的な意味の展開に結びつくわけではない。が、未来は感動の解消に向かうという意味では、内的な意味の解消に役立つものといえる。なぜなら、三番目の文は、「なんと男の子であった!」と内的に訳せるからだ。

 そういう時間論が内在的といいうるならば、過去は根のように潜在的であり、その展開として現在が幹のように顕在化しており、その展開として未来は象徴的な果実として解消されると考えることができる。
 この場合、未来に向かって解消されるものは、過去の持っている(混沌とした)エネルギーでなければならない。
 これを図式として表せば、次のようになる。

    C
A・==・--・B (=B+C)

註)等号は、一つになった関係を表す。式では、AとCの関係(過去)とBとCの関係(未来)に見ることができる。CとBは現在的な関係だが、両者の間には本来的には所有の関係はなく、無関係である。が、そこに導体となる一本の線で両者を結ぶ時、何かが運ばれて、新しい意味を産むと考えられる。それが「解」とみている。
 こういう時間作用を持つものが述部動詞と考えている。
 その働きが過去・現在・未来まで及ぶのか、そうではなく、内在的な時間の持つ必然的な流れによるものか、それはわからない。


ノート2□格関係■ここでいう格関係は、例文を図式に置き換えての始点格と終点格と動点格の三種を数えるのみである。
 主格とか対格という名称は仮のものとみているから、まずは使うことはない。
 たとえば、「太郎は窓から下校途中の愛らしい花子の姿をぼんやりと眺めていた」という文を式に還元すると、次のようになる。

    C
A・==・--・B (=B+C)

 見られるように、式に変化はない代わり、「窓は太郎(の目)を花子の姿まで運んだ」を訳される。運ぶには重過ぎる副詞や形容詞句は削られて、「太郎の目と花子の姿が一つになった」というスリムな意味が運ばれる仕組みである。
 こういう格関係がフィルモアの言う「深層格」かどうかは、知る由もないが、近い概念であることは間違いないと思っている。

参考資料■フィルモアが提起した深層格の思想は、言語研究の合理論的展開に新しい地平を拓いた。深層格はもともと諸言語の意味の構成における普遍的特徴の一種として提示された概念であって、この普遍的性格はそもそも意味の類型論を眺望していた。・・・(金子亨「動詞と格関係」言語の動詞学所収)


《・・・日本語には格はないのかというと、そうではない。ガ、ヲ、ニ、デ、カラ、マデ、トなどの助詞は格助詞といい慣らされていて、これらが、前接する名詞句の動詞に対する相対的な文法関係を表示することは広く認められている。・・・(同上)

ノート3■例外的な動詞□たとえば、「太郎は学校を休んだ」という文を機械的に図式に還元すると、「太郎と学校はひとつになった」という意味が運ばれて、「行く」の意味にすりかえられてしまうから、「休みを運ぶ」を書き換える必要が出てくる。

    C
A・==・--・B (=B+C)

 書くまでもなく、式は変わらない。「太郎は学校へ《休み》を運んだ」となり、必然的に「欠席」の意味が伝わる仕組みである。

・「太郎は花子を殺した」も同じで、「殺し」を運ぶとすることにより、「死亡」という意味が伝わる仕組みである。図式は、3点形式。

・「太郎は次郎から百円を借りる」は、「次郎は百円を太郎まで運んだ」と置けば、「百円を所有」という意味が伝わる。

 これまでの調べで、次の二通りの型が指摘できる。

  Ⅰ 加算   太郎は花子と出会う。太郎は学校へ行く。
  Ⅱ 名詞化 太郎は学校を休む。太郎は花子を殺す。


 この理由としては、述部動詞の働きがプラスの意味を持てば「運ぶ」と機能するが、中には、マイナスの意味をもって「運ぶ」動詞グループがあるからだと考えている。


  
ノート4□時枝の文法論批判■時枝の学説の特徴は、動詞説の不在なる点である。
 時枝にあっては自らの動詞説を有しないにもかかわらず、他の動詞説に口出しをしている。
 その点に疑問を抱いて『国語学原論』を読み直してつかんだことは、およそ次のような国語学史上のドラマである。

  a 山田孝雄が動詞の「作用言」説を打ち立てた。
  b 時枝は、山田の説を否定した。
  c 代わりに、ある説を国語学の上に移植した。

 cの「ある説」とは、例の詞辞説を指す。それをもって充当し、詞である動詞には統覚的な働きはなく、「包み込む」働きは「零記号」もしくは「よ」などの感動辞にあると考えたのである。
 その際に用いた否定の方法は、近代的な「ブリーコラジュ」に似たもので、大人げないやり方だと思う。
 まさかとわが目を疑ってしまうほどの、児戯に類する方法で打ち消しに掛かっているのだ。 
 たとえば、「妙なる笛の音よ」という文例をあげながら、次のように述べている。

《ー-然るに、山田博士は、文の統一を統覚作用に求めながら、私の考へとは違って、統覚作用は専ら用言にのみ寓せられてあるという氏の見解から、右の喚体の文の説明においては、統一点はむしろ体言の上に冠せられた「妙なる」の如き連体格にあると考へられたのである。(『国語学原論』三三三ページ)

 山田がそういう見解を持ったとしても、本当に否定すべきは「太郎は学校へ行く」といった動詞文を用いての統覚作用であるはずだ。
 この種の核心をつく論及が見当たらない以上は、「作用言」説は論駁されたのでもなんでもない。
 なぜなら、引用にあるような見解をうけたのであれば、それは揚げ足を取ることであり、その事実がないとすれば、説の歪曲を図ったのである。
 結局のところ、自説のプロパガンダのために利用したかのような、悪しき印象しか残らないのではないか。
 では、時枝の詞辞説は空説に過ぎないのか?

 この点は前章で述べたように、「ゆるい言語の体系」においてはじめて力を発揮するタイプの言説と思っている。「緊張の言語の体系」で使用すべき言説ではない、と考えている。

註1)たとえば、「花咲く」を例に挙げると、ゼロ記号を仮定して、包み込まれるとし、動詞「咲く」の働きを不問に付している。



ノート5□体用とは、運用の際の名称■もし、体用の意味を真摯かつ丹念に追究するならば、一つが名詞であり、もう一つは「助動詞」が代表するはずだ。動詞は定めし、中間に位置する「体用言」ともいうべきあいまいな品詞に落ちつくはずだ。
 しかし、この分類は、詞辞という古典的な分類法に抵触する。この意味からすると、時枝が概念内容の上から動詞規定を避けたのは賢明な措置といわざるを得ず、語形変化に「用」の意味を求めたのは、あくまでも一時の便法にすぎないことになる。
 要するに、矛盾を克服する妙案が思い浮かばなかっただけのことだ。
 いささか話は飛ぶが、便法を採用した結果、その後の動詞研究は、

①活用と接続
②語尾と語幹
③活用形
④動詞の活用の種類(『国語文法ー口語篇』岩波書店)

の現象的な四点に絞り込まれたのだ。

 一方で、「体用は運用の際の名称なり」と言ってのけたのは、山田孝雄とおぼろに記憶している。この意味は、運用において名詞が自らの動詞性を殺すのならば、動詞は自らの名詞性を殺すことと解している。

註2)この点は調べてみると、「余は句は文の素にして文は句の運用に際しての名称なりとせむとす」とあるように、記憶違いであることは確かだが、運用の際の名称であることは否定できないのではないか

 この「運用」という前提条件をはずした点においても、時枝の学説は時代の限界をこえることができなかったといえる。
 とにもかくにも、そのときに始まった便法的な考え方が支配するにいたり、今日の、伽藍堂ともいうべき、動詞論の空白の時代を招いたのだ。

 と書くと、当然反発の声が上がる。しかし、どの動詞論においても「動詞」規定において、山田の「作用言」説を超えるものは見当たらない。

 たとえば、「動詞と時制」を研究テーマとした場合、採用される時間論は、外在的な時間論である(秦宏一)。動詞の実体的なものとして推理される動詞のイメージは、「心理的実体」とされる(往生彰文)し、名詞と動詞の平行関係として対置されるときの動詞のイメージは、平板な「行為のイメージ」(池上嘉彦)でしかない。また、ある哲学者は動詞とは、「単なるものの名前である」(土屋俊)と結んでいる。
 いずれも『言語』特集「動詞学のすすめ」八十九年九月号による。