「遺棄願望」の無限連鎖構造●オモテとウラは?
これまでに書いたことと矛盾するかもしれませんが、凶悪的な犯罪行動を分析してみると、最初に露呈するものは、犯人の恐怖との一体化であります。次に、魔力を身につけ、復讐じみた願望を実現すると凶悪な事件としてあらわれるということです。
なぜこのような記述になるのかといいますと、恐怖と一体化する以前の彼犯人は、非・反社会的人物だからではないかと考えました。
たとえば、1988年7月16日の報道「母親に置き去りにされた十四歳の少年とその妹たち三人が、置き去りにした母親からの送金を頼りにマンションの一室で暮らしていたが、そのうちに少年がその友だち二人とともに、三歳にもならないひとりを妹をなぶり殺しにしてしまった」を受けて、芦沢俊介は、次のように書いています。
「・・・遺棄という暴力がここで、三重の同心円的構造を作っていたことが大切な点である。第一にまったく触れられなかったことだが、男による女と子どもの遺棄というということが起こっている。四人の子どもを置き去りにした母親はそれまで、五人の子どもを生んでいる。五人はひとりの男性とのあいだの子どもではなく、別々の三人の男性の子どもである。三人の男たちはみな、子どもと女を置いて去っている。ここに男たちによって最初の遺棄という暴力がふるわれたとみなすことができる。次に母親が子どもたちを捨てた。新しくできた愛人との生活に、五人の子どもは足手まといであった。報道は、母親の無責任な行動を厳しく非難している。けれど、これは、遺棄という暴力の二番目のものだった。母親は、男たちが自分たちを置き去りにしたように、子どもを置き去りにしただけであったのである。三番目の遺棄という暴力は、兄(大きな子ども)が妹(小さな子ども)を足手まといに感じだしたことによって、なぶり殺しにするという形をとって起きた」(芦沢俊介著『現代<子ども>暴力論』大和書房)
見られますように、今でいう「虐待の連鎖」を「同心円的構造」と見抜いて、「男たちによって最初の遺棄という暴力がふるわ」れ、「次に母親が子どもたちを捨て」て、「三番目の遺棄という暴力は、兄(大きな子ども)が妹(小さな子ども)を足手まといに感じだしたことによって、なぶり殺しに」したとして、「三重」の虐待構造を明らかにしています。
三重の同心的構造としてみる場合は、こういう問題は生じませんが、「連鎖構造」としてみる場合は、最初に暴力を振るった男の説明に困ります。
ですから、唐突な書き出しといいますか、「最初に露呈するものは、犯人(この場合は、DV男?)の恐怖との一体化」という記述を採用せざるをえなくなります。
次の暴力の担い手である母親は、送金している限り、子捨てとするには未遂の状況にあります。
三番目の暴力の担い手である兄は、末っ子を「なぶり殺し」となって、要領を得ない説明に終始しますので、書き直しを迫られる結果、次のように書き換えました。
最初に露呈するものは、子棄て願望と一体化した非・暴力的な《浅ましい》男であり、次の母親も子棄て願望と一体化した非・暴力的な《浅ましい》女であり、三番目の長男も幼い妹たちの子棄て願望に取り付かれた《浅ましい》ひとりという見方が成立するならば、その同心円的な遺棄構造は、遺棄願望の連鎖と説明できると思います。
土居の言葉を借りると、ウラで繋がった世代間連鎖といえると思います。
それが「暴力」でないのは、その前提にあるはずの関係性への固執がないからです。関係性への個室があれば、ヘゲモニーの確立を目的とした男の暴力だという主張も成立しますが、ない以上は、「暴力」といえないのではないかと思います。
ここで疑問が生じます。
長男が友だちとグルになって,末っ子を「なぶり殺し」にしたのは、「暴力」ではないのか?
その点に関しては、次の引用。
「事件は4月21日
まず、昼すぎに、友人たちのカップめんをN子ちゃんが食べてしまったとして、長男Hと友人O、PがN子ちゃんを含む妹たち3人を殴ったり蹴ったりした。妹たちがあやまり一段落、H、O、Pの三人はテレビを見始めた。ところが、夕方、N子ちゃんがそそうをしたため、友人Oが6畳の押入れ上段のふとんの上に押し込み、そこから落ちるのを見て楽しみ始めた。・・・三女N子ちゃんがぐったりしてしまった・・・」。(『タッチ』1988年8月23、30日号 所収は、前掲書)
見られますように、前記のような「暴力」の意義を満たすのは、N子ちゃんが「カップめん」を食べたことを機に振るわれた暴力をいい、次の殺人では、見事なまでに希薄化されています。
といいますのは、その責を帰すべき犯行主体(=恐怖主体)が不在だからです。
想定外の「そそう」というものに対して、少年たちはリセットボタンを押す意味を失ったといえるかもしれません。
鉄の秩序を保つために、いくら禁制を体で覚えさせたとしても、この種の女の子の生理現象にはお手上げだとでも思ったのかもしれません。
次の瞬間、「そんなN子ちゃんなんかこの世からいなくなってくれればいい」と願望が過ぎったかもしれません。
この願望には、「生理現象」なるものへの薄気味悪さ、怖いという意識が働いて彼ら自身を恐怖の一体化へと高めるかわりに、道化の道を選んだことがN子ちゃんのピエロ化に繋がったのではないでしょうか。
言い換えますと、「殺意不在」のまま、N子ちゃんは人間的な願望主体グループによって殺害されたということです。
このように見てきて、畠山鈴香被告の行った二つの殺人事件は、彩香ちゃん殺害事件では願望主体が執り行い、次の豪憲君殺害事件では恐怖主体が執り行ったということがいえるのではないでしょうか。
で、その間(ヤーヌスの二つの顔)にある、いわば恐怖の始めの始めにあるもの(特異点)とは、願望と挫折に満たされた揺籃期の胎児のごときものではなかったでしょうか。
これまでに書いたことと矛盾するかもしれませんが、凶悪的な犯罪行動を分析してみると、最初に露呈するものは、犯人の恐怖との一体化であります。次に、魔力を身につけ、復讐じみた願望を実現すると凶悪な事件としてあらわれるということです。
なぜこのような記述になるのかといいますと、恐怖と一体化する以前の彼犯人は、非・反社会的人物だからではないかと考えました。
たとえば、1988年7月16日の報道「母親に置き去りにされた十四歳の少年とその妹たち三人が、置き去りにした母親からの送金を頼りにマンションの一室で暮らしていたが、そのうちに少年がその友だち二人とともに、三歳にもならないひとりを妹をなぶり殺しにしてしまった」を受けて、芦沢俊介は、次のように書いています。
「・・・遺棄という暴力がここで、三重の同心円的構造を作っていたことが大切な点である。第一にまったく触れられなかったことだが、男による女と子どもの遺棄というということが起こっている。四人の子どもを置き去りにした母親はそれまで、五人の子どもを生んでいる。五人はひとりの男性とのあいだの子どもではなく、別々の三人の男性の子どもである。三人の男たちはみな、子どもと女を置いて去っている。ここに男たちによって最初の遺棄という暴力がふるわれたとみなすことができる。次に母親が子どもたちを捨てた。新しくできた愛人との生活に、五人の子どもは足手まといであった。報道は、母親の無責任な行動を厳しく非難している。けれど、これは、遺棄という暴力の二番目のものだった。母親は、男たちが自分たちを置き去りにしたように、子どもを置き去りにしただけであったのである。三番目の遺棄という暴力は、兄(大きな子ども)が妹(小さな子ども)を足手まといに感じだしたことによって、なぶり殺しにするという形をとって起きた」(芦沢俊介著『現代<子ども>暴力論』大和書房)
見られますように、今でいう「虐待の連鎖」を「同心円的構造」と見抜いて、「男たちによって最初の遺棄という暴力がふるわ」れ、「次に母親が子どもたちを捨て」て、「三番目の遺棄という暴力は、兄(大きな子ども)が妹(小さな子ども)を足手まといに感じだしたことによって、なぶり殺しに」したとして、「三重」の虐待構造を明らかにしています。
三重の同心的構造としてみる場合は、こういう問題は生じませんが、「連鎖構造」としてみる場合は、最初に暴力を振るった男の説明に困ります。
ですから、唐突な書き出しといいますか、「最初に露呈するものは、犯人(この場合は、DV男?)の恐怖との一体化」という記述を採用せざるをえなくなります。
次の暴力の担い手である母親は、送金している限り、子捨てとするには未遂の状況にあります。
三番目の暴力の担い手である兄は、末っ子を「なぶり殺し」となって、要領を得ない説明に終始しますので、書き直しを迫られる結果、次のように書き換えました。
最初に露呈するものは、子棄て願望と一体化した非・暴力的な《浅ましい》男であり、次の母親も子棄て願望と一体化した非・暴力的な《浅ましい》女であり、三番目の長男も幼い妹たちの子棄て願望に取り付かれた《浅ましい》ひとりという見方が成立するならば、その同心円的な遺棄構造は、遺棄願望の連鎖と説明できると思います。
土居の言葉を借りると、ウラで繋がった世代間連鎖といえると思います。
それが「暴力」でないのは、その前提にあるはずの関係性への固執がないからです。関係性への個室があれば、ヘゲモニーの確立を目的とした男の暴力だという主張も成立しますが、ない以上は、「暴力」といえないのではないかと思います。
ここで疑問が生じます。
長男が友だちとグルになって,末っ子を「なぶり殺し」にしたのは、「暴力」ではないのか?
その点に関しては、次の引用。
「事件は4月21日
まず、昼すぎに、友人たちのカップめんをN子ちゃんが食べてしまったとして、長男Hと友人O、PがN子ちゃんを含む妹たち3人を殴ったり蹴ったりした。妹たちがあやまり一段落、H、O、Pの三人はテレビを見始めた。ところが、夕方、N子ちゃんがそそうをしたため、友人Oが6畳の押入れ上段のふとんの上に押し込み、そこから落ちるのを見て楽しみ始めた。・・・三女N子ちゃんがぐったりしてしまった・・・」。(『タッチ』1988年8月23、30日号 所収は、前掲書)
見られますように、前記のような「暴力」の意義を満たすのは、N子ちゃんが「カップめん」を食べたことを機に振るわれた暴力をいい、次の殺人では、見事なまでに希薄化されています。
といいますのは、その責を帰すべき犯行主体(=恐怖主体)が不在だからです。
想定外の「そそう」というものに対して、少年たちはリセットボタンを押す意味を失ったといえるかもしれません。
鉄の秩序を保つために、いくら禁制を体で覚えさせたとしても、この種の女の子の生理現象にはお手上げだとでも思ったのかもしれません。
次の瞬間、「そんなN子ちゃんなんかこの世からいなくなってくれればいい」と願望が過ぎったかもしれません。
この願望には、「生理現象」なるものへの薄気味悪さ、怖いという意識が働いて彼ら自身を恐怖の一体化へと高めるかわりに、道化の道を選んだことがN子ちゃんのピエロ化に繋がったのではないでしょうか。
言い換えますと、「殺意不在」のまま、N子ちゃんは人間的な願望主体グループによって殺害されたということです。
このように見てきて、畠山鈴香被告の行った二つの殺人事件は、彩香ちゃん殺害事件では願望主体が執り行い、次の豪憲君殺害事件では恐怖主体が執り行ったということがいえるのではないでしょうか。
で、その間(ヤーヌスの二つの顔)にある、いわば恐怖の始めの始めにあるもの(特異点)とは、願望と挫折に満たされた揺籃期の胎児のごときものではなかったでしょうか。