さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
向かうはわが身の置き場所よ。
帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

仏教の話 ☆ 番外編 ≪禅語(喫茶去)≫

2012年12月08日 16時20分01秒 | 神・仏教・民俗の話

Photo by (c)Tomo.Yun

≪喫茶≫

【国語】 きっさ

茶を飲むこと。「喫茶店」

【参考】  

喫茶とは仏教独自のものではなく、古くから中国に伝わる習慣であった。
ただ禅宗では団体生活を送る中で、日常の節目ごとに全員が集まって
茶を飲む茶礼というきまりがあった(『禅苑清規』一巻、赴茶湯)。
このようなこともあって茶は禅宗と深く結びついてやがては日本において
禅の精神が取り入れた茶道が生み出されるに至った。

 

≪喫茶去≫

【禅語】 きっさこ

☆『国語の中の仏教後辞典』 (東京堂出版)
  中国唐代の禅僧、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん:778~897)が
  修行僧に言った語として有名である(趙州録)。
  「お茶を飲みに行け、お茶でも飲んで出直して来い」
  という意で、相手の不明を叱責する語である。しかし、後には、
  「お茶を召し上がれ」の意に解され、お茶を飲むという日常の営み
  そのままが悟りであるという意にとられるようになった。

 

  

 

~以下『禅語喫茶去』様HPより引用させて頂きました~

☆『 訓註 禅林句集』 (改訂版)
  「まあ、お茶を一杯召し上がれ」 

☆『茶の湯 禅語便利長』 (主婦の友社)
 「喫茶はお茶を飲むの意味、去は意味を強める助字。
 従って、お茶でも飲もうよの意味」

☆『禅語字彙』 (柏林書店)
 「茶でも飲んで行け」の機語。 

☆『禅語辞典』 (恩文閣出版)
 「喫茶し去れ」お茶を飲んでから出直してこいの意味。

☆『禅林名句辞典』 (国書刊行会)
 「むずかしい話は抜きにして、まあお茶でも召し上がれ。
  お平らに、お楽にという意味」


【 趙州喫茶去 】


この言葉は次のような話にちなんでいます。

趙州禅師のところに二人の修行僧が来た。

師 : 前にもここに来たことがあるか?
僧一: 来たことがありません
師 : 喫茶去

もう一人の僧に趙州がたずねた。

師 : 前にもここに来たことがあるか?
僧二: 来たことがあります
師 : 喫茶去

院主が師に尋ねた。

院主: 前に来たことがない者に『喫茶去』とおっしゃり、
     前にも来たことがある者にも、『喫茶去』とおっしゃる。 
     なぜですか?

師 : 院主さん!
院主: はい。
師 : 喫茶去
 

~ 引用 ココまで ~

 

【 『碧巌録』 第九五 】

長慶:煩悩を断ち切った阿羅漢でさえ煩悩たる貧瞋痴(とんじんち)
    の三毒があると如来は説いておられる。
保福:
説くのは一つであっても、受け取り方は聞くほうによってわかれる。
長慶:やはり如来が説法した語がある。ただ唯一無二大乗の法のみ
    あって、二無く三無しだ。常に大慈大悲の一言一語ある。
保福:如来語だの衆生語だの区別することが既に執(とら)われである。
長慶:如来のありがたい言葉も耳が不自由ならば聴けぬぞ。
    知れきったことを聞くのは聾同様、云うても無駄だ。
保福:貴公は第二義門に落ちて注釈をしておりはせんかな。

という二人の問答(要約)ののち、

 

―― 慶(長慶慧稜、854~932)云わく、

作縻生(そもさん=いかに、いかん)か是如来の語。

保福(従展〈じゅうてん〉?~928)云わく。喫茶去。――
                         
    

(意味)長慶が、「如来の語とは如何」と尋ねた。
     是に対して保福は何と答えたか。
     「まあお茶でも飲んでいけ」と。

 


「喫茶去」はお茶席によく掲げられる文字だが、上記のように
辞書にいよっては解釈がいろいろあるようだ。ネットで検索したら、
「茶を飲んで去れ、お茶でも飲んで出直して来い」という意味では
決してないという注意書きした喫茶店も多々見つかった


―― しかし、

私はこちらのサイト様のご意見が一番納得しました→ 『喫茶去とは!?』

 

日本における茶の道の完成者、千利休ももちろんそのことの意味
をよく知っている男だった。その上で利休は、こうも云った。
「自分の亡き後、茶道は広まるだろうが、お茶の心は廃れるだろう」

 

確かに利休の時代のお茶の心は、心の修行、禅の修行へと繋がり、

悩み多き辛いものとなっていたに違いないでしょう。

でも、また、時代が変わりお茶が大衆のものとなってしまったからには、

今現在をありのままに受け止めて、「茶を喫する」ことは、やんわりと

人の心が癒されるものになってしまったとしても、それもまた、現代の

お茶の心と言えるのかもしれません。ようは、それぞれの見方で、

見る人によっては変わってしまうものだから、答えはひとつではない。

 

こだわりを捨てること・・お茶を頂くという動作は変わらない。

今、そのときそのときを大事にしましょうということなのだと思います。

日常生活の中にこそ仏法があるのですから。

 

 


 

≪参考に≫

碧巌録
 
 時代(1125年)に圜悟克勤によって編された。雪竇重顕選の公案百則に、

  垂示(序論的批評)、著語(部分的短評)、評唱(全体的評釈)を加えたもの。
  入矢義高末木文美士溝口雄三、伊藤文生4名の校注が、岩波文庫
  ワイド版が上中下巻で、現代語訳版も末木等の「碧巌録研究会」により、
  岩波書店上中下巻で刊行された。末木文美士 『「碧巌録」を読む』(岩波書店
  〈岩波セミナーブックス〉、1998年)も出版されている。
  旧岩波文庫版『碧巌録』全3巻は朝比奈宗源校注だったが、一穂社で復刻されている。
  同じ禅者で花園大学学長も務めた大森曹玄 『碧巌録』上・下(タチバナ教養文庫:
  たちばな出版、1994年)がある。(ウイキペディアより)

 

   『国語の中の仏教語辞典』 森 章司:編
   『碧巌録提唱 下巻』 西片擔雪:著

 

 

 

 

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