人間が現在理解していることは、全て教義であると言える。なぜなら、人間が理解している事は、人間が経験した事の全てではないからである。現在まであなたが継続出来たのは、すべて新たな光の主導のおかげである。あなたの背丈が一定水準に達したのではなく、この日まであなたを導いてきたのはわたしの言葉である。あなたに大いなる信仰があるのではなく、わたしの言葉の知恵のために、あなたは現在まで付き従わずにはいられなかったのである。今、わたしが語らず、声を出さなかったとしたら、あなたがたは継続できず、直ちに前進を止めるであろう。それがあなたがたの真の背丈ではないのであろうか。あなたがたは、自分がどの側面から入っていくべきなのか、自分に欠落している事の埋め合わせをどの側面においてするすべきかを全く知らない。あなたがたは有意義な人間の生活を生き抜く方法や、神の愛に報いる方法、強く明白な証しに立つ方法を理解していない。あなたがたはこれらを全く達成できない。あなたがたは怠け者であり、かつ愚か者である。あなたがたは何かに依存することしか出来ず、あなたがたが依存しているのは新たな光であり、あなたがたを先導する存在である。あなたが現在まで続けてこられたのは、新たな光と最新の言葉に完全に依存してきたからである。あなたがたは、真理の道の追求に熟達していたペテロや、ヤーウェを敬虔に礼拝し、ヤーウェからどのように試されても、恵みを授けるか如何を問わずヤーウェが神であると信じることが出来たヨブに遠く及ばない。あなたにはそうすることが出来るであろうか。あなたがたはどのように征服されたのであろうか。ひとつの側面は裁き、刑罰、そして呪いであり、もう一つの側面は、あなたがたを征服する奥義である。あなたがたは皆、ロバのようである。わたしが述べる事が十分に高尚でなく、全く奥義がなかったとしたら、あなたがたは征服され得ない。仮に、ある人がある期間、常に同じ事柄について説教したとしたら、あなたがたは誰も二年経たないうちに逃げ出し、それ以上続けられないであろう。
現時点において、あなたがたにとって状況はどうであろうか。現在、このようにわたしはあなたを導いており、あなたはこれは素晴らしいと思っている。この状況ではあなたに降りかかる周辺環境や試練はないが、実際にあなたの霊的背丈がどのようなものか、あなたが本当に真理を追求する者かどうかを確認することは出来ない。あなたは自らの本質を理解したと口で言うものの、それは空虚な言葉である。後に、事実があなたに示されて初めて、あなたの認識は確認されるであろう。現在、あなたには「私の肉は極めて堕落していること、人間の肉の本質は神に反逆し、反抗することであることを理解している。神の裁きと刑罰を受けることが出来るのは、全て神による引き上げである。今そうだと分かって、神の愛に報いたい」といった認識があり、そう言うのは簡単だが、後に苦難や試練、困難が起きると、それらを経験するのは簡単ではないであろう。あなたがたは、毎日このような付き従い方をしているが、未だに自らの経験を続けられない。わたしがあなたがたを見捨て、あなたがたに配慮しなかったとしたら、状況は更に悪化するであろう。殆どの人間が倒れ、恥の象徴である塩の柱となるであろう。これらはどれも有り得る事である。このことを懸念したり不安に思ったりしていないのであろうか。ペテロはそうした環境を経験し、そうした苦難を経験したが、依然として揺るぎなく立っていた。そうした環境があなたにもたらされたとしたら、揺るぎなく立っていられるであろうか。イエスが地上にいる時に言った事や行った働きはペテロに基礎を授け、ペテロはその基礎を起点として、その後の道を歩んだ。あなたがたは、それほどの段階に達することが出来るだろうか。これまでに歩んだ道と、理解した真理は、あなたが今後揺るぎなく立つための基礎となり得るであろうか。それらはあなたが今後揺るぎなく立つためのビジョンとなり得るであろうか。あなたがたに真理を伝えよう。
なぜ今あなたがたは道の最終行程にいると言われるのだろうか。それはあなたがたが理解すべき事を全て理解し、人間が達成すべき事についてわたしが全て語ったからである。あなたがたに託された全ての事についても、わたしはあなたがたに伝えた。したがって、現在あなたがたが歩んでいるのは、わたしが導いている道の最終区間なのである。わたしは、あなたがたが独立して生きる能力に達することが出来ること、何時でも歩むべき道を維持し、常に自らの能力を向上させ、神の言葉を正しく読み、適切な人間生活を送ることのみを要求する。わたしは現在このように生活するようにあなたを導いているが、将来には導くことはないであろう。それでもこのように生活できるだろうか。続けることが出来るだろうか。これがペテロの経験した事である。イエスがペテロを導いていた時、ペテロには認識が全くなく、常に子供のように不注意であり、自分の行動に関して真剣ではなかった。イエスが去った後に初めて、ペテロは適切な人間生活を開始した。ペテロの有意義な人生は、イエスが去った後に初めて始まったのである。ペテロは正常な人間性の理知や正常な人間が備えるべき事を幾分かは備えていたが、ペテロの真の経験と追求はイエスが去るまで始まらなかった。
人間は、征服された後に、神の指揮に従うことができ、自らの信仰と意志をよりどころとして神を愛し、神に付き従うことが出来る。では、道の最終行程をどのようにして歩むことが出来るだろうか。あなたは苦難を経験する日々において、あらゆる困難を受け、苦しむ意志を持たなければならない。この方法によってのみ、道の最終行程を歩むことが出来る。道の最終行程を歩むのはそれほど容易だと思っているのか。あなたは自分が果たすべき役割を知り、自分の能力を向上させ、しかるべき真理を身に付けなければならない。これは一日、二日の働きではなく、あなたが考えるほど単純ではない。道の最終行程を歩むことは、あなたがどのような信仰と意志を本当にもっているのかにかかっている。あなたの中で聖霊が働いているのが分からなかったり、教会で聖霊の働きを見出せなかったりして、悲観的になり落胆し、前途について絶望に満ちているかもしれない。特に、以前は偉大な闘志だった者は皆、倒れている。これはあなたにとって大打撃ではなかろうか。こうした物事をどのように受け止めるべきであろうか。あなたには信仰があるのであろうか、ないのであろうか。あなたは現在の働きを完全に理解しているのであろうか、ないのであろうか。あなたが道の最終行程をよく歩むことが出来るかどうかは、これらの事にかかっている。
ペテロは良心のある人間であった。すなわち、ペテロにはその種の人間性があった。ペテロが最初にイエスに付き従った時、反抗的で反逆的な考えを数多く抱かずにはいられなかった。しかしイエスに付き従っている間に、そうした考えを真剣に受け止めず、人間とはそういうものだと考えていたので、当初ペテロは全く非難を感じることもなく、取り扱われることもなかった。イエスはそのようなペテロの反応を深刻に受け止めることも、気にかけることもなかった。イエスはただ自らが行うべき働きを続けた。イエスはペテロやその兄弟に小言を言うことは決してなかった。「イエスはペテロ達が反応して抱いた考えを知らなかったのではないだろうか」とあなたは言うかも知れない。そのようなことは一切ない。それはイエスがペテロを真に理解していたからである。イエスはペテロを深く理解し、ペテロに対して何も対処しなかった、と言えるであろう。イエスは人類を嫌っていたが、同時に人類を哀れんだ。現在あなたがたのうちにパウロのように反抗し、また主イエスに対してペテロが当時そうであったように、多数の観念を抱いている者が大勢いるのではないだろうか。言っておくが、自分の第三感を過信しないほうが良い。あなたの感覚は信頼出来ないものであり、ずっと以前からサタンによってすっかり壊されている。自分の感覚が絶対的に完璧だと考えているのだろうか。パウロは主イエスを何度も拒んだが、イエスは全く反応しなかった。イエスは病人を癒やし、悪霊を追い払うことが出来たが、パウロの中の「悪霊」は追い払うことが出来なかったのであろうか。イエスが復活して昇天した後になって初めて、パウロがまだ無慈悲にイエスの弟子達を捕らえ続けていたとき、ダマスコに向かう道中のパウロの前にイエスが現れパウロを打ち倒したのはなぜだろうか。主イエスの対応が遅すぎたのであろうか。あるいは、肉にある主には全く権威がなかったからであろうか。あなたがわたしの背後で密かに破壊的で反抗的になっている時、わたしがそれを知らないと思っているのか。聖霊から得た啓きの断片を用いてわたしに反抗出来ると思っているのか。ペテロが未熟だった頃、イエスに対する考えを多数抱いたが、それなのになぜペテロは咎められなかったのであろうか。現在、多数の者が咎められることなく様々なことをしており、そうした者は行動が不正であると明白に言われても耳を傾けない。それはひとえに人間の反逆性のせいではないであろうか。わたしは今まで多くの事を述べたが、あなたは依然として僅かばかりの良心の認識さえ欠いている。そんなことでどうして道の最終行程を最後まで歩くことができるであろうか。これが甚大な問題であると感じないだろうか。
あなたがたは今、道の最終行程にあり、これは道の中でも極めて重要な部分である。おそらくかなりの苦難に耐え、多くの働きを行い、多くの道を歩み、多くの説教を聞いてきたであろう。また現在に至るまでは容易ではなかったであろう。もしも目の前にある苦難に耐えることが出来ず、またこれまでと同様に継続するならば、あなたが完全にされることは不可能であろう。これはあなたを怖がらせようとしているのではなく、事実である。ペテロは神の働きをずいぶん経験した後、ある程度の識見と大いなる分別を得た。またペテロは奉仕の原則をかなり理解し、イエスがペテロに託したことに後になって完全に専念することが出来た。ペテロが受けた大いなる鍛錬は、そのほとんどがペテロが自分の行いにおいて神への借りが大きすぎて決して神に返すことが出来ないであろうと感じたこと、また人間が極めて堕落していることを認識したために良心の呵責を感じたためである。イエスはペテロに対して数多くの言葉を述べたが、その時ペテロはほんの僅か理解したに過ぎなかった。ペテロは依然として、時折反抗したり反逆したりしていた。イエスが十字架に架けられた後、やっとペテロに多少の目覚めが訪れて、自分は酷く罪深いと感じた。最終的に、ペテロの目覚めは、誤った考えが浮かんだ時に取り乱すほどの段階に達した。ペテロは自らの状態と主の聖さをよく知っていた。その結果、主を愛する心がペテロの中で一層膨らみ、ペテロは自らのいのちに一層集中するようになった。それが原因でペテロは大いなる苦難を受け、ときにはあたかも重病を患い、臨終の時が迫っているかのようになることあったが、このような鍛錬を何度も受けた後、自らに関する認識を増やし、そのようにして初めて主への真の愛がペテロの中で育まれた。ペテロはその生涯を鍛錬の中で、そしてそれ以上に刑罰の中で過ごしたと言えるであろう。ペテロの経験は他の誰の経験とも異なり、ペテロの愛は、完全にされなかったあらゆる者の愛を超越していた。ペテロが規範に選ばれたのは、ペテロが人生において最も多くの苦痛を経験し、またその経験が最も成功したからである。あなたがたが真にペテロのように道の最終行程を歩むことができるならば、あなたがたの恵みを奪うことが出来る被造物は一つとしてないであろう。
遅かれ早かれ、そうした者は排除されるが、克服者は神の国に残るであろう。人間が神を真に求めているかどうかは、その者に対する業の試みすなわち神の試練により判断され、人間自身の判断とは無関係である。神が誰かを気まぐれで拒否することは無い。神が行う業は、全て人間が完全に確信するためのものである。神は、人間に見えない物事や、人間を確信させることが出来ない業を一切行わない。人間の信仰が本当であるかどうかは、事実により結果が求められるものであり、人間が決めることは出来ない。「麦を毒麦に変える事はできず、毒麦を麦に変える事も出来ない」ことは、間違い無い。神を真に愛する者は、全員最終的に神の国に残り、神は神を真に愛する者を虐げられることは無いであろう。神の国の中の克服者は、様々な役割と証に基づいて祭司として、あるいは信者として仕えるであろう。また苦難を克服した者は、全て神の国で祭司となるであろう。祭司の集団は、宇宙全体における福音の業が終わった時に結成されるであろう。その時が到来すると、人間がなすべき物事は、神の国において自分の本分を尽くし、神と共に神の国で生活することとなるであろう。祭司の集団には、長たる祭司と、祭司が居て、それ以外の者は神の子、神の人々となるであろう。こうしたことは、苦難の時における神に対する証により判断される。そうした地位は、気まぐれで与えられたものでは無い。人間の地位が確立した後、神の業は停止する。なぜなら、各人が分類され、元来の地位に戻されるが、それが神の業の成果のしるしであり、神の業と人間の実践の最終結果であり、神の業のビジョンと人間の協力の結晶だからである。結局、人間は神の国で平穏を得て、神もまた自らの生活場所に戻って休息を取るであろう。これが、神と人間の6000年におよぶ協力の最終結果である。
人間性が欠如している者は、神を真に愛することが出来ない。環境が安全で安心なものである時、あるいはそうした者が利益を得る時、そうした者は神に対して完全に従順であるが、自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりした時、そうした者は直ちに反乱を起こす。ほんのひと晩の間に、そうした者は、にこやかで「親切な」人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の根拠も無く、それまでの恩人を生かしておけない敵として扱う。こうした一瞬にして殺しを行う悪魔が追放されていない場合、そうした者は、それ以上の苦難の根源となるのではなかろうか。人間を救う業は、征服の業が完了した後には実現しない。征服の業が終わったとしても、人間を清める業は終わっていない。そうした業は、人間が完全に清められ、真に神に服従する者が完全にされ、見せかけだけで神が自分の心に無いものが粛清され終えて、初めて完了する。神の業の最終段階において神に満足してもらえない者は完全に排除され、排除される者は悪魔である。そうした者は神に満足してもらうことができず、神に対して反抗し、そうした者は現在神に付き従っているが、それはそうした者が最後に残る者であることを証明するものではない。「神に最後まで付き従う者は救われる」において、「付き従う」とは、苦難の中で揺るぎなく耐えることである。現在、多くの者が、神に付き従うのは容易であると考えているが、神の業が終わろうとしている時、あなたは「付き従う」という言葉の真意を知るであろう。征服された後の現在も依然として神に付き従うことが出来るということだけでは、あなたが完全にされる者の一人であることは証明されない。試練に耐えることも、苦難を克服することも出来ない者は、最終的に、揺るぎなく耐えることが出来ず、最後まで神に付き従うことが出来ないであろう。真に神に付き従っている者は、自分に対する試練の業に耐えることが出来るが、真に神に付き従っていない者は、いかなる神の試練にも耐えることが出来ない。
神の国の時代において、人間は全き者とされる。征服の業の後、人間は精錬と苦難の対象となる。この苦難を克服し、この苦難において証に立てる人間が、最終的に完全にされる者である。そうした者は、克服者である。この苦難の時において、人間はこの精錬を受け容れる必要があり、その精錬が神の業の最後に存在する物である。精錬は、神による経営の業全ての完了前に、人間が精錬される最後の時であり、神に付き従う者は全員、この最後の試練を受け容れる必要があり、この最後の精錬を受け容れる必要がある。苦難に煩わされる者には、聖霊の業と神の導きが不在であるが、真に征服され、神の心を真に求める者は、最終的に揺るぎなく耐えるであろう。そうした者は、人間性を備え、神を真に愛する者である。神がどのような業を行われても、そうした勝者はビジョンを奪われることが無く、証に立つことに失敗することなく、依然として真理を実践するであろう。そうした者は大いなる苦難を最終的に克服する者である。依然として嵐の海で漁をする者が他人にたかることが出来るとしても、最後の苦難を逃れられる者はおらず、最後の試練を逃れられる者は居ない。克服する者にとって、そうした苦難は大いなる精錬である。しかし、嵐の海で漁をする者にとって、それは完全な排除の業である。そうした者がどのようにして試されるとしても、心の中に神が存在する者の忠義は変わることが無い。しかし、心の中に神が存在しない者については、神の業が自分の肉に有利で無いならば、神に対する見方を変え、神から去ることさえある。そうした者が、最後に確固として耐えない者であり、神の祝福を求めるだけで、神のために費やし、神に自らを捧げる願望が一切無い者である。こうした下劣な人々は、神の業が終わりを迎えた時に全員排除され、同情の余地の無い者である。
そうした人々は全員、自分が地上で最も賢いと信じており、何ら理由なく神の業の継続的な展開を中断させ、そうした「神に対する至高の忠義があり、神に付き従い、神の言葉を遵守する」自分を、神は天に引き上げられると、完全な確信を持っているようである。そうした者は、神の言葉に対して「至高の忠義」があるにもかかわらず、言動が極めて忌まわしい。なぜなら、そうした者は聖霊の業に反対し、謀略や邪悪をはたらくからである。最後まで付き従わない者、聖霊の業から遅れる者、旧来の業に固執する者は、神への忠誠を満たせなかったどころか神に反抗する者となり、新たな時代に拒否され、罰を受ける者となっている。それ以上に哀れなことがあるだろうか。多くの者は、旧来の律法を拒否して新たな業を受け容れた者は、良心が無いとさえ信じている。良心に関して話をするだけで聖霊の業を知らない者は、究極的には自らの良心のために見通しを中断される。神の業は教義に準拠しておらず、またそれは神自身の業であるが、神はそれに固執しない。否定されるべき物事が否定され、排除されるべき物事が排除される。しかし、人間は神の経営の業のうち、ほんの一部に固執し、よって自ら神と対立している。それは人間の不合理ではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを畏れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福と、最後の祝福を得ることが一層不可能となる。盲目的に律法を遵守している人々は皆、律法に対して最高の忠義を示し、そうした者が律法に対して最高の忠義を示せば示すほど、そうした者は一層神に反抗する反逆者である。現在は律法の時代ではなく神の国の時代であり、現在の業を従来の業と比較することはできず、過去の業を現在の業と比較することは出来ない。神の業は既に変化しているので、人間の実践もまた変化した。現在の実践は、律法を守ることでも、十字架を負うことでも無い。したがって、律法や十字架に対する人間の忠義は、神の承認を得ないであろう。