水害で生き残った苗を寄せ集めたり
道端にあったものを抜いてきたりして
少しづつ 株分けしながら 2個所で ここまで増やしたジュリアンが
花を咲かせ始めました。
両親が植え育てていたものを絶やさずに 咲かせることが出来ました。
同じく 両親が植えた 防波堤下の『アジサイ』と『ヤマブキ』も水害に負けず生き残りました。
最後は忘れっぽくなった義母に山吹の花を見ながら
『七重八重・・・?』と聞くと
母は続けて『 花は咲けども山吹の
実のひとつだに なきぞ悲しき』
とスラスラ続けていたことを思い出します。
歳を取って私も父の事をよく思い出します。
私と違い何でもできる多能な人でした。
今は形見のエアブラシでプラモの色付けをしていますが、彫った能面に色付けしていた姿を思い出しながら・・・・
いつもコメントありがとうございます。
母は最後の5年間は認知症でしたが なぜか太田道灌の この句だけは言えました。刷り込まれていたのでしょう。
謙遜されていますが、Rockey様も 才能の溢れた方と お見受けします。やはり血はつながっています。