子供の頃から好奇心旺盛で色んな機械をバラしては壊す、良く居る子供の一人だったでしょうか。今は分解しても、目に見えるメカニズムで完結する機械は乏しく、電子機器やソフトウエアこそがモノづくりの表舞台の感もあります。 それゆえ幼少の頃のインスピレーションと具体的な創造過程が今の若者に育つのか、いくらか心配な気もします。(ドイツではマイスター制度も含め、企業内に昔ながらの工程を学ぶ伝承設備がありました。昔ながらの測定方法と、最新のレーザ測長を併用して記録を残してたりします)
個人発明家でモノをつくるなら、ひたすら理想追求の設計を志向しつつ、しかし通常は資金の制約をうけるでしょう。企業におけるモノづくりもマーケティング、企画段階での外殻を決められた後、ターゲットコストと持ち得る技術リソースの範囲で、あれこれ各部署と調整という戦いを経て、なんとかましなものを世に問いたい、、と苦戦するものです。
ところがそれは、与えられた要求の中であっても「こうあるべきだ」との理想、あるいは思い込みによる「理想像」との相対化によって、初めて葛藤がうまれ、妥協と言うバランス取りをしてなんとか産み落とされて行きます。そのような葛藤を経ず、ヒラメで生まれたモノには魂は宿らないでしょう。
開発に向かう姿勢は、その対象物の置かれた環境(競合状況や自社のポジション、経営的状況などなど)により様々ですが、幸いにして私は複数のパターンを経験させてもらうことが出来ました。若い時分からは相当変節してきたように思います。
若い時は、単純ロジックで実力も有りませんから
①「要求仕様をいかに実現するか」で精一杯
とは言いながら、既にある方法論で作るなら、それは既にあるメーカに任せりゃいいじゃん。
人類のリソースの無駄使い、企業の独善的な、顧客不在の無駄な争い・・・
なんて考えるもんだから厄介者扱いだった気がします。これは所属する企業文化にも因るでしょうね。
F1みたいに、「性能の絶対値を追いかけるあまり、操作運用が犠牲になる」 結局機械は全自動無人メンテナンスフリー、、なんてことを実現しない限り「人が動かす」という原点を見失うと、「あれ?ここ凹んでますね。」とお客様に聞くと、「ああ、従業員が蹴ったんですね」と、そんな機械になっちまうw。
次に
②「そもそも要求機能は正しいか?」
とマーケティングに難癖をつけ、それじゃあと自分で市場調査し、要求そのものを創り上げ、そこからそれを実現する機構を考案し作る。今度はシンメトリカルな歪ゼロを目指すよりも、メンテナンス容易な、片持ちアンバランス構造。しかしそれでも精度を崩さないのが遠回りだけど技術と言うものだろう。。なんて思えるようになる。見る目の審美眼が変わった頃。
自然は神様の法則どおりなので、極めて美しい。しかし人工物がそれをそのまま真似ても勝てない。そこに人間が居て初めて完成する形だと美しく見えるようになる。
次にバブルは崩壊し、コストダウンが花形に。安かろう悪かろうの中国製さえ、早く末端貧乏人にまで恩恵を与え得る、、という正義によって、人間の作った「模倣はダメよ」のルールなんぞ飛び越えて10億の民に分配される。液晶TVやCD、DVD、携帯電話、そう言ったものは「モノづくり」の日本人の職人的感性からは、思いも至らない。確かに修理が必要な時期には、陳腐化している技術だからね。
顧客の声を聴いたアンケートなんぞ、マーケティングでもなんでもない。2つの強力な意思だけが商品開発を決める
A)売れた商品が、良い商品
という流通、ブランドなぞに物言わせた物量作戦で技術を飲み込む強者の戦略。
消費者は、売れてるからには良いものだ、、というステレオタイプの自分で指針を持たない分野の商品は、おおむねこうやって買われている。
B)顧客の声の矛盾を突いて、解決提示の出来る新技術商品
広いトランクがほしい、、というアンケート結果で、オーバハングのでかい無駄に大きな車が誕生する。すると「こんな取回しの悪い、カッコ悪いの嫌だ」などと拒否られる。
買ってくれた「実需」を調べず、「売り込みたい」守銭奴が会社に蔓延するとこうなる。しかも売れなかったからといって彼らは責任なんてとらない。いわく「そりゃ、デザイナーの実力の無さ、それでも売れる車にするのが君の力だろう?」なんてねw。
それゆえ、人間を知る優れた設計者のある種独善で作る商品。
売れるのは大体、このいずれかですね。
③「顧客要求の実現は、客のこうならいいな、という要求とは違う」
と見えている結果ではなく、不満の原因にさかのぼって解析しなければ、真のニーズなんて見えてこない。もしそれが見えたなら、イノベーション実現手段を探し求め、複雑な(それでも相当単純化したつもり)機械を未完成なデバイスで何とか達成してみた。ところがそれは時代に早すぎた。周りの誰もが、気が付かない変化は、これまた商品価値がわからない。
売れるためには一歩でなくて、半歩先ぐらいが、ちょうど良いと気が付いた。
さて、世の中は失われた20年。選択と集中の時代。何のことは無い、あれもこれもと、敷き詰めた「要望」の結果を、「儲かるものだけ」に絞り込んでみただけで、なんだ、お客も困らないじゃん。。と無駄なセグメントバカのわがままに気が付いた。
さてそれではと、、こうあるべきなモノづくりなんて出来ないサラリーマン達によって、ありとあらゆる妥協を重ねて、果ては一体誰がこれを望んだのか?と意味不明な最大公約数商品が生まれてくる。そういった場合も多々あるけれど、今はこの程度なら、買い換えなくてもいいんでない?、とたいして購買意欲も掻き立てられないから売れない。 「これが有ったから買った」というような強い共感を得られなければ、物は売れない時代ではなかろうか。それ以外は100均的な商品に埋め尽くされてしまうから。
設計者の葛藤で、もっとも厄介なものは、共感できないコンセプトの設計だ。特に私の場合は冒頭、若き頃からの変わらない部分に関わるからですね。それもいざ作るとなれば、ありったけの知恵を絞ってなんとか最善に持って行こうとする職人魂は有るのだが、時と場合によってはそれが仇となるのだ。本来普通だったらすぐダメになるはずの商品が、総力戦で売れてしまう。営業、その他関わる全てが一生懸命汗をかく。そして一番ダメージを受けるのは大事な顧客だ。しかしお客様も「まぁ、可もなく不可も無くだ」程度であれば許せるが、やはり根本的に筋が悪いものはどうしようもない時が有る。下手に職人があちらこちらで死力を尽くすと、ダメなものまで生きながらえてしまう。
だからこそ、コンセプト段階での間違いは徹底論争すべきであるけれど、往々にして政治的御前会議で終わってしまう。サラリーマンは与えれた命題を一生懸命こなす忠義を求められるだけ?なのだろうか。永遠に尽きない課題。
戦前、堀越技師はゼロ戦を作ったが、軍部の描いた戦略に沿った要求仕様に基づいて作られた。その中で、①単座戦闘機でありながら行動半径1000キロを超える航続距離(南方での洋上制空戦闘が有ったから)②当時の単翼機としては破格の旋回性と高速性。
この無茶な2つの要求を満たす答えが、氏の究極のこだわりで作った「軽量化」であります。限られた栄エンジンの出力で要求を達成するためにはこれしかなかったと考えられます。
結果、防護性能ゼロ、究極に工数の掛かる製造構造、材料歩留まりの悪い流線型デザイン、、、といった設計図が生まれました。つまり堀越技師は、軍要求に忠実に私見を挟まず猛進した結果生まれたのがゼロ戦。また、後の大東亜決戦機と言われた疾風のエンジン誉を作った中川氏(のちのスカイラインの始祖)は、与えらえた条件の中で2000馬力級の小型軽量エンジンを要求され、危険を承知で敢えてコンロッドメタルにケルメットを使って当時としては一段高い面圧で設計した。そうでなければ要求を満たせなかったからです。しかしこれが仇となって実際に使われる場面では、劣悪なオイルと低オクタン燃料で、トラブル続きでした。
まぁ、開戦前の日本が、開戦後どういうインフラ状況になるか、それを踏まえていれば、そもそも開戦には踏み切らなかったかもしれませんが、設計屋は結局与えられた命題を達成することがまずは第一義で、個人的に「将来こうなるから、、こうしておかないと・・」みたいな見通しは往々にして無茶な高望みの要求仕様の障害になるため、ひっこめざるを得ないのです。
けれど、これが往々にして悲劇の始まりです。
ですから、「想定された条件だけ」という普遍的な物差しで「モノ」が評価されるなら、それは古き良きルネッサンス時代の「アートとテクノロジー」分かれる前の芸術品として設計出来たのでしょうが、私的には「払った対価」として評価される機能、性能、を含めた「満足」を実現したいと思うのです。するとそこでは理性を離れて「感動」といった情緒換算された評価軸が無いと、測れなくなってしまいます=金儲けしか頭にない人はこれだと換算出来ないのです。「それは儲かるのかと?」(^_^;)。
美しいゼロ戦は武器ではなくアートであって、好きな設計者であるクルト・タンク博士はフォッケウルフの生みの親ですが、大量生産が可能でメンテナンス容易、そこを優先させた上で、性能を出しました(つまり武器だから)。日本のような軍の要求仕様の出し方だったのか知りませんが、メッサーシュミットとの比較競争で有りながら、彼独特のあるべき要求を満足させた結果、軍の評価試験で思いのほか優位な「結果」を残します。そのような、設計者の思想が発揮できるだけの軍に柔軟性があったのかもしれません。ゼロ戦は開戦前から累計で1万機が生産されましたが、、フオッケの代表作A-8はおよそ1年足らずで8000機以上も生産出来ました。(フォッケのエンジンはBMW、ゼロ戦の栄は中島飛行機(後のスバル(プリンスも))で因縁の対抗心が(笑))。
モノづくりはその「作ること」が主役ではなく、「何を実現させるのか」という目的に有ります。職人としては刀剣の刀鍛冶のように己一人の魂でひたすら技を神(物理法則)とぶつけて対話して行きますが、その刀の役割には無関心です(恐らくそこは人に委ねているから)。
ですから、モノづくりの対象の規模にも、その役割にも寄りますが、コンセプト設計と現物設計の両方があり、双方を一人でやれる「モノづくり」が幸せですね。
ここで本題に戻るのですが、モノづくりの本質は、究極「人類幸福への貢献」だと考えます。するとどうしても「人類の幸福とは何ぞや?」となって、結局自分に判断できる「私の幸福」という極めて私的な範疇の物差しによるもので考えざるを得なくなるのです。
そこにはサラリーマンとしての「糧」の制約が有ります、けれどその中で出来る範囲での自分の信念としての軌道修正を織り込みながら、日々奮闘??、最近は無駄なものは作らん方が良いんでない?なんて思う今日この頃。
個人的なモノづくりの心情としては
①既にあるものは作る必要はない。(画期的に良くなるならその限りではないが)
②いざ作るとなったら、出来るだけ完成された技術を寄せ集めて、実現できていない性能を出す。(未知の技術=品質未完成な技術と思え。ゆえにそれを抱えて未知の性能にチャレンジするのは研究か趣味であって、商品開発ではない)
③高度なパッケージングに知恵を絞ると一石三鳥の設計が出来る。けれど少し要求や条件が変わると、1つが全てをダメにするので、高度な設計要求は途中で変わらないことが条件。
④バランスは静的だけで見るのではなく、動的状況で見る。そして無負荷中立をどこに収めるか注意する(運用環境の範囲を見極める)。
なんて事を思います。
設計気質にも0を1にする人と、1を2にする人、2を10にする人、それぞれ持ち味が有ります。けれどサラリーマンはそんな視点で適材適所に配置されません。民主主義は個人主義に比べて著しく非効率あるいは、超えられない壁が有ります。日本では0を1にする人は恵まれません。
2を10にする人が重宝されます。けれど、開発資産の時差を評価できない組織は、肥大化とともに衰退が避けられないのは、東西を問わずのようですが。
尚、このブログはフィクションが多数含まれたたわごとであって、わたしの仕事などとは全く関係ないことをお断りしておきます(^_^;)。色んな人々との交流から聞いたことですよw。
リタイヤしたら、こずかいの範囲で創りたいモノを創ってみたいです(頭に有る設計図を具現化して)。