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11/19(土)、到津八幡神社(北九州市小倉北区)、他に参拝しました。
到津八幡神社は下到津の東筑紫短大近くの旧電車道から板櫃川をこえて250mくらいの高台に鎮座されています。到津小学校に隣接した住宅地です。
当社も神功皇后の三韓征伐にまつわる社です。
--神功皇后が御子応神天皇をお産みになり豊浦宮へお帰りの時、舟を此の津に着けられた由を以て到津と号し後に一祠を建て皇后の和魂(やさしく恵み深き神魂)を奉祭したのが当社の起源と云われています。大化の改新(646年)の頃、到津の駅は都から太宰府に到る大路の要所として振るいました。社の前を流れる板櫃川は天平十二年(740年)藤原広嗣の乱の古戦場でもあり、大将軍大野東人は当社に戦勝祈願をしたと続日本紀に記載されています。--(平成祭データ)
旧電車道から一の鳥居をくぐり板櫃川に架かる八幡橋を渡ると二の鳥居、突き当たりに石段の参道が見えてきます。
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11月いっぱいは七五三参拝のほほえましい光景を見かけます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/bc/66fe8b01bbac5576bdeb57f9d5bd93ac.jpg)
八幡東区川渕町の荒生田神社
当社は明治35年、政府の神社合祀政策により
明神社(祭神:藤原広嗣)と水神社(祭神:彌都波能売命(みずはのめのみこと)を合併し到津八幡宮の末社として荒生田神社と改称されました。(境内案内板より抜粋)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/71/fb76c5f446f291ac6ad1eb1699c8b028.jpg)
八幡東区宮の町の天疫神社
小倉-八幡線(旧電車道)の七条橋交差点で左折すると片側2車線の広い道路になっていてびっくりしましたが、北九州都市高速の山路ICに通じていて山路IC開設に伴って整備されたと思われます。この槻田橋交差点を右折して150mくらいの公園(宮の町公園)におおきな鳥居が見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/ed/bb67d730f77e8fe044f04c23c0095e07.jpg)
境内の案内板によると、江戸時代までは「高槻疫神社」とよばれていて明治初期に現在の「天疫神社」と改称されたらしい。
創建は
--醍醐天皇の御代延喜年中(西暦900年頃)天下を大旱魃が襲い疫病がはやった。こまった里人たちは協議の上、高坏山頂〔現在天疫神社のある山〕で勧請し祈願をしたところ、疫病がおさまった。その後疫神社として北九州一円の人々の厚い信仰をうけていたが、寛永年中〔西暦1624年〕小笠原候が入国後、この古社の御神徳があらたかなるところから社殿を改築し祟敬した。現在の御神殿は大正十二年に造営、また祝詞殿および拝殿は昭和五十年四月に竣工した。--(平成祭データ)
到津八幡神社は下到津の東筑紫短大近くの旧電車道から板櫃川をこえて250mくらいの高台に鎮座されています。到津小学校に隣接した住宅地です。
当社も神功皇后の三韓征伐にまつわる社です。
--神功皇后が御子応神天皇をお産みになり豊浦宮へお帰りの時、舟を此の津に着けられた由を以て到津と号し後に一祠を建て皇后の和魂(やさしく恵み深き神魂)を奉祭したのが当社の起源と云われています。大化の改新(646年)の頃、到津の駅は都から太宰府に到る大路の要所として振るいました。社の前を流れる板櫃川は天平十二年(740年)藤原広嗣の乱の古戦場でもあり、大将軍大野東人は当社に戦勝祈願をしたと続日本紀に記載されています。--(平成祭データ)
旧電車道から一の鳥居をくぐり板櫃川に架かる八幡橋を渡ると二の鳥居、突き当たりに石段の参道が見えてきます。
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11月いっぱいは七五三参拝のほほえましい光景を見かけます。
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八幡東区川渕町の荒生田神社
当社は明治35年、政府の神社合祀政策により
明神社(祭神:藤原広嗣)と水神社(祭神:彌都波能売命(みずはのめのみこと)を合併し到津八幡宮の末社として荒生田神社と改称されました。(境内案内板より抜粋)
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八幡東区宮の町の天疫神社
小倉-八幡線(旧電車道)の七条橋交差点で左折すると片側2車線の広い道路になっていてびっくりしましたが、北九州都市高速の山路ICに通じていて山路IC開設に伴って整備されたと思われます。この槻田橋交差点を右折して150mくらいの公園(宮の町公園)におおきな鳥居が見えます。
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境内の案内板によると、江戸時代までは「高槻疫神社」とよばれていて明治初期に現在の「天疫神社」と改称されたらしい。
創建は
--醍醐天皇の御代延喜年中(西暦900年頃)天下を大旱魃が襲い疫病がはやった。こまった里人たちは協議の上、高坏山頂〔現在天疫神社のある山〕で勧請し祈願をしたところ、疫病がおさまった。その後疫神社として北九州一円の人々の厚い信仰をうけていたが、寛永年中〔西暦1624年〕小笠原候が入国後、この古社の御神徳があらたかなるところから社殿を改築し祟敬した。現在の御神殿は大正十二年に造営、また祝詞殿および拝殿は昭和五十年四月に竣工した。--(平成祭データ)
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