九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

倭文神社(しとりじんじゃ)

2024-04-13 16:13:35 | 神社参拝ー中国

 おことわり:掲載の写真は、参拝当日(10/23/2008)のものです、現在と異なっている場合があります。

参拝当日のブログ(日記)です。16年前は元気でした。

倭文神社を掲載しました。

 「式内社」 倭文神社(しとりじんじゃ)
【鎮座地】〒689-0707 鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内754 旧伯耆国 河村郡
【電話】 0858-32-1985
【旧社格等】 国幣小社 (現別表神社)
       伯耆國一の宮
       式内社 伯耆國川村郡 倭文神社
【御祭神】 ・建葉槌命
      ・下照姫命 ・事代主命 ・建御名方命 ・少彦名命 ・天稚彦命 ・味耜高彦根命        
【例祭】 5月1日 神幸祭
【御由緒】
伯耆一ノ宮倭文神社
一、通称 伯耆一ノ宮
一、祭神 建葉槌命(主神)
     下照姫命 外五柱
一、例祭日 五月一日
一、由緒
 伯耆国の一ノ宮として御冠山の中腹に位置し、広く安産の神として信仰されている。
創立年代は不明であるが、出雲大社御祭神大国主命の娘下照姫命が出雲から当地に移住され、安産の普及に努力された。
 創立当時、当地方の主産業が倭文(しずおり)の織物であったので倭文部の祖神 建葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、その後倭文の 織物が姿を消し、安産信仰だけが残り、安産守護として崇敬され、参道横には安産岩も伝えられている。
 平安時代延喜式神名帳(西曆九二二年)には当神社の名がみえ、神階は度々昇進 し、天慶三年(西曆九四○年)には従三位から正三位に進んでいる。その後正一位に昇進されたとみえ「正一位伯州一宮大明神」と刻した勅額と称する古額が現存している。
 住古の社殿広大で、千石の御朱印地を有したと伝えられ、鎌倉時代の東郷荘絵図には、東郷湖附近に点々と一ノ宮領の文字がみえている。
然し戦国時代荒廃、天文二十三年(西曆一五五四年)尼子晴久社殿を造営神領七十石寄達。後神領中絶したが、元亀元年(西曆一五七〇年)羽衣石城主南条宗勝これを復旧した。
 天正年間羽柴秀吉を迎え討つべく、吉川元春(毛利の武将)橋津の馬の山に在陣するや、当神も兵営とせんとしたが、元春の子元長は霊夢を感じて、兵を馬の山に引いている。その後御冠に入った秀吉との対陣は有名である。 羽衣石城の南条元続当社の荒廃を嘆き、神領を収め、新地を寄せ代官をして社領の監査を厳ならしめたという。
 徳川時代は池田藩主の祈願所となり、天正年間の戦乱で中絶した神輿渡御を延享二年(西曆一七四五年)再興し、藩老和田氏から境内警備のため鉄砲六人を附されている。
明治以降県社であったが、昭和十四年国幣小社となった。

一、安産岩 神社境内に至る迄の参道横にある。 昔常に難産に苦しむ婦人が、古来から安産の神として信仰の厚い伯耆一ノ宮に願いをかけて日参し、満願の日下照姫命の霊夢を感じ、 参詣の帰途この岩で安産したので、以来安産岩と称するようになったという。

一、下照姫命御着船の地  羽合町宇野と治村宇谷の中間の御崎に、出雲より御着船されたと伝えられるが、その近くに化粧水と称し、船からおあがりになって化粧を直すのにお使いに  なった水が伝えられている。

一、国宝 伯耆一ノ宮経塚出土品(東京国立博物館に展示されている)。

一、史跡 伯耆一ノ宮経塚。
(附) 馬の山古墳群は、当神社より丘続きの位置に存在する。

 昭和五十四年三月湯梨浜町教育委員会

 (参道由緒掲示板より)

【参拝月日】 10/23/2008

社号標
 鳥取県のほぼ中央に位置する湯梨浜(旧東郷)町にあります。山陰八景の東郷池(湖)を見下ろす御冠山の西麓に鎮座。参道途中に「国幣小社 倭文神社」とある社号標です。

参道から鳥居
 社号標を過ぎると石段の参道が続き、登り切ったところに鳥居です。

鳥居
 柱に、一宮大明神 享保、、の文字が読み取られます、日付らしきもありますが解読できません。享保(1716年から1736年までの期間)年代であれば、江戸幕府将軍は徳川吉宗の時代です。

鳥居の扁額
 扁額には「伯耆一宮倭文神社」とあります。

随神門
 鳥居をくぐると、切妻、銅板葺の荘厳な随神門があります。前に赤い毬を持っている狛犬が迎えてくれます。

随神門
 軒下、木鼻などには霊獣など、細かな彫刻が施されています、明治5年(1872年)の建築、権現造の風格のある神門です。

随神門から参道
 門を抜けると、ほぼまっすぐにのびる参道が続きます。

参道
 参拝当日は生憎の雨で、参道は雨に濡れて綺麗になっていました。

謎の巨岩
 参道途中にある巨岩です、社号標より手前(南側)の参道途中にある、安産岩、夫婦岩の類かと思いましたが、ただの岩のようです。

参道から拝殿
 謎の巨岩の横に国指定史跡の「伯耆一ノ宮経塚」への入り口があります。参道の左に手水舎です。突き当り、垣の中に拝殿です。
 
拝殿
 拝殿、本殿等、社殿のある境内は、垣の中にあります。手前に年代を感じさせる風格にある出雲型構え獅子の狛犬があります。
  文化15年(1818)の再建、風格のある落ち着い佇まいが一宮の格式を今に伝えています。

拝殿から本殿
 拝殿の奥に幣殿に続いて本殿です、三間社流造、銅板葺の本殿は、拝殿と同じく文化15年(1818)の再建です。

本殿
 当社創建は不詳、大国主命の娘、下照姫命が湯梨浜町宇野に降り立ち御冠山中腹に祀られたのが始まりと伝えられています。下照姫命は安産の普及に尽力を尽くした神。創建当時は当地方が織物(倭文織)の産地だったことから織物の神である建葉槌命が同時に祀られていました。
(創建当初は建葉槌命が主祭神だったものが織物の衰退と共に下照姫命が主祭神として認識されるようになり、現在は再び建葉槌命が主祭神に復しています)。

本殿 
 現在の主祭神は倭文部の祖神で織物の神、建葉槌命。配神として安産の神、下照姫命に加えて、その夫の天稚彦命、兄妹の関係となる事代主命、建御名方命、味耜高彦根命、大国主命の義兄弟となり国造りに参加した少彦名命が祀られていいます。
 平安時代、神階は幾度も昇進いましたが戦国時代に荒廃。天文23年(西曆1554年)尼子晴久、社殿を造営神領七十石寄達。後神領中絶したが、元亀元年(西曆1570年)羽衣石城主南条宗勝これを復旧した。
 
本殿の彫刻
 本殿にも見事な彫刻が施されています。

境内社
 御祭神等、不明です。

拝殿から参道
 雨に煙る石畳の参道です。左の建物は社務所、授与所です。

参道から随神門
 途中に、大正4年(1915)発見され、国宝の銅鏡筒などが多数出土した、一の宮経塚(古より下照姫命の墓と云われていた)への入り口があります。

国指定史跡
 伯耆一ノ宮経塚(ほうきいちのみやきょうづか)
埋納年月日 平安時代後期 康和五年十月三日(西暦一一〇三年)
発掘年月日 大正四年十二月十一日
史跡指定年月日 昭和十年十二月二十四日
構造(石棺)
 長方形で長さ一・ニメートル、幅〇・九メートル、四方は約 五センチメートル程度の輝石安山岩で構築されている。
出土品
 一、銅経筒(平安時代)
 一、金銅観音菩薩立像(白鳳時代) 一軀
 一、銅造千手観音菩薩立像(平安時代) 一軀
 一、銅板線刻弥勒菩薩立像(平安時代) 一面
 一、その他
  銅鏡二面、檜扇残片 一括、瑠璃玉一括
  短刀刀子残間 一括、銅錢二枚、漆器残片 一括
いずれの出土品も昭和二十八年に国宝に指定され、東京国立博物館に保存
 湯梨浜町

 (参道案内板)

参道から鳥居
 当社の周辺、東郷湖と日本海に挟まれた地域には長瀬高浜遺跡を中心に古代遺跡が分布し、弥生時代から中世にわたる生活の痕跡や墓などが多数出土しています。

出雲山展望台
 本社よりおよそ1km弱の、県道東郷羽合線沿いにあります。生憎の雨で視界は良くありませんでしたが、良ければパノラマの景観が楽しめたようです。

出雲山展望台
 下照姫命は、出雲から船でこの地にお着きになり、倭文神社境内に定住。命は故郷をしのび、この高台に歩みを進めては遠く出雲を望まれたそうです。この姿を見た人々は、いつしか出雲山と呼ぶようになりました。 

出雲山展望台からの景観 
 本社のある地区は、古代は「布哇](はわい)という由緒ある地名でしたが、現在は「羽合}と表記しています。またカタカナで「ハワイ」と呼びリゾートをうたっています。

出雲山展望台からの景観 
 東郷湖が一望でき、羽合温泉や東郷湖羽合臨海公園、その向こうに茶臼山が見え、西方はるかに中国地方最高峰の大山の雄姿がかすんで見えます。
 かすんでいますが、中央から右は東郷湖羽合臨海公園、奥は、ハワイ海水浴場から日本海です。

   出雲山の由来
 その昔、出雲の大国主命の娘である下照姫命は、出雲国を出立され、羽合町宇野と泊村字谷との境にあたる字「仮屋ヶ崎」の海岸に着船された。ご休憩 の後命は倭文神社の社地に住居をお定めになり、 住民に安産の指導をされたが、故郷恋しさのあまり、 日暮時になるとふさぎ込んだり涙したりされる日も あったという。
 そんな時、少しでも出雲に近づこうとの 想いからか、この高台まで歩を運ぶと、遠く出雲国や 出雲富士の方向に向かって何事か小声でつぶやかれて いた。
この姿を見た人々は命をおいたわしく思い、いつしかこの高台を出雲山と呼ぶようになったという。
 この展望台に立って眺めると、東郷湖の向こうに 羽合温泉や東郷湖羽合臨海公園、その向こうに茶臼山が 見え、白砂青松の彼方には 紺碧の日本海、西方はるかに 中国地方最高峰の大山の雄姿がかすんで見える。 伯耆一円を見渡す、まさに一大パノラマの景観といえよう。

  下照姫命
 大黒様の名で親しまれ、因幡の白兎伝説でも有名な大国主命と田心姫命の間に生まれた神で、安産の神として知られる。
天照大御神は天孫降臨に先立ち、まず天穂日命を遣わされ、 ついで天雅彦を遣わされたが、この神は下照姫と結婚して滞留 したまま従わなかった。そのため高皇産霊尊の怒りにふれて天雅彦は 詳せられ、その妻・下照姫のなげき悲しむ声が天にも達したという。
 下照姫の兄味耜高彦根命が天雅彦の喪を弔われたとき、下照姫は 歌を詠じ、兄神の御名を顕し給うたと いわれる。
   湯梨浜町教育委員会
  案内板より

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