前職の不動産会社に勤務していた頃に使っていた腕時計を、仕舞っていた抽斗から出してみました。
CITIZENのATTESA、15年くらい前のものです。ごく普通のシンプルなデザインで、営業職の使う腕時計としては丁度良い感じでした。ケースもベルトも素材にチタンを使っていて、皮膚に優しいということで選んだのだと覚えています。
エコ・ドライブ機能が付いていて、光を電気エネルギーに変換して時計を動かし、更に余った電気エネルギーは内臓された二次電池に蓄電されるというものだそうです。
抽斗に仕舞っておいたので当然光は当たらず、長い間止まったままでした。数か月前から、室内光と太陽光で動かそうと試していましたが、しばらくすると動きが止まってしまうことの繰り返しでした。
もうダメかな...と諦めかけていましたが、昨日一日、太陽光に当ててみたところ、これを書いている今もずっと動き続けています。 今朝は、再び動きが止まらないようにと念じるように、付着した汚れやベルトの隙間の埃を丁寧にふき取ってみました。その願いが通じたのかな?とも思ってしまいます。
日常的に使っていたのは6年くらいの間なのですが、カメラのマクロ機能を使って写真にしてみると、細かい傷が無数に写りこんでいます。
今、普段使いにしているG-SHOCKと並べてみました。ずいぶん大きさが違うのがよく分かります。
今の仕事では通勤時もスーツを着る必要もありませんから、G-SHOCKを普段使いに、ATTESAは冠婚葬祭用に使い分けてみようと思っています。
ATTESAの掃除をしながら思ったことがあります。
日本には、大切に使っていたモノには心や精霊が宿るという観念が古くからありますが、現代の『もったいない-Mottainai』に通じる考えかもしれません。モノを擬人化したり、心を持ったものとして扱うことにより、モノを大切にしようとする考えは、これからの時代にも必要なことだと思います。
↑心を持っているかどうか分かりませんが、2008年に手に入れたBacchusのベースです。
4年経って、薄いラッカー塗装のこのベースの木目がハッキリしてきたようです。購入した楽器店からは、『何年か経ったら、すごく鳴りが良くなりますよ』と言われていました。
そう言われても、毎日のように弾いているわけではないし、それほど念を入れて手入れをしているわけではないので、作り手の思い通りになっているかは分かりませんが...
今や[Mottainai]と、遠くケニヤの人からモノを大切にすることを教わるようになってしまいましたが、かえって外から言われた方が日本人にも響くんじゃないかと期待してしまいます。
モノに心が宿る・・・
それは使う人(或いは使っていた人)の愛着ものりうつり、
そのように感じることもあるのではないでしょうか?
電気製品などが、壊れたり古くなったりで、どうしても買い換え、処分しなくてはならない時、
「どうも長い間ありがとう」という感謝と寂しさが混ざり合ったような気持ちになりますよね。
義母も昔の人の例に漏れず、もったいない精神で、なんでもかんでも取って置く人でしたが
遺品を整理する時は何を見ても義母が宿っているような気がして、
残された側としては複雑で辛い作業でした。
やむを得ず木を切る時も、思わずお神酒をかけてやりたくなります。
なんでもすぐ新しくて良いものがすぐ手に入る時代、このような精神は段々すたれていくのでしょうね。
一体人類は何処へ向かって行こうとしているのでしょうか?