goo blog サービス終了のお知らせ 

徒然なるのゐどる

ふしぎにさびしい宇宙の果てを
ふわりふわりと昇って行こうよ。

女、アラサー、野球、はじめました。

2022年02月16日 | Weblog
大人の草野球チームに、入ることにした。

女性は私だけで、私より年上とか年下とかの男の人ばかりのチームだけど、入ることにした。

それというのも、私は週に三回ほどフィットネスジムにいっているのだけど、そこで出会った人が、草野球チームで野球をやっている人だったのだ。
その人は、仕事以外にはその野球のことだけをずーっと考えているような人で、野球にドップリはまっていて、話を聞いているうちに、私はとても羨ましくなってしまった。
こんなに楽しいことがあるって言うのは、いいなぁ。
それに、野球を通じてこの人には友達がたくさんいるし、いいなぁ。
あおぞらの下で野球をしたら、スッキリした気分になりそうだなぁ。

そういうわけで、私は「私も野球やらせてください」って、お願いすることにした。

もちろん私は野球なんてやったこともないし、ほとんどみないし、ルールも知らないのだけれど。
そんなこと、考えもしなかった。
その野球チームに女性はいないとか、私はそんなに若くもないとか、そもそも野球なんかできるのかとか、
そんなこと、考えもしなかった。
ただ、やってみたい、と思ったのだ。

それで、さっそく野球をやってみたら、面白かった。

そして、私は気づいてしまった。
実はひょっとしたら、私はつまらなかったのかもしれない。
つまらなくて、息を止めて水の中にいるように、ずっと我慢していたのに、
自分がその水の中で我慢していたことすら、気づいていなかったのだと。

誰も私に我慢しろなんて、言ってなかったのに。それなのに私はいろんなことを、勝手に我慢していたのだった。
子供を育てたり、家事をしたり、小説家になると言う夢を追いかけたり。
そんななかで、私は勝手にいろんなことを我慢していて、野球をやっている時にふと、自分が我慢していたことに、なぜか気づいたのだ。

ボールを追いかけたり、褒めてもらえたり、相手を褒めたり。
ボールを取って、自分の下手さに打ちのめされたり、相手のうまさに感嘆したり。

そういう中で、私は自分を少しだけ、取り戻した。

勝手に、自分の人生を受け入れたかのような、平穏な気持ちになっていたけど。
そんな人は私では、ないのだと、思い出した。

もし、自分の人生を、「こういうものだ」と思っている人がいたら、私はオススメしたい。
まったく自分がおもいつきもしないことを、ふと、始めてみる、ということ。
そうすれば、「こういうものじゃなかったかも」と、気づくこともまた、あるかもしれない。

ツイッター:山本李奈(yamamotorina3)

説明

2021年01月08日 | Weblog
うーん…。

とある人がいます。

その人は出かけようとしているのだけれど、まだ部屋で何か用事があるのか、戻ってきました。
私はその人の顔を見上げ、「スマホを忘れてるけど、教えたほうがいいかなぁ。それとも、そんなこと言うのはおせっかいかなぁ…」と思っていたら、その人は私を見て「なんだ? さっさと出てけってか?」と、言われてしまいました。
だから、そんなことは思っていない、自分はスマホを忘れたことを教えてあげようかどうか、言おうとしていたのだ、と説明しました。

また別の日、私はその人に「お昼は外で食べてくるの?」と尋ねました。
するとその人は「わかったよ、外で食べてくるよ」と答えました。
なんだか返事がかみ合っていないと思いました。
私は「お昼を外で食べてこないなら、パンを買って、一緒に食べたらどうでしょう」と提案しようと思っただけなのに、相手は「昼ご飯を作るのが面倒くさいから、自分のことを迷惑に思っているのだな」と解釈したようなのです。

そう言うことが何度も続くので、私はその人に対して誠実に対応しなくてはならないと思いました。
「自分の中の『イメージの私』と会話するのはやめてほしい。私の言葉を聞いて、目の前にいる私と、言葉で会話をしてほしい」と頼んでみることにしました。

すると相手は、言うのです。
「そうさせているのはおまえだ。イメージと会話させているのはおまえのせいだ」

私は何となく、疲れを感じてしまいました。

人のコミュニケーションは、もちろん、態度と、表情と、言葉と、たくさんのもので構成されている。
それらをひっくるめて人は、人とコミュニケーションをとっている。

だから、自分の意図しないものが相手に伝わってしまうことはままあることだと思う。

だけど…自分の言葉が、相手にそのまま受け取ってもらえなくて、おまけに自動的に悪い解釈をされるとなると、それは完全にコミュニケーションが破綻している。そうなると、言葉によって「そうではない」と誠実に説明するほかはない。
だけどそれすらもしたくないと言われてしまうと、そんな相手には、どう、向き合えばよいのだろうか。

相手が言うように、相手にイメージの私と会話させているのは、私のせいなのかもしれない。
しかしそれをやめさせるには、やはり、私自身との会話を重ねて、相手の中にある私のイメージを壊すしかない。
そのくせをやめて、私自身の言葉に耳を傾けてもらうしかない。
しかし、相手はそれは私のせいなので、自分に非はないので、自分を変えるつもりはない…。

一度、相手が誤解をしてしまったときには、自分の誠意をもって、相手に丁寧に、自分のことを説明しないといけない。
だけどその説明すら受け取ってもらえない場合、相手の誤解は受け取られぬまま助長し、コミュニケーションは破綻してしまう。

けれど、それは、私自身もまた、相手を変えることはできないというパラドックスをはらんでいる。
私は相手に変わってほしいと言うが、相手も私に変わってほしいと願い、それは平行線なのだ。

何度も何度も、自分がどんなに丁寧に説明しても、わかってもらえないことというのはままあることだ。
言葉を尽くして、わかってもらえたと思える経験は、自分にはほとんどないと思う。
それでも、丁寧に説明すること。それだけが、人と人がコミュニケーションをとるうえで、できることだと思う。
その細々とした営みをあきらめてしまうこと…それをするときは、相手との交流が途切れるときだ。
誠意をもって説明を続けること、それが大事なんだと、自分に言い聞かせている。

ついに小学館より小説家デビューです!!

2020年11月17日 | Weblog
ついに私の小説が、出版されることが決定しました。

2020年12月18日発売(予定)
小学館ジュニア文庫
「メチャ盛りユーチューバーアイドルいおん☆」

どうぞよろしくお願いします!

初デビューとなります。

小説を書き始めたのが、8歳のころ。
それから…何年たったのかは言いますまい。

古坂大魔王さんが芸人になってからピコ太郎でブレイクするまで、
長い道のりだったと言っていましたが、
私はそれ以上に、小説を書き始めてからデビューするまでが、長い道のりでした。

でもピコ太郎をやる前から、ボキャブラ天国とかの時代も、
普通に古坂大魔王さんはめちゃくちゃ面白くて人気あったと思いますけどね。

ハッ、なぜ古坂大魔王さんの話に…!

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!

つらつらメモ

2020年09月12日 | Weblog
このあいだ、朝の情報番組でこんなニュースをやっていた。
このコロナ禍の中、マスクの着用を拒否した乗客がいて、ピーチ機は新潟に緊急着陸したのだという。その後そのお客さんには、降りてもらったのだという。

そのとき、司会の志らくさんは、ひととおり持論を述べた後で、
「こういう人は言ってもわかんないよ、ずっと言ってもわかんない」
といっていた。

私は、時に、こういう気持ちになることがよくある。
志らくさんが正しいのか、そのお客さんが正しいのか。
そのどちらをいっているわけではない。
ただ、時に、「いくら言葉を尽くしても、この人には伝わらない」と、絶望のような、真っ暗な、底が見えない溝のようなものを、人に感じるときがある。
そしてそのとき、相手もまた、私にそれを感じているのだろうと思うと、ひどく孤独に想うことがある。

犀の角のようにただ独り歩め。

志らくさんが「話してもわかんない」といったのは、だから私としては、感情としてはとても共感できる。
だけど、朝の情報番組でこれでは、いけないと思う。
それは人と人との断絶であり、それで問題を終わらせてしまうのは、何も意見を言っていないことと同じようなものだ。

こんなとき、私は、「法律」というものは、まったく素晴らしい発明だと思う。
法律は、こういう時に、こういう判断をします、ということを、いともバッサリと言ってのける大ナタだ。
「法律」にあてはめれば、その人が間違っているのか、合っているのか、
自分自身の言うことが合っているのか、間違っているのかの、判断基準になる。

この人とは分かり合えない、話しても意味がない。
そういうとき、「自分」から発出する言葉を話すのではなくて、「法律」に照らし合わせた言葉を発出すれば、「話ができない」と思っていた人とも、話ができる。相手が同じ法律を共有している場合に限るけれど。

「法律」は、時に、まったく話し合うことができない人と話すことができる、唯一のツールのように思える。
それはとても、安心する。どんな人とでも、少しは通じ合えるところがあると感じられる。

全然別のことになるが、元首相安部あきえ夫人のモットーは「どんな人とでも話せばわかりえる」だとか。
それは私には、それを言える人は、幸せな人なのだろう、と思える。

だって本当に言葉が通じない人には、本当に全く、言葉が通じないのだから。

ひとつだけ忘れてはいけないと思うのは、「法律」は、人としての正しさと間違いを示すものではないということだ。
あくまで多数が正しいと感じた判断の基準なのであって、それが人間的な正しさや感情的な正しさの尺度ではなく、「絶対」ではない。だからその人と「ほうりつ」を論じるうえで貴和が成り立ったとしても、それは、真にその人と言葉をくぁして理解しあえたということにはならない。

人は結局、どんな言葉を尽くしても、分かり合えるということはないのだと、私は思う。

足摺岬と暴れん坊ガニー

2020年07月27日 | Weblog
休みの日は、高知県の足摺岬の方へ行ってきました。
海洋館がオープンということで、いってみようとおもってみたけど、ものすごく混んでいたので「うわ、こんでる~」と断念しました。

キャンプをしていたら、ちん先輩とごんちゃんが、カニを捕まえました。
クロベンケイガニと思われるカニを三匹と、ベンケイガニを一匹です。

クロベンケイガニは黒くて、ベンケイガニは赤色で、どちらも三センチくらいの小さなカニです。

ところがこのなかでベンケイガニだけ異常に強くて、一緒のバケツに入れていたら、クロベンケイガニは全員、ベンケイガニに食われてしまいました。

三匹の肢と手がもげ、内臓が飛び出て、非常にグロテスクで恐ろしい光景になってしまいました。
ちん先輩とごんちゃんは「魔瘴気モンスター 暴れん坊ガニー」と名付けていました。

「かわいそうなことしちゃったね。暴れん坊ガニーだけでも、海に返しておいで」
と私が言うと、二人は海にカニを返しに行きました。

しかしごんちゃんは、三匹のカニを殺したガニーへの報復として、最後に暴れん坊ガニーの足を全部もいでしまったそうです。ヒドイ…。

ちん先輩は、もいだ暴れん坊ガニーのツメを、「お土産に」とティッシュにくるんで、大事そうにリュックの中にしまいました。

そして後日、ちん先輩のカニの「死んだ手」を入れたリュックは生臭くなり、ちん先輩は「なんで私、こんなキモイものを持って帰ってきてしまったんだ」と嘆いていました。
お土産って、そんなもんです。

「ドロヘドロ」面白いです

2020年07月12日 | Weblog
ツイッターとフェイスブックを始めました。
本の出版への布石として、準備を進めてます…が、もっと別のことを頑張った方がいいんでないの?と思う、今日この頃。
でも何を頑張ればいいのか、また迷走中…。

ツイッターとフェイスブックは、いろんな人が見ているので自由なことはかけません。
ここならいいってわけじゃないけど、ここでは自由に。

最近の出来事。「ドロヘドロ」ってマンガ読んでます。面白い!

ふわふわ

2020年07月03日 | Weblog
いつも、百均でかった、てきとーなクシを使っていた。
だけど、千円もするクシを、なんのきまぐれか買ってみた。

ちん先輩の髪をとかしたら、すごくサラサラのストレートになった。
私はくせっ毛だけど、この魔法のくしで髪をとかしたら、すごくサラサラのストレートになれるかもしれない。

そう思って髪をとかしたら…。

なんか、とかせばとかすほど、髪の毛がふわふわにふくらんでいき。。。

最終的には、すごくふわふわの、プードルみたいになった。

…なんか違う…。

正義の人

2020年07月02日 | Weblog
小学館ジュニア文庫のほうの小説のイラストを描いてくれる作家さんが、ちゃおの某漫画家さんに決まって、とってもうれしい今日この頃。本づくりは、とっても順調。
だけど、明日地球が崩壊したり、小学館がつぶれるかもしれないから、まだ油断しないぞ(何が)。

今年はコロナのために、北海道への旅行は中止にしてしまった。
まだまだ、コロナが出ているところに子連れで旅行に行くのはちょっとためらわれる。
それに、学校も七月じゅうあるので、それも旅行に行けない一因の一つ。

コロナのことは、他の感染症と同じで、「ならないように気を付けよう」という感じだけど、コロナをめぐる社会や人々の変化に、なんとなく漠然とした不安がある。
特にマスク警察とか、自粛警察とかが、怖すぎる。
人がふりかざす「正義」が、私はとてつもなく怖い。

コロナの自粛期間中、子供たちとうちの中でこもっていたら、下の人から何度も「うるさい」と苦情が来た。不動産屋さんがどうにかおさえてくれていたけど、最後には家にまで「子供の足音が一日中うるさい」とどなりこんできた。
子供の学校が始まる、一週間前のことだった。

今は自粛期間中で、誰もが家にいないといけなくて、子供も学校がないし、公園にはたまにいっているけれど、他に行かせるところもないし、仕方がないのに。と思った。
一方でその人は、その人自身も自粛で家にいないといけなくて、本当に一日中、うちのうるささにまんじりともせずに頭を悩ませていたんだろう、と申し訳なくも思った。

きっと、その人自身にも、「正義」はあった。
「こんなにうるさいのは、常識の範囲を超えている。苦情を言うのは、正当な行為だ」などと思ったに違いない。そしてそれは、間違ってもいない。

だけど、私はやっぱり、「正義」をふりかざして、こぶしをふり上げる人は、それがどんな正義であっても、恐ろしいと思う。
だって、マスク警察も、自粛警察も、下の階のあの人も、それは少しだけ自分の感情を我慢すれば、時間がどうにか解決するはずのことなのだ。こぶしをふりあげなくても、どうにかなるはずのことなのだ。

例えば世の中が、全員で団結しなければならないほど悪にまみれていて、こぶしを振り上げなければ絶対に解決できぬ問題があるとして、そのときには団結と、正義のこぶしが必要だと思う。けれど自分の中の小さないらだちに、時間が解決することなのに、正義のこぶしをすぐに振り上げるのは、それは本当に、必要なことなのか。

その人にも正義はあって、誰にでも正義がある。だけど人に訴える前に、正義の人は考えてほしい。本当にそれ以外に、方法はないのか。どうにもならないのか。

私は、「正義」をうったえる人が、いつもとっても、こわい。

集英社みらい文庫大賞 優秀賞受賞!

2020年04月21日 | Weblog
第十回 集英社みらい文庫大賞で、「優秀賞」を受賞しました!

小学館ジュニア文庫大賞で「金賞」に引き続き今年二回目!なんちゅう奇跡!

この賞は、第八回から応募していて、第八回で最終選考に残り、担当の編集さんが付きました。

ところが編集さんがついて、熱血指導の下の第九回。結果は一次選考敗退。
編集さんに申し訳の立たない結果に…。そして自分でも、かなりのショック…。

だけど、めげずに第十回に応募して、ようやく優秀賞を取ることができました。

実は昨年は、小学館の賞に1作品、講談社の賞に2作品、集英社の賞の第九回に3作品、第十回に2作品、そしてその外にも…と、一年に10作品くらい応募していたのでした。
でもこれはいつものことで、もっと多く送っていた年もあったし、平均すると毎年それくらい応募していたんだけど…。

(・Д・)なぜか今年だけ、大漁受賞!
ていうか、いままでほとんど賞なんて取れなかったし!いきなりナゼ!?

今年は他の賞に応募はやめて、この二作品を、出版化できるように頑張ろうと思っています。

小学館ジュニア文庫「メチャ盛りユーチューバーアイドル☆いおん」
集英社みらい文庫「5年4組失せもの係」

どうなるか、こうご期待!
(どっちも出版できなくて、悲しい結果になることもあるよ!(・▽・)/)

小学館ジュニア文庫、金賞受賞!

2020年03月28日 | Weblog
このたび私、文学賞を受賞しました!

…なんて、大げさだけど。

第六回小学館ジュニア文庫小説賞

にて、

金賞、を受賞したんです!

初めての、大きな賞なんだよね、これ!(賞金二十万…ポソリ)
この道のりの、なんて長かったことか…。

賞に入ったと言われて取材もうけたのに「間違いでした」と言われたり、
本を出版すると言ってくれた担当編集が変わった途端に、その話が進まなくなったり
何度も最終選考に残るけど、賞には縁遠かったり、
本当にいろいろあって、道のりがめちゃめちゃ長かった…。
まぁ、そこはともかくとして。
某社と某社の担当編集さんがついているにもかかわらず、
まったく初めて応募した小学館での受賞…!
ドウシヨウ…(今まで一生懸命指導してくれた編集さんに顔向けができない!)

しかも…問題は…

この、受賞した小説のタイトルが…。

「メチャ盛りユーチューバーアイドル☆いおん」

っていうタイトルなんだわ。

オマエ、はじけすぎだろ!!!

って感じなんだよねぇ…。いい年コイテ…。

いやね、あの、正直、私って、文学賞に落ちるのがもう百回以上続いてるので、
ぶっちゃけ、「賞は入らないもの」というのを前提で生きているので、
今回も、「もうどうせ落ちるんだから、ここはもう時代に迎合しまくってアイドルとかユーチューバーとか入れちゃって、おまけにメチャ盛りとか、若くきゃぴきゃぴした感じも盛っちゃって、星とかいれちゃって、はじけた感じにしてやるぅぅ~~~!!!」

って…。そう、そんな感じで、タイトルつけたら…。
その恥ずかしい感じで、賞とっちゃって…。

(//▽//)ハズカシイ…感じに…。

でも、人生って、こういうもんだよね。
「これは素晴らし出来栄えだ!」って思った小説って、たいてい落ちて、
「これは無理だろ!」って思った小説で、賞とる感じ…。それが人生…。

しかし、今回とった金賞は、デビュー確約の賞ではないので、
本にしてもらえるように、頑張ってアピールしないといけない。まだまた努力と運が必要。
そして、授賞式は、コロナウイルスのせいで、あるんだかないんだか、未定…。運のない私…。
久しぶりに単身で東京にいって、Sちゃんとご飯食べにいったり、羽伸ばしたいと思ってたのに!

そんなわけで、この「メチャ盛りユーチューバーアイドル☆いおん」
小学館ジュニア文庫から本になるのかならないのか、こうご期待!
そして私は授賞式に…行けるのか?

休みが無くて仕事が大変な人への返事

2019年08月17日 | Weblog
お久しぶりです。
更新しないからと言って、別にここを無くそうとは思ってないよ。

全然関係ないんだけど。

たまに仕事とかで、「三日間徹夜したわ」とか、「毎日帰るのが遅い」とか、「休みがなくて仕事が大変」という人がいる。
働き方改革で、仕事はたくさんあるのに、早く帰らないといけなくて、時間外で仕事するしかない、とか。
忙しくて大変だ。愚痴の一つも言いたくなるんだろう。

こう言われたとき、正しい返事は、「大変だったね」とか「おつかれさまです」とか、いたわることだと思う。

だけど私は、たまに間違って真面目に返事をしてしまう。
「そんなに忙しいなら意識的に仕事をしなければ、『こいつはできない』と解釈されて、仕事が減るのではないか」とか
「休みというのは意識的に努力して時間をもぎ取るものであって、自分で努力しなければ、勝手に増えていくものではない」
とか。

あああー、返事として間違っているよな、これ。

対人とのコミュニケーションとしては、これは間違った返事だ。

でも、私は自分の人生で、かなり意識的に「頑張らない」ように頑張ってきた。
というのも、私はどちらかというと「頑張りすぎ人間」になってしまう傾向があるからだ。

バイトのときは頑張りすぎてトイレに行くのを我慢し、膀胱炎になってしまったり、生理のときもトイレに行くよりも仕事を優先して、おしりが血だらけ事件をおこしてしまったり。
赤ちゃんが産まれた時には、赤ちゃんを優先するあまり三日間もお風呂にも入らず着替えず寝ず、なぜかものすごくクサイ人間になってしまったり。

いろいろな経験の結果、「何があっても時間がきたらそれを中断して休む」という命令を自分の中に追加した。
(ちょっとロボットっぽいヤツ)

で、その経験からの言葉として、「休みがない」という人への返事は、「休みは意識的にとるものだ」というアドバイスになってしまう。

でも、「仕事が休めない」と言ってる人は、そんなことは分かったうえできっとそれをいっていて、別にそんなことを改めて言ってもらいたくもないのだろうと思う。言ってしまった後で気づくんだけど。

人との会話って、大半は半分ぐらい聞いて答えたほうがいいくらいのことが多い。
百パーセント聞いて百パーセント返事をすると、逆に間違えたことをいいがちになる。

むかしは、真面目に聞いて、真面目に答えて、それが誠実ということだ、と思っていた。
だけど最近は、できるだけ人が心地よく会話できるように返事をしたいなぁと思う。

それが大人ってことなんだ。

四月のご報告

2019年04月08日 | Weblog
四月になりました。
私事ではございますが(私事しか別に書くことはないんですが)、ご報告です。

noidolHP!は三月を持ちまして終了いたしました。
いままでありがとうございました。でもこのブログはまだボチボチ続けます。

また、こちらでもちょいちょい書いている通り、
P社での本の出版の可能性は依然として続いております。
まだまだ直すとこがあると言われておりまして、絶賛修正中です。(すでに三年も修正中ですが。。。)

そしてあらたに、今年はあの漫画で有名な出版社S社の文学賞の最終選考に落選してしまいました。カナシイです。
ですが、担当がつくとのことで、今年からはP社とS社の担当さんとともに、
出版化を目指して頑張っていきたいと思います。

子供は無事、二人とも小学生になります。
時間もできるので、これからも地味に頑張っていこうと思っています。

可能性はあります

2018年11月06日 | Weblog
某出版社で担当がついて、小説出版の準備を始めたのが2016年。それから二年ちょっと。
前の担当さんは全然返事をくれなかったけれど、
「会社がつぶれない限り、絶対に小説を出します」と約束してくれた。
だからずっと頑張って来たのだけれど。

その担当さんが半年前に会社をやめ、次の担当さんに変わった。
その担当さんと一緒に文章を練り上げていたけれど、
今回「本にする可能性はあるけれど、まだまだ難しい」といわれてしまった。

その温度差に、大変ショックを受けている今日この頃…。
え、約束してくれていたのに…。しかも別にさぼったりしたわけでもなく、
返事をくれなくても、くれなくても、どんなにつれない態度でも、
頑張って改稿を送付し続けていたのに…。

絶対出す→可能性はある
の変化はだいぶ手痛い。結婚します。→結婚する可能性はあります
では、ほとんどフラれる直前みたいなもんじゃないか。

もうほんと、無理かもしれない、と悲しくなる。
でも、こういうことは、よくあった。
大賞です!といわれて舞い上がって、新聞取材とかも受けたけど、
「やっぱり間違いでした」といわれたこともある。
普通はそんなことないと思うけど…(個人情報って何…?)
でも、そう言う哀しい驚きは実際に人生でおこるものだ。
こういう事態になっても、おかしくはないんだ。

可能性が少しでもあるのなら、諦めちゃいけない。
そう思って、そう思って、必死になるしか、
自分にできることもないんだから。