徒然なるのゐどる

ふしぎにさびしい宇宙の果てを
ふわりふわりと昇って行こうよ。

説明

2021年01月08日 | Weblog
うーん…。

とある人がいます。

その人は出かけようとしているのだけれど、まだ部屋で何か用事があるのか、戻ってきました。
私はその人の顔を見上げ、「スマホを忘れてるけど、教えたほうがいいかなぁ。それとも、そんなこと言うのはおせっかいかなぁ…」と思っていたら、その人は私を見て「なんだ? さっさと出てけってか?」と、言われてしまいました。
だから、そんなことは思っていない、自分はスマホを忘れたことを教えてあげようかどうか、言おうとしていたのだ、と説明しました。

また別の日、私はその人に「お昼は外で食べてくるの?」と尋ねました。
するとその人は「わかったよ、外で食べてくるよ」と答えました。
なんだか返事がかみ合っていないと思いました。
私は「お昼を外で食べてこないなら、パンを買って、一緒に食べたらどうでしょう」と提案しようと思っただけなのに、相手は「昼ご飯を作るのが面倒くさいから、自分のことを迷惑に思っているのだな」と解釈したようなのです。

そう言うことが何度も続くので、私はその人に対して誠実に対応しなくてはならないと思いました。
「自分の中の『イメージの私』と会話するのはやめてほしい。私の言葉を聞いて、目の前にいる私と、言葉で会話をしてほしい」と頼んでみることにしました。

すると相手は、言うのです。
「そうさせているのはおまえだ。イメージと会話させているのはおまえのせいだ」

私は何となく、疲れを感じてしまいました。

人のコミュニケーションは、もちろん、態度と、表情と、言葉と、たくさんのもので構成されている。
それらをひっくるめて人は、人とコミュニケーションをとっている。

だから、自分の意図しないものが相手に伝わってしまうことはままあることだと思う。

だけど…自分の言葉が、相手にそのまま受け取ってもらえなくて、おまけに自動的に悪い解釈をされるとなると、それは完全にコミュニケーションが破綻している。そうなると、言葉によって「そうではない」と誠実に説明するほかはない。
だけどそれすらもしたくないと言われてしまうと、そんな相手には、どう、向き合えばよいのだろうか。

相手が言うように、相手にイメージの私と会話させているのは、私のせいなのかもしれない。
しかしそれをやめさせるには、やはり、私自身との会話を重ねて、相手の中にある私のイメージを壊すしかない。
そのくせをやめて、私自身の言葉に耳を傾けてもらうしかない。
しかし、相手はそれは私のせいなので、自分に非はないので、自分を変えるつもりはない…。

一度、相手が誤解をしてしまったときには、自分の誠意をもって、相手に丁寧に、自分のことを説明しないといけない。
だけどその説明すら受け取ってもらえない場合、相手の誤解は受け取られぬまま助長し、コミュニケーションは破綻してしまう。

けれど、それは、私自身もまた、相手を変えることはできないというパラドックスをはらんでいる。
私は相手に変わってほしいと言うが、相手も私に変わってほしいと願い、それは平行線なのだ。

何度も何度も、自分がどんなに丁寧に説明しても、わかってもらえないことというのはままあることだ。
言葉を尽くして、わかってもらえたと思える経験は、自分にはほとんどないと思う。
それでも、丁寧に説明すること。それだけが、人と人がコミュニケーションをとるうえで、できることだと思う。
その細々とした営みをあきらめてしまうこと…それをするときは、相手との交流が途切れるときだ。
誠意をもって説明を続けること、それが大事なんだと、自分に言い聞かせている。