徒然なるのゐどる

ふしぎにさびしい宇宙の果てを
ふわりふわりと昇って行こうよ。

つらつらメモ

2020年09月12日 | Weblog
このあいだ、朝の情報番組でこんなニュースをやっていた。
このコロナ禍の中、マスクの着用を拒否した乗客がいて、ピーチ機は新潟に緊急着陸したのだという。その後そのお客さんには、降りてもらったのだという。

そのとき、司会の志らくさんは、ひととおり持論を述べた後で、
「こういう人は言ってもわかんないよ、ずっと言ってもわかんない」
といっていた。

私は、時に、こういう気持ちになることがよくある。
志らくさんが正しいのか、そのお客さんが正しいのか。
そのどちらをいっているわけではない。
ただ、時に、「いくら言葉を尽くしても、この人には伝わらない」と、絶望のような、真っ暗な、底が見えない溝のようなものを、人に感じるときがある。
そしてそのとき、相手もまた、私にそれを感じているのだろうと思うと、ひどく孤独に想うことがある。

犀の角のようにただ独り歩め。

志らくさんが「話してもわかんない」といったのは、だから私としては、感情としてはとても共感できる。
だけど、朝の情報番組でこれでは、いけないと思う。
それは人と人との断絶であり、それで問題を終わらせてしまうのは、何も意見を言っていないことと同じようなものだ。

こんなとき、私は、「法律」というものは、まったく素晴らしい発明だと思う。
法律は、こういう時に、こういう判断をします、ということを、いともバッサリと言ってのける大ナタだ。
「法律」にあてはめれば、その人が間違っているのか、合っているのか、
自分自身の言うことが合っているのか、間違っているのかの、判断基準になる。

この人とは分かり合えない、話しても意味がない。
そういうとき、「自分」から発出する言葉を話すのではなくて、「法律」に照らし合わせた言葉を発出すれば、「話ができない」と思っていた人とも、話ができる。相手が同じ法律を共有している場合に限るけれど。

「法律」は、時に、まったく話し合うことができない人と話すことができる、唯一のツールのように思える。
それはとても、安心する。どんな人とでも、少しは通じ合えるところがあると感じられる。

全然別のことになるが、元首相安部あきえ夫人のモットーは「どんな人とでも話せばわかりえる」だとか。
それは私には、それを言える人は、幸せな人なのだろう、と思える。

だって本当に言葉が通じない人には、本当に全く、言葉が通じないのだから。

ひとつだけ忘れてはいけないと思うのは、「法律」は、人としての正しさと間違いを示すものではないということだ。
あくまで多数が正しいと感じた判断の基準なのであって、それが人間的な正しさや感情的な正しさの尺度ではなく、「絶対」ではない。だからその人と「ほうりつ」を論じるうえで貴和が成り立ったとしても、それは、真にその人と言葉をくぁして理解しあえたということにはならない。

人は結局、どんな言葉を尽くしても、分かり合えるということはないのだと、私は思う。

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