IT翻訳 Nobuyuki の仕事部屋

ボランティアでソフトウエアーローカライズのために翻訳をしている。

レクイエムを聴く

2007-10-10 01:00:31 |  Mozilla Org.


先週の土曜日に、ミューザ川崎でモーツアルトのレクイエムを聴いた。この曲は中学生の頃から聴きなれた曲だ。初めてLPレコードで聴き、その後30年以上に渡り、CDでも繰り返し聞いてきた。しかし、生演奏を聴くのは今回が初めてである。

オーケストラの後ろに、合唱団が並んだがその数およそ200人くらいであろうか。その他、バス、テノール、アルト、ソプラノの各歌手が指揮台の前に並んで、合唱と交互に歌った。何と言っても圧巻は、合唱の迫力である。モーツアルトの変化に富んだ美しいメロディを朗々と歌い上げる。コンサートホール中に響き渡る歌声は、ホールの天井を突き抜けて、天空へ届くのではと思われるほど、力強いものだった。モーツアルトの時代には、教会で歌われる曲だったのだろうか。レクイエムとは、日本語で鎮魂歌と言うようだ。あるいは死者のためのミサ曲とも言う。教会のような神々しい雰囲気で披露されると、聴衆にはさぞ強烈な印象と感動を与えた事だろう。

ところで、今回初めて知ったのだが、この曲はモーツアルトの未完の作品となったようだ。彼の死後、弟子によって最終的な完成を見た。健康を損なっていたモーツアルトの下へ、匿名の依頼主の使者が現れ、レクイエムの作曲を依頼する。モーツアルトの要求した作曲料の半額を、その場で使者は支払った。残金は曲の完成後支払う約束になったようだ。しかし残念ながら、未完のままモーツアルトは生涯を終える。この辺の事情はモーツアルトの生涯を描いた映画『アマディウス』に、謎の使者の訪問を受けるシーンにおいて表現されていたように記憶している。

未亡人となった妻コンスタンツエは、レクイエムの完成に執念を燃やす。その訳は、作曲を完成できないと、作曲料をもらえないためである。それどころか、モーツアルトが受け取った前金を返却しなければならなくなる事を、彼女は恐れた。何とも、やりきれない話である。晩年貧困に喘いだモーツアルトが、死後共同墓地に葬られたという話を思い出した。それほど、晩年は不遇に見舞われていた。真の天才であり、永遠の作品を生み出しながら、この末期は酷すぎるように思える。

結果的に弟子によって完成されたレクイエムは、モーツアルト自身へのレクイエムとなったと言える。しかし、あまりにも、美しく見事なこの作品は、作曲者の不遇を越えた永遠の芸術作品そのものだ。時を越えて、今も聴衆に感動と共感を与え続けている。