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ほんとにっき

身辺雑記、本の紹介、日々の徒然、サッカー、映画など。。

世界、世界、世界つまりワールド

2008-05-07 15:10:12 | Weblog
絶望はしていない。ただ、手詰まり感がある。
一つ一つの選択が、さして意味を持たないんじゃないかと。
僕の書く文章は、誰かが書いた優れた本の劣悪なコピーに過ぎないのではないだろうか。
真の本物は、限りなく少ない、それに僕がそれを判別できるかもわからない。

アジアンカンフージェネレーションの新譜「ワールドワールドワールド」を聴く。
三日間くらい対面して聴いていた。
次第に明らかになってゆく音の数々。聴くたびに音像が鮮やかになってゆく。
これは夜明けの音楽だなと思う。そして、聴くもの一人一人に向けられているんだすべてが。
音楽を文章にするのは、難しい。限りなく困難だ。
でもこういう風に聞こえる

起きろと


演じる男

2008-05-01 05:04:11 | Weblog
誰か私をここから連れ出してくれ
近くのコンビニでいい、案外それがいいかもしれない
誰か私をここから連れ出してくれ
足はある、どこまでも歩いてゆける
手もある、自らの身体に触れることも出来る
でもそれだけじゃ足りないんだ
夢の中で生きる、眠りの中で生きる
そこでは私は私以上に美しくなることも出来る
でもそれだけじゃ足りないんだ
現実という奇怪な化け物に対する
対処方法を教えてくれよ
誰か私をここから連れ出してくれ

アカルイミライあるいは不適当な文章

2008-04-29 05:44:29 | Weblog
映画作品や音楽作品について文章を書くとき
なんだかいたたまれない気持ちになってしまう。
作品自体は、僕の及びのつかない遥か高い場所にあるのに、
批評行為によって(そんな立派なことではありませんが)
一段上のところから、まるで支配者の目線で作品を語っているように感じられる。

さて、アカルイミライ、黒澤清監督作品。
まず思い浮かべるのは、浅野忠信演じる男が自ら死を選ぶ場面だ。
あの画面に映る緊迫感は非常に現実的で、逃れられないリアリティーがそこにはある。
なぜそういうことになってしまったのか。
社会を動かす原理と、そこに居座る人間と自らが構築し破壊する現実との
乖離が余りにも酷かったからではないだろうか。

そんな中でアカルイミライを託されるオダギリジョー演じる男。とくらげ。
彼は悩む。そして、半ば世捨て人として最後少年と行動を共にし結局は離反する。
深夜、バットを振りかざしどうにも発散できない自らの怪物めいた衝動により
現実との接点を保とうとする、その場面が異常な存在感をもって胸に迫る。
 
くらげ。なんらかの比喩的存在なのだろうか。いや多分違うな。
くらげは、そのままでも十分に美しいし、それによって救われる人間もいる。
この映画を見て救われた人がいるように。
アカルイミライは個々人の若さにあるのだろう。
そこには無限の可能性などない、一分の可能性すらないかもしれない。
それでも若者は歩き続ける。

作品を見たのが3年かそのくらい前なので事実誤認があるかも知れない。
それに不適当な文章になってしまったかもしれない。
でも、この映画が僕の内側に眠っている間、僕は僕なりの現実と向き合ってきたし、
そこで醸成されたものもきっとあるはずだ。

若者は歩き続ける。そこにはアカルイミライがあるのかもしれない。(敬称略)

言葉の力

2008-04-26 05:00:52 | Weblog
ある人に言われた言葉がある。恩師と言ってもいいかもしれない。
それほど、僕にとっては大切な人だ。

人間の多様性を尊重する事
判断に困ったときは、白か黒だけではなくグレーもあるという事
可能性を捨てず大切にする事

今振り返ってみると、まさに拠り所になってたなあと実感する。

同世代の音

2008-04-23 12:59:44 | Weblog
僕は一昨年から昨年にかけて、RADWIMPSの「有心論」と「セツナレンサ」
のPVを繰り返し見た。何度も。

表現者は自らの内奥に潜む表現衝動を突出、先鋭化した形で世に出さなくてはならない。
たとえ、凡庸さであってもだ。
その点で、彼らの「セツナレンサ」を聴いたとき、心地よい衝撃を受けた。
ミクスチュアロックと日本におけるアメリカ文化を茶化し、突き詰めたかのような音楽。
だけど、不思議なほど突飛な印象だけを聴くものに与えない。それは、
彼らにそれだけの覚悟のようなものがあるからではないか。または、確信?

僕は、印象論でモノを語る。念のため。

「有心論」で彼は(君が余りにも綺麗に泣くから、横で思わず僕は笑ったよ・・・)
と歌う。初めて聴いたとき、正直に申せば嫉妬した。情景化され一般化された歌詞ではある。
でも、同い年がもうその様な体験をして歌にしているということに嫉妬した。
(何故か、彼らの成功や立場に対してはその様な感情は抱かなかった)
多分、余りにも自然だからだろうな。身に纏ってる音の全てが。

流行る音楽は流行る。でも、残る音楽もある。
(上から目線ですいません)

ゆめしらず

2008-04-20 11:39:05 | Weblog
フー、久しぶりだな。結局、一週間書かなかったことになるのか。
閉じた生活がいやで、それを打開するためにこうやって
日記を始めた訳だけど、それもまた日常の一環になってしまって
要するに継続性がないといえばそのとおりなのだけど・・・
まあ、惰性で続けるというのも大切なことですね。

「何か、私に出来ることはありますか」
「ねーよ。せめて邪魔せず何もしないでくれ」

上記のごとき会話がある。実際に言われたら少し凹むだろう。
新入りだったらまだいい。仕事を盗んで身体で覚えろという婉曲表現かもしれないのだから。
でも、そのままの意味だったら。それは本当に考えたくないことだ。
必要とされてないということは、どのような場面であれ寂しい。

さて、人生の報告。その様な責務はここでは発生していない。
でも、文章にするだけで少なからず、情報は届いているだろうし
僕の人間像、人生の肖像ともいうべき姿が形成されていってるだろう。(少し大袈裟かな)
そこで下らない事を書く。あえて、ありふれたことを書く。
昨日、テレビで「パイレーツ・オブ・カリビアン」やってましたよね。
途中まで見たけど、話題になるだけはあったな、さすがに。

夢を見る。それはとても鮮やかな。
それを抱いて、目覚めたときずっと大切にしておきたいと思う夢もある。
新垣結衣に脛を蹴られた。眠ってるのに思い切り蹴られた。
それが彼女なりの目覚ましなのだろうか。
それ以来、僕はその姿を意識して忘れないようにする。
思えば馬鹿げたことだ。遠く離れた女性芸能人にそんな意識を抱くことは。
でも、と思う。正直な話、新垣結衣に本気で恋している人間は日本で何人いるだろうか。
ゼロではないような気はする。憶測だけど。
それに比べれば、気楽なものだ。夢の中で思っているだけなのだから。
兎に角、彼女の姿を忘れないようにする。   
                          (敬称略)
これも有名税というやつでしょうか。
全く困ったものですね。

あめあめふれふれもっとふれ

2008-04-12 11:20:25 | Weblog
今日は雨降り。雨音がする中でうとうと眠るのは気持ちがいい。
怠け者・・・
雨について書こうと思う。
記憶の中にある雨。
小学生の頃、帰り道、豪雨の中歩いて帰ってきたことがあった。
天気予報が外れたのだ。当然、傘などもっておらず、児童たちは
迎えの保護者の車に乗って帰宅した。
そんな中、僕はひとり歩いて帰った。多分、誘ってくれた友達もいたと思う。
でも何かが、それを許さなかった。自立心?親への愛着?
分からないが、あの時僕が感じていたのは「開放感」だと思う。
誰にも邪魔せず、誰にも邪魔されない、あるのは
「俺と雨と運命だけ」
すいません。大部分は今考えて書きました。
でも、記憶の中の雨降りは今も僕の頭の中を叩き続ける。 

詩というものは鉛筆で殴り書きすべき

2008-04-11 11:25:16 | Weblog
だという結論に達したのだが、どうだろう。
やはり、過ぎ去っていく時間と共にひっそり綴られていくものでしょう。
違うかな、違うかもしれない。
ただ単に、口実を探しているだけかもしれない。
だがいい。ここは僕のための場所なのだから。
文体や考え方に多大な影響を受けた作家がいる。
村上春樹氏だ。
北海道新聞に掲載されたインタビューでこんなことを語っている。(以下抜粋)
「だから自分とは何かという事実に向き合わなくてはならなくなってしまった。
でもそれはすごく不安なことなんです」

僕は僕自身と向き合えているだろうか。それにこんなことも語っている。

「それぞれの人には物語があり、その物語の中で生きている。それが人を救うんです」

僕の物語。現在について自分がどのような位置に立ってどのような
役割を担っているかは分からない。それこそ、それは、僕の手に余ることだ。
だけど、誰かに出会うことで(どのような空間であれ)自分が
こんな人生を生きていたんだと合わせ鏡のように分かる瞬間があると漠然と思う。

どんな形式であれ自分と向き合い、その様な文章を書く。
どの様な?

植松さん

2008-04-07 11:02:14 | Weblog
うなぎうゅるうゅるうなぎ
うさぎうょんうょんうさぎ
うしうおうおうし
うまうごうそうま

裏切りと売り子が討って
撃って羨みが売って打つ
うなじがうらやましい
詩が埋まる
歌が移ろう

うたがきこえてくる


うゅるとうょんはちょと無理だったかな

井上さん

2008-04-06 05:45:52 | Weblog
幾つもの命が、いま、生きている
いつまでも、息する
いらないものなど、石ころさえも
色々、伊勢丹、イトーヨーカドー
威厳に、いかがわしい、いわば、いやらしい
糸が、意図が、胃とが、遺稿
いつまでも、いきている
意味不明なイワシ
岩間にイワナ、言わないで
イトウと意志と石と遺志
いいよ、とても、やっぱよくない


制約の中でどれだけ言葉を綴れるか(その制約もあってないようなものだけど・・・)
おはようございます

野蛮な行為

2008-04-05 09:37:44 | Weblog
当たり前な明日と遊ぶ
ありがたいことに明るい雨降り
ある意味ではあなたはアコーデイオン弾き
飽きっぽいアフリカ象が握力を上げてる
甘い明後日の足の欠伸
ありがとう あなた 
ありがとう あまいめまい


常日頃、自分には詩的な情緒性が眠っているんじゃないかと
思っていた訳ではないですが、日常から離れて、いわば、
立派な言葉で言わせてもらうなら、いわば
創作の場所としてここを活用してもいいのではないかと。
そこにある現実への不平不満は、どうしても言ってしまうし・・・
言葉がなかなか出てこないと言うのは、面白いことだ。
形式化された散文ではなく、言葉で世界を言い尽くす
詩というものの奇怪さ、興味深さ。
 

きょうの運勢

2008-04-04 10:49:37 | Weblog
「高く跳ぶ者ほど深く屈する。実力を蓄えて」

本日付けの北海道新聞の運勢欄に、書いてあった。
時に預言のようにその言葉は僕を苦しめ、又、癒してくれる。
僕は混迷に過ぎるのだろうか。
実は、昨日、毎日書く宣言をしてから、ずっと頭の中をある思いがもたげていた。
果たしてやれるのだろうか。その必要はあるのだろうか、と。
社会と他者とこういう形で、接点を持つことで
失われるものも、あるいはあるかもしれない。
世に出るまでは、徹底して弧絶していいのではなかろうか。
(苦し紛れのいいわけ)

だけど、誰かに手紙を出す為にはこの形式は圧倒的に優れていると思ってて・・・
目に触れることが実際にはなくとも、それは批評的行為として完結される。

やっぱ、思い立ったときに書く。
前言撤回。

ごろごろ。