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ほんとにっき

身辺雑記、本の紹介、日々の徒然、サッカー、映画など。。

ふにゃふにゃ

2008-09-21 06:40:09 | Weblog
この夏、僕は沢山の夢を見た。
思い出したいのもあれば、二度と思い出したくないのもある。
夢の中で生きていたといっても過言ではない。
目を開けた生活よりも、目を閉じた生活のほうがより豊かだった。
様々な人に会い、多くの出来事に直面した。
見知った顔にも会えたし、それこそ悪夢にも苦しんだ。
こんなんじゃいけないなと思う。

そう、こんなんじゃいけない。

でも、よく言われるように(?)、夢の中で綺麗な女性に会うと
目が覚めたあとしゅんとしてしまう。それは、
有名人であったり、懐かしい、時が止まったままの同級生だったりする。
そんな時、僕は何もなす術がない。起きた後の世界に対して。
それでちょっと悲しくなったり、怒ったりする。
僕はあなたに会えないのだ。

こんなんじゃいけないだろう。
夢も現実の一部かもしれないが、そこでは全てが受動的だ。
決められた物語をなぞっているだけだ。
そこでは望むことも求めることもできない。

目を見開け、動け
そしてまた、僕は眠りにつく。
甘美な夢を求めて、
いや違う、
豊穣な世界を後にして、やがて目を覚ますだろう。

2008-09-19 03:22:12 | Weblog
「成功するのなんて、たかだか2割ぐらいだ。10回のうち、
8回は失敗だよ。だけど、それを周りに見られて成長していくんだ」
その頃の自分は、全て回ってきた機会は全て成功しなければいけないと思っていた。
強迫観念に近かったのかもしれない。完璧じゃないと駄目だと思っていた。

「あの人の人生は、幸福だったねえ。とてもいい顔しているじゃないか」
生まれて、生きて死ぬ。その人だけの、時間の経過がある。
人はそれを人生と呼ぶ。社会からの、外部からの視点。
それが全てではないが、その視点を自身の内側に取り込んで、
この世界からはぐれないようにする。自分と世界を結びつける。

一本の映画がある。メディアでこの頃宣伝されているので、知っているかもしれないが、
「イントゥ・ザ・ワイルド」アメリカの映画だ。
あらすじを紹介すると(というかそれしか知らない)
一人の青年が、大学院への進学を控えた22歳の時、
自分の身の周りのものを処分して、アラスカへの旅に出る。
道中何が起きるのかは知らないが、彼がそこで得たものとは、失ったものとは?
そして何を捨て去りたかったのか・・・
まあ、こんな感じで「王様のブランチ」で紹介していた。

同い年なんだな、彼と。そして世界を味わい尽そうとしている。
生なるものの核心に触れようとしている。一種の憧憬がある。
視点も視線もかなぐり捨てて、外へ飛び出すこと。
僕にできるだろうか。それとも、こんな考えは性急に過ぎるだろうか。

えっと、ここのところ写真を貼っているけど、これは自分で撮った写真です。
ある街を撮ったんだけど、ほんと、一日中かけて。実を言うと少し散歩するつもりが、
迷子になってしまって自棄になって、一日ほっつき歩いていた。
よければ、当ててみてください。判るか判らないか、微妙な写真をもっと
撮っておけばよかったな。

早朝午前4時半

2008-09-18 01:41:11 | Weblog
走っている時、苦しくてしょうがないのにある地点から、
急に呼吸が楽になることがある。いわゆるランナーズハイ。
そんな時、足を前に進めるのを意識しなくても、自然に僕は走ってる。
風が気持ちよくて、道路には車が殆ど走っていなくて、
まるで、町を占拠している。走るための町。僕のための町。

それは早朝のこと、やがて人々は起き出すだろう。
一日は動き始めるだろう。そんな時、僕の姿はもう何処にも無い。
消えている。君の瞳に僕が映ることは無い。恐らくは。

垣根など無いのだと。この道も誰かが、ある時点で作ったのだと。
自然と共に生きることができないから、人工物でこの世界を埋め尽くす。
割り当てられ、保有し守っている。それが人生。
失うことを恐れ、また昇ることを躊躇し、過ぎていく。
それが人生。

でも、と思う。人生と人を引き剥がしたいと。
自分はそう生きたいと、切に願う。なに言っているのかわからないな。
つまりこういうことだ。
私は、この世界の一部で、見方によれば全体にもなりうる。
浮世離れしている。全く・・・。
(今読み返して、意味不明、困ったことに。でも、
伝えたいことはあるんだ。それが余りにも感覚的過ぎて困っている)

2008-09-17 02:51:12 | Weblog
「愛とか絶望とか言って恥ずかしくないのか、コノヤロー」という
声が聞えそうな気もするが、どうせならほんのちょっと突き詰めたいと思う。

生きている動物の数だけ、絶望と愛がある。それも、沢山を抱え込んでいる。
「親切は愛に勝つ」という有名なテーゼはあるが、僕も社会生活を送る上では、
これは間違いではないと思う。例えば、学食で並んでいる時に、女の子に
順番を譲ったり・・・。それでは、対価を求めるのは一体、どっちなんだろう?
と考えた時、悲しいかな愛がそれに当てはまる。
無償の愛なんて、余程の人でなければ実践できないだろう。
愛の特徴として、自分はこれだけ思っているのに、というのはある。
まさに独り善がり。思いと相手の思いは、一致しない。残念ながら。
乏しい経験の中で、書いてみた。認識としてはこんな感じ。

絶望について。僕はこの空間から自分というものから抜け出せない。決して。
そして、どんなに自分が変わろうともこの世界は変わらない。
どんなに努力をしても、そこにある怠惰は転がっているし、又、
どんなに何もしなくとも、そこにある世界は漫然と今日も動いている。
社会的弱者という言葉は好きではないけど(零れ落ちる「弱者」は絶対にいる筈だからだ)
その零れ落ちるその人を、助けることでしか、自らは救済されないのではなかろうか。
それは、親切から始まるのかもしれないが、やがて愛に辿り着くだろう。
あるいは、こんな考え方は傲慢かもしれない。
でも、人々のあいだにあるものを越えて生きたい。

人生の3冊と称して、本を紹介したいと思っているんだけど、
それがなかなか難しい。それで、ここで一冊。
今までの文章は、実は、その本の紹介文だったりする。
                  白石一文「一瞬の光」

でも言い訳がましいと思われるかもしれないけど、考えている事の
1割も書けていない様な気がする。(本当に言い訳がましい)

月が綺麗だ

2008-09-16 02:23:42 | Weblog
ある人が書いていた。
自分はカジュアルな絶望が嫌いだと。
そんな文章はただのままごとに過ぎず、真の絶望を描ききるのは
並大抵のことではないし、絶望の闇の闇の先にあるもの、
その「何か」としか呼べない何かを、表現者は求めるべきだし、
課せられた仕事であると。

結局、人間には個体差があるしそれが個性に繋がっていく。
故に、人生においてしてはいけないルールはあれど、絶対的な答えなど無いのだ。
と断言してみる。(僕のささやかな文学的考察)
行き着く先は、まず一つは肉体的な喜び。そしてもう一つ(大勢かもしれない)
は、まだ僕には分からない。暗中模索しているところ。

映画からの引用。
「私は神の存在など信じないけれど、もし、いるとするならば
私と、あなたの間に宿るのだと思うわ。あなたを強く望めば望むほど」

所詮、しみったれた文学かぶれの戯言だ。そして、感傷的な夜だ。
僕は、酒を受けつけない体なのだけど、月を見ながら熱燗でも呑みたい。
こんな事言うと、少しというか、かなり胡散臭いと思うけど
それに宗教でもやっているの、と訊かれるかもしれないけど
あえて書く、
つながっているのだと
あらゆるものとつながっているのだと
「こんな夜は全てを愛せそうな気がするな」

2008-09-15 02:54:35 | Weblog
時々、怖くなる。
自分は、ごく当たり前のことしか書いていないのではないのだろうかと。
又は、全く見当はずれのことを自慢げに書いているのではないのだろうかと。
堂々巡りだ。

全ては自分から始まるんだろう。そう考えるようにしてきた。
駅の発着点なのだと。でも、列車は次々と駅へ雪崩れ込んでくる。
乗客が乗り終えた無人の、列車。そう、ここは終着点。
何も、目新しいものはない。

自己憐憫に浸っても、しょうがない。
悪夢を見たのが原因かもしれない。
親しい人が、寝ている僕をまるで考慮しないように、電気を点けた。
そして、ある写真を目の前に突きつけた。
そんな写真は、現実には存在しない。
記憶が、織り成す一枚の写真。それは実に卑猥なものだった。

一人の力では、打開できないどうしようもない状況に置かれたとする。
それは、僕であり、あなただ。
手を差し伸べてくれる人がいるなら、その手を離さないほうがいいだろう。
でも、引き上げられることはなく、引きずり落としてしまうかもしれない。
それは、果たして正しいことなのだろうか。
これは、絶望とさえ言えない。

夜目覚めたとき、僕はあなたに話し掛けられるだろうと思った。
そして、それが僕の望んだ唯一のことだった。
さよなら。とりあえずは。

真昼の出来事

2008-09-14 03:44:24 | Weblog
昨日、髪を切った。じょきじょき、じょきじょきと。
風呂場で、自分で。ある程度、伸びていたので、最初は整えるつもりで
はさみを取ったが、素人がそんな上手くいく筈も無く、
イメージ通りにならず、少し嫌気がさして、ばっさりはさみを入れたら、
それが快感でその後は、じょきじょきと赴くままにカットした。
結局は、スポーツ刈りのちょっと長め位に落ち着いたが、実にさっぱりした。
それに文句を言う相手もいないので、納得せざるをえない。
自分で何かをするときは、全部自分に跳ね返ってくるものだなあ、と
当たり前のことを実感。
だけど鏡を見るとき、少し驚く自分がいる。
髪形を変えると、顔も雰囲気も違って見えるものですね。

イメージ通りにはならない。しかし、そのイメージというものをそもそも
持っていたのかという疑問。そして髪は突如長くなることは無い。
ここはもっと短くしたほうがいいとか、切り過ぎてしまったなと。
そして、必然、短いほうに合わせていくのでどんどん短くなっていく。
短い短い・・・変かな?
技術が伴わない場合は、まずやるしかない。
まあ、美容院なり床屋に行ったほうがいいと思う。
率直に言って。

まとまりの欠いた文章

2008-09-12 03:19:56 | Weblog
例えばの話、外に出てみると皆が皆、青を基調とした服装をしているとする。
実は、自分も青が好きだったとする。それで青い服を着て、
街に出掛けたら、この風景。
「茶色の朝」という本があったが、ここでは別にナショナリズムの話を
したい訳でもないし、全体主義について考えたい訳でもない。
むしろ、皮肉や逆説について、統計について。
青が世界に満ちているなら、そこで白い服を着ることができるか。
そうすれば巷に変化が生まれ、紫や黒の服を纏った人も出てくるかもしれない。

分かりにくい例え話をしてすいません。
つまり僕が言いたいのは、表現や意見を主張したいなら、時には自分の意に反する
衣装を身に纏わねばいけないということ。
勿論、自分の信念を貫き通して青い服を着るのも大事だと思うけど。

この前、村上春樹さんの「海辺のカフカ」が推薦図書ということを書いたが、
文芸評論家の方が書いた、戦前戦後60年ずつの併せて120年の、一応の
終着点がこの作品であるといった文章を読んで、少し驚いた。
まさに歴史に立ち会ったのだ。別に鵜呑みにしている訳じゃないけど。
しかし、確かに読み終えたあと僕は新しい世界に含まれているように感じたし
それから、人生に対する向き合い方も変わったような気がする。
僕はこの世界に参加している。のか?

「何でお前はここにいる」

2008-09-10 05:38:38 | Weblog
「何でお前はここにいる何でお前はここにいる」「それは「なんで
何でお前はここにいる」「あなた「何でお前はここにいるんだ?」

この言葉を投げかけられたとき、僕は少し混乱しているのと同時に
ある確信を持っていた。それは、あなたを愛しているからだ、と。

今となっては、お笑い種かもしれない。何を言っているんだ?ってな具合かもしれない。
例えば、会社で上司が部下の方に対して「何でお前はここにいる?」
と訊ねたら、それはクビか左遷を示唆しているものかもしれないし、
恋人に「なんであなたがここにいるのよ?」と言われたら、
それはもう二人の関係は終わっていて、それで合意したはずなのに、
まだ現前に姿を見せていることに対しての率直な怒りを含んだ疑念なのかもしれない。
このように考えていくとあまりポジティブな言葉ではない。
でも誰でもない赤の他人にこう言われたらどうだろう。
「何でお前はここにいる」(今日何度目の登場か・・・)

僕はこれ以上真剣な言葉を聞いたことが無かった。
僕も本気だが相手も本気だった。そして、その言葉は僕の鼓膜を壊しそうなくらい、
揺るがした。でも、僕はこの様にも聞えたんだ。この言葉が。
「何でお前はここにいる。他の場所にいるべきだ。こんな場所にいないで、もっと遠くへ行け」
まるで、ニューシネマパラダイスという映画の、映写技師のおっさんが、トト
に対して「ここにいると自分が世界の中心にいるように感じる。だからお前は
ローマに行け」と言う様に。
それは温かい言葉だった。今思えば、本質を突いた的確で熱い言葉だった。
忘れることは無いだろう。そしてこれからも自問自答していくだろう。

あと関係のない話。自分を見失った若い人は村上春樹さんの
「海辺のカフカ」を読めばいいと思うよ。気休めぐらいにはなる。
僕はこう見えて体育会系なので、年下には先輩風吹かせる。
と言うのは真っ赤な嘘。

しゃきっとした背すじ

2008-09-08 04:51:51 | Weblog
私は生きていることを学んでいるはずだったのに、
いつからか死ぬことを学んでいた
            レオナルド・ダヴィンチ

ブログでは自分の内面は書こうとも、身の周りのことは書かないと決めていた。
何処にでもいる自分が、そこにしかいない自分に変わってしまいそうだからだ。
つまり、余り個人情報を明かさぬことで、もしかしてこれを書いている人は
嘘ばかり書いていて、本当は隣にいるのかもしれない。
電車の隣に座っているのかもしれない。ってそんなこと思わないよね。
ネットと実生活を結び付けないことで、自らのごく私的な遊びを楽しむという面はある。
まあ、パソコンに向かい合っているのは一人だからね。
前置きが長くなってしまった。でも、僕は身の周りのことを書こうと思う。

今年の1月。祖父が死んだ。
もうその生は、明らかに死に向かっていて驚きを周りのものに与えなかった。
でも、僕は余り容態を知らされていなくて寝耳に水だったのも確かだった。
何年か前、まだ体は健康でも、僕を孫だと認識していないみたいな時、言われた言葉がある。
「1年365日、新しいことを一日ずつ始めれば何かは残る」
僕は余りこの言葉は好きではない。そんな簡単に色んなこと始められないと思うからだ。
まあ、額面どおり受け止めすぎで、教訓としては素晴らしいかもしれない。そして、
「うたをうたっていればそれだけで平和だ」
実はこの言葉をひとりでも多くの人に伝えたくて、今日はここまで書いた。
平和という言葉に胡散臭さを感じる人は、「それだけで十分だ」にでも置き換えて下さい。
正直なとこ、どのような語句で祖父ちゃんがそれを語ったのかはっきりとしていないので。
しかし、伸びやかな歌声だけは今も、鮮明に柔らかに憶えている。

色々問題はある

2008-09-06 05:48:25 | Weblog
手を上げたのは僅か二人だった。
僕は、眠気と微かな高揚感を引きずりながら、その残り一人の女の子を一瞥した。
全然そんな風に見えないのに・・・。まあ、僕だって同じかもしれない。
それにしてもここまで興味ないのは驚いたな。先生は違うみたいだけど。
その前日、サッカー日本代表は初のワールドカップ出場を決めた。

中学生になった。サッカー部に入ろうかと思ったけど、それまで未経験だったし
先輩が一番恐そうだったのでやめた。見ているだけで満足だったというのもあった。
それに、全く異次元で行われているという怖れみたいのもあった。

1999年ワールドユース・ナイジェリア大会。
時差の関係で深夜から早朝にかけて試合は行われた。テレビに齧り付いて観戦した。
不思議なもので、例えば午前4時の試合開始だとすると、ぴったり5分前、
つまり3時55分にいつの間にか目は覚めていた。
日本代表は初戦こそ落としたものの、その後快進撃を続け結果的に準優勝に輝いた。
不思議な気持ちだった。これほどまでに強いなんて。そして自慢したくなった。
でも深夜4時からサッカーを見ている人は周りにはいない。そして、そのことで逆に優越感を持つことになった。

スポーツ全般が好きなのだけど、サッカーの何がそこまで僕を惹き付けたかというと正直言って分からない。
でもそれが、肉体を介して行われるもので、つまりは目に見えて推移が分かる。
それに、見ている側にとってはあくまで心理的なものだということ(使い方間っているかな)
結果が出た後、負け惜しみが言えるし、いっそ「この試合は見てなかった。というか、もう忘れた」
とか言えることができるし・・・。まあ、最低だけどね。
逆に、自分を取り巻く何もかもを忘れて、熱中することもできる。
あと、素晴らしいところ。やはりゴールだ。
以前とは変わってしまったという実感。
時間が進んでいるということを、ここまで具現化したものは無いのであろうか。
我々は過去には戻れない。しかし、まだ見ぬゴールを、未来を目指すことはできる。

追われるように

2008-09-04 04:26:49 | Weblog
散歩をしていて道を尋ねられることがある。
ごくたまにだけど、この町にも観光名所と呼ばれる所があって、
ああ、その場所なら今通ってきた道ですよと、
「交差点を右折して直進して、信号をさらに右折です」
とそつなくこなしたつもりでも、帰り道間違いに気付く。
相手は、僕と進行方向が逆な訳で右折は即ち左折じゃないかと。
とんでもないミスを犯してしまったなと。
そして、そういうことがよくある。
相手の視点に立つことができない。
そんな時、僕は帰り道、詰問を恐れるように早足で帰る。
追われるように。

一人でいるとある面では自分がわからなくなるのは当然のことで、
他者との関係性の中で、自分は発揮される。
何かを頼まれる。社会的要請を受ける。
その役割をこなすことで自らの素顔というものもおぼろげに見えてくるのではなかろうか。
他者から求められること。でも困ることもある。答えに窮してしまうことがある。
・・・そう恋だ。
人が何かを求めてくれることは分かるけど、その何かが分からない。
それは何かじゃなくてそのものかもしれない。
自分の何を見て何に惹かれたのだろう。
どのように姿は映っているのだろう。今まで何をしたっけ・・・
頭でっかちだ。嫌になる位自分の事しか考えていない。

「結局、自分にしか興味ないのね」

ああ、そのとおりさ、反論の余地も無いね。でも、俺も成長したよ。
これでも。周りから見ると退化してるとしかいえないとしてもだ。
だけど、役割なんて抜きにして遊びなんて抜きにして直接触れたかったんだ。
言葉を介在することで。それしかできなかったから。
ふー、いつか小説にでも(笑)書こうと思っていたことを吐き出してしまった。
でも、自分の中で何度も語られてきたことだし、それは今後も変わらないと思う。
まあ、こんな時間だし夜だし、いいか。
あとくれぐれも道案内する時は、相手の視点をイメージして指示してください。
極度の方向音痴より。