これでいいのだ。と精一杯の空元気を込めて呟いてみる。
少し捨て鉢な気分で、やけくそ気味で。
今こうしている自分を、肯定するしかないし(変化を求めているのなら
何がしかの行動をとっているだろう)こうやって生きているのだ。
他人のために何かしたいという気持ちはあれど、これがそうだというつもりはない。
余りにも高飛車じゃないか。誰かが読んでくれていると言うだけでいい。
誰にも知られず、生きていくということもあったんだから。
中学生の頃、村上龍の小説に嵌った。
その頃の僕は周囲の余りにも健全な環境のなかで、そういう考え方に飼いならされていて
隠蔽されている物のその先を見ようともしないで、想像力を少しも行使しなかった。
衝撃だった。
彼の小説は、猥雑で時に暴力的で、共感を求めなかった。
他人と関わることはどういうことか。
ある本のあとがきに(どの本かは失念・・)、小説を書くのは声にならない声を、
聴き取ることだ。他者の声を翻訳することだ。みたいなことを書いていた。
それで、僕は何度も「インザミソスープ」を読んでみる。
なんか、へなへなな文章だな。まあ、へなへなな人間が書いているんだし。
へなへなな真夜中に。
少し捨て鉢な気分で、やけくそ気味で。
今こうしている自分を、肯定するしかないし(変化を求めているのなら
何がしかの行動をとっているだろう)こうやって生きているのだ。
他人のために何かしたいという気持ちはあれど、これがそうだというつもりはない。
余りにも高飛車じゃないか。誰かが読んでくれていると言うだけでいい。
誰にも知られず、生きていくということもあったんだから。
中学生の頃、村上龍の小説に嵌った。
その頃の僕は周囲の余りにも健全な環境のなかで、そういう考え方に飼いならされていて
隠蔽されている物のその先を見ようともしないで、想像力を少しも行使しなかった。
衝撃だった。
彼の小説は、猥雑で時に暴力的で、共感を求めなかった。
他人と関わることはどういうことか。
ある本のあとがきに(どの本かは失念・・)、小説を書くのは声にならない声を、
聴き取ることだ。他者の声を翻訳することだ。みたいなことを書いていた。
それで、僕は何度も「インザミソスープ」を読んでみる。
なんか、へなへなな文章だな。まあ、へなへなな人間が書いているんだし。
へなへなな真夜中に。