日本会議唐津支部 事務局ブログ

日本会議は平成9年創立。唐津支部は平成24年に設立し、誇りある国づくりと豊かな唐津地域の発展をめざしています。

3月例会のようす 2/2

2015年03月16日 | 活動報告

老獪な伊藤博文

明治41年5月 度重なる統監府と一進会の背離に、一進会と統監府の距離を置こうと、宋秉は大臣職を辞することを決める。伊藤博文に呼び出された宋秉は伊藤から、政治改革の意見を聞かれ、能力中心の地方官登用を述べたため、政府内で、内務大臣に引き上げられ、大臣辞職の機を逸する。

暴発寸前の一進会

伊藤統監の懐柔に腹を立てた一進会地方幹部は李容九を立てて一進会内閣を樹てようと暴走し出す。内田良平が李容九を説得し、幹部個別に説得に回る。7月に入り内田良平と李容九は日本国内の機運醸成のため、日本に渡る。

・伊藤統監辞任

かねてより中央政界復帰を目指していた伊藤博文は統監辞任を画策していたが、政敵桂太郎によってそれは阻まれていた。明治42年2月辞任が受け入れられる。

宋秉の懲戒免職

明治42年(1909年)正月宋秉と内田は伊藤統監にそれぞれの職の辞職を願い出たが、留意されていた。2月伊藤と日本を訪れた宋秉は故意の失言で懲戒免職となる。直後の伊藤統監の辞任表明で、韓国国内は争乱が起きずにすむ。

曽禰荒助の統監就任

伊藤博文の後を受けて曽禰荒助が2代目韓国統監となる。かねてより一進会を疎んじていた曽禰だったが、杉山茂丸の裏工作で、桂太郎首相から釘を刺されて、対立は免れる。これを機に杉山茂丸は一進会の顧問となる。

桂太郎の思惑

桂太郎首相は明治42年7月6日の閣議で「適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スルコト」と決定する。これは桂の思想信条からではなく、政敵伊藤博文に対抗するための政争の策であった。杉山茂丸は桂の思惑を実現するため、一進会との繋がりを強くしていった。

・三派連合

明治42年9月 宮廷派李完用に対抗するため、反対勢力として一進会と、反日ではあるが西北学会、大韓協会は三派連合をつくる。三派連合内で合邦の気運が高まる。杉山茂丸は桂太郎に「やがて韓国の方から合邦を申し出てきましょう」と報告している。

合邦の理論

日本と韓国の力の差は歴然である。韓国が自ら進んで合邦するか、抗して併合されるかの道しかない。韓国として断じて玉砕は避けたい。

極秘会談

明治42年9月 伊藤博文宅にて伊藤を囲んで桂太郎と小村寿太郎の極秘会談があった。桂太郎は伊藤統監の3年半の成果が見えないことに迫り、伊藤に日韓併合しかないことを承諾させる。

伊藤博文暗殺

明治42年10月26日 伊藤博文は併合にあたり、外国からの苦情を事前に塞いでおくことを目的として、露西亞蔵相ココツオフと会うためハルピン駅に降り立つ。安重根の凶弾が伊藤博文公の命を奪った。午前10時過ぎに絶命。最後の言葉は「馬鹿な奴だ」

伊藤博文暗殺の影響

李容九は日本の報復で、合邦を併合にすり替えられることを危惧。明治42年11月内田良平、黒龍会幹部、宋秉は意見をすりあわせ、内田良平と武田範之で韓日合邦上奏文の作成に取りかかる。

韓日合邦建議書 遂に日韓併合

・韓日合邦建議書

明治42年12月4日、大韓帝国の政治団体である一進会が、皇帝純宗(じゅんそう)、韓国統監曾禰荒助(そねあらすけ)、首相李完用(りかんよう)に送った大韓帝国と日本の対等合併を要望する声明書。
上奏文と請願書を提出
上奏文(要約)「臣の辛い気持ちは解るが、大韓国は政府、二千万の同胞共に、今や生ける屍と同様である」

請願書「日本は日清戦争で・・・・・・韓国を独立させてくれた。また日露戦争では・・・・・・、韓国が露西亞の口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」

・建議書その後

明治43年2月(1910年) 桂太郎首相による建議書受諾の覚書。5月曽禰統監、事実上更迭。寺内正毅3代目韓国統監就任。7月15日寺内正毅統監赴任

・韓国併合ニ関スル条約

明治43年(1910年)8月22日締結。漢城府(現ソウル)で寺内正毅統監と李完用首相が調印し、29日に裁可公布して発効した。韓国皇帝が大韓帝国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する。

合邦と併合

合邦=二つ以上の国家を合併すること。併合=国際法上、国家が他の国家の領域のすべてを自国のものとすること

彼よりこれを先にすれば自ら名付けて併合となし、我よりこれを先にすれば、自ら称して合邦となす。その合や一つのみ。然れども合心の合は寇するに非ずして婚するなり。云々・・・(李容九が合邦上奏運動の際、一進会格道支部長に送った檄文より抜粋)

日韓併合その後

明治43年9月22日 一進会解散令。李容九は一進会解散翌日、肺結核の悪化により喀血、病床につく。明治45年(1912年)5月22日 療養先の兵庫県須磨で永眠する。 通夜は駆けつけた内田良平によって執り行われた。

日韓併合後②

宋秉:爵位授与、後に実業家転身 
大正15年没。
武田範之:爵位授与されるも授与式当日現れず、寺に戻る 喉頭癌で明治44年(1911年)没
曽禰荒助:合併後一ヶ月で病没
寺内正毅:合併後初代朝鮮総督となる。後に総理大臣に。

・内田良平その後

明治44年(1911年)の中華民国成立後は満蒙独立を唱えるが、大陸に渡ることはなく、東京での活動が主たるものとなる。日韓併合後の政府の対韓政策には批判的で、後に「同光会」を結成して韓国内政の独立を主張している。

まとめ・考察

相関図(スライド59)

民族主義と国家主義(スライド60)

考 察(大韓帝国側の視点)

・李氏朝鮮末期の政府や王族は、未だ事大主義から抜けきることが出来ず、日本を夷狄とする考えが根深かった

・民族主義的考えが主で、国家観が希薄であった

・西欧列強・大日本帝國の驚異と対峙する自立国家の形成が出来なかった

・民族の生き残りのために、自ら合邦を望むことで、少しでもその誇りを保つことに精一杯であった

・大東合邦論は理想主義であり、現実のパワーバランスの前では、絵に描いた餅にしか過ぎなかった

考 察(日本側からの視点)

日本人の朝鮮人に対する理解が、日韓併合を必須なるものとした

内田良平は大東合邦を真剣に夢見ていたが、結局は政策の具として利用されてしまった

日清日露で戦勝した日本は国際社会の中で認められる立場にあったが、日韓併合に関しては慎重に事を進めていったのが成功の因であった。

~以上、藤原講師の提示資料~

 講話後、いつものように活発な意見交換、会後の懇親会と続きましたが内容は略します。

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