美貴ちゃんの下北半島の横浜の昔の事、
下北半島と言えば、恐山・大間港のマグロ・むつの原発等が思い起こされるが、
忘れてはならないのが斗南藩で有った時期が有る。
幕末の混乱期に京都守護職として朝廷を警護し、その職務を果たしていたにもかかわらず
徳川幕府軍の一員として「錦の御旗」を冠する討幕軍と悲壮な戦をした会津藩。
皇室に対するあつい忠節の念が強かったにもかかわらず、薩摩・長州を中心とする官軍から逆賊の汚名を着せられ
二十三万石の領地没収となった会津藩。
その後、下北半島の地に斗南藩三万石として藩の再興がなり、
新しい藩名は「斗南」を命名、旧藩士と家族1万7千人余りが移住、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地。
斗南藩大参事山川浩、少参事広沢安任・永岡久茂らは農業施策を展開するが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず飢えと寒さで病死者が続出、蒸発する者も出た。しかし山川ら会津人は挫けず、斗南ヶ丘建設に始まる原野の開墾政策、斗南日新館による教育・人材育成に務めた。
明治4年、新政府は廃藩置県を実施、斗南藩も斗南県となり、藩知事だった松平容大も東京へ移住となった。
山川らは斗南県の将来のため、財力のある弘前県との合併運動を進め、周辺五県が合併し青森県となった。
しかし藩が消滅、藩主も失った不毛な斗南の地に希望を持てない会津人の多くがこれを機に全国に散って行ったために、軌道にのりかけた斗南藩の農業政策は瓦解した。
なかには旧斗南藩に留まり農業を続けた島影家、我が国初の洋式牧場を開設した広沢安任のような人物もいる。
皇室に最も篤忠誠心が有り、徳川家を宗家として忠節を尽くした会津松平家、
言われなき賊軍と言われ、敗軍となれば、致し方なく、その後の広大な大地、下北の地に新天地を求めて移住した。
その後の塗炭の苦しみは目を覆うものが有る。
今は静かな佇まいの中に当時を偲ぶものは数少ないが、えも言えぬ郷愁を覚えた。
領内の開拓拠点となることを夢見た開墾地がむつ市の東に広がる丘陵地帯で、藩名から「斗南ケ丘」と名づけました。
「斗南藩史跡地」は藩士たちのその大いなる夢を静かなたたずまいの中にひっそりと残しています
戊辰戦争後、新政府により藩主松平容保と全家臣が東京や越後高田で謹慎の身となった。
明治2年、版籍奉還が行われる中、会津松平家は再興を許されたが、領地として旧領内の猪苗代湖畔もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。その際「農業により領地の財政基盤を築け」との条件があったため、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。
新しい藩名は「斗南」と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住したが、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。斗南藩大参事山川浩、少参事広沢安任・永岡久茂らは農業施策を展開するが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず飢えと寒さで病死者が続出、蒸発するものもあった。しかし山川ら会津人は挫けず、斗南ヶ丘建設に始まる原野の開墾政策、斗南日新館による教育・人材育成に務めた。 明治4年、新政府は廃藩置県を実施、斗南藩も斗南県となり、藩知事だった松平容大も東京へ移住となった。山川らは斗南県の将来のため、財力のある弘前県との合併運動を進め、周辺五県が合併し青森県となった。しかし藩が消滅、藩主も失った不毛な斗南の地に希望を持てない会津人の多くがこれを機に全国に散って行ったために、軌道にのりかけた斗南藩の農業政策は瓦解した。
なかには旧斗南藩に留まり農業を続けた島影家、我が国初の洋式牧場を開設した広沢安任のような人物もいる。
さて釣り師として大間のマグロは一度は釣りたい。
津軽海峡冬景色の中、
下北半島と言えば、恐山・大間港のマグロ・むつの原発等が思い起こされるが、
忘れてはならないのが斗南藩で有った時期が有る。
幕末の混乱期に京都守護職として朝廷を警護し、その職務を果たしていたにもかかわらず
徳川幕府軍の一員として「錦の御旗」を冠する討幕軍と悲壮な戦をした会津藩。
皇室に対するあつい忠節の念が強かったにもかかわらず、薩摩・長州を中心とする官軍から逆賊の汚名を着せられ
二十三万石の領地没収となった会津藩。
その後、下北半島の地に斗南藩三万石として藩の再興がなり、
新しい藩名は「斗南」を命名、旧藩士と家族1万7千人余りが移住、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地。
斗南藩大参事山川浩、少参事広沢安任・永岡久茂らは農業施策を展開するが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず飢えと寒さで病死者が続出、蒸発する者も出た。しかし山川ら会津人は挫けず、斗南ヶ丘建設に始まる原野の開墾政策、斗南日新館による教育・人材育成に務めた。
明治4年、新政府は廃藩置県を実施、斗南藩も斗南県となり、藩知事だった松平容大も東京へ移住となった。
山川らは斗南県の将来のため、財力のある弘前県との合併運動を進め、周辺五県が合併し青森県となった。
しかし藩が消滅、藩主も失った不毛な斗南の地に希望を持てない会津人の多くがこれを機に全国に散って行ったために、軌道にのりかけた斗南藩の農業政策は瓦解した。
なかには旧斗南藩に留まり農業を続けた島影家、我が国初の洋式牧場を開設した広沢安任のような人物もいる。
皇室に最も篤忠誠心が有り、徳川家を宗家として忠節を尽くした会津松平家、
言われなき賊軍と言われ、敗軍となれば、致し方なく、その後の広大な大地、下北の地に新天地を求めて移住した。
その後の塗炭の苦しみは目を覆うものが有る。
今は静かな佇まいの中に当時を偲ぶものは数少ないが、えも言えぬ郷愁を覚えた。
領内の開拓拠点となることを夢見た開墾地がむつ市の東に広がる丘陵地帯で、藩名から「斗南ケ丘」と名づけました。
「斗南藩史跡地」は藩士たちのその大いなる夢を静かなたたずまいの中にひっそりと残しています
戊辰戦争後、新政府により藩主松平容保と全家臣が東京や越後高田で謹慎の身となった。
明治2年、版籍奉還が行われる中、会津松平家は再興を許されたが、領地として旧領内の猪苗代湖畔もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。その際「農業により領地の財政基盤を築け」との条件があったため、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。
新しい藩名は「斗南」と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住したが、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。斗南藩大参事山川浩、少参事広沢安任・永岡久茂らは農業施策を展開するが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず飢えと寒さで病死者が続出、蒸発するものもあった。しかし山川ら会津人は挫けず、斗南ヶ丘建設に始まる原野の開墾政策、斗南日新館による教育・人材育成に務めた。 明治4年、新政府は廃藩置県を実施、斗南藩も斗南県となり、藩知事だった松平容大も東京へ移住となった。山川らは斗南県の将来のため、財力のある弘前県との合併運動を進め、周辺五県が合併し青森県となった。しかし藩が消滅、藩主も失った不毛な斗南の地に希望を持てない会津人の多くがこれを機に全国に散って行ったために、軌道にのりかけた斗南藩の農業政策は瓦解した。
なかには旧斗南藩に留まり農業を続けた島影家、我が国初の洋式牧場を開設した広沢安任のような人物もいる。
さて釣り師として大間のマグロは一度は釣りたい。
津軽海峡冬景色の中、