兄弟は、長女、長男、二男、二女、
そして三男の私、5人だった。
長女の姉は、認知症で5年程ケア施設で暮らし、
昨年9月95歳で逝去した。
そして・・・・。
先週末のこと。
前夜に、飲食店を営む二男の兄から電話があった。
「初めて聞いて、ビックリしたばかりだけど、
兄ちゃん(長男のこと)が入院して、危ないんだってよ。
あと5,6日かも知れないって!」。
全てが不意の知らせだった。
兄ちゃんの息子(M朗)からの電話連絡だったようだが、
どんな様子なのか兄(二男)も見当がつかないらしい。
「明日、見舞いに行こう!
苫小牧まで俺の車で・・・。」
私の提案に、
「それが、コロナで見舞いはダメなんだって。」
「そうか・・・、コロナ・・か!」。
次の朝、8時頃だった。
そんな時間に鳴る電話に、
「まさか」と緊張が走り、受話器を握った。
「あの・・、M朗です。今朝、父が・・」。
必死に言葉を探した。
急ぎ釧路から車で、苫小牧へ向かっている途中だと言う。
「運転に気をつけて・・・。」
それが、精一杯だった。
兄ちゃんとは、12歳も離れていた。
私とは違い、無口で物静かだった。
「兄ちゃんは勉強ができたのよ。
小さい頃は買ってもらったおもちゃを分解し、
それを1人でまた組み立てて遊ぶのが好きな子だったよ。」
母が言っていた記憶がある。
高校を出てから、3年程就職に苦労した。
職場でいじめにあったり、
慣れない工事現場の作業で大怪我をしたりした。
ところが、友だちが勤務する高校の事務職に、
臨時募集があり、そこに採用になった。
その後は、彼の努力だろう。
いつごろからか、北海道の正規公務員になった。
私が大学生になると、
兄ちゃんは、札幌にあるあの赤レンガの北海道庁に勤務していた。
一度だけ、夕食でも一緒にと誘われ、
道庁の正面玄関で待ち合わせた。
玄関ホールまでの広い階段を、
背広にネクタイ姿で兄ちゃんが降りてきた。
その後、道庁前の明るいレストランに入った。
メニューを見ても、訳が分からず、
「何でもいい」と言う私の前で、
兄ちゃんは、慣れた言い方で注文をした。
以前とは大きく違う兄ちゃんに戸惑い、
でも、やけにまぶしく見えた。
その後、私は東京の小学校に勤務し、
兄ちゃんとは冠婚葬祭の機会に会うだけになった。
兄弟の前では、相変わらず口数が少なかった。
長いこと道庁で勤務し、
その後は道東方面の高校で事務長をし、
退職を迎えた。
兄ちゃんの奥さん(義姉)は、苫小牧育ちだった。
親戚の多くが苫小牧にいた。
だからかどうか。
兄ちゃんは、退職後を苫小牧で暮らし始めた。
私が、その兄ちゃん宅を訪ねたのは、
わずかに1回だけだった。
その兄ちゃんが、急逝した。
知らせがあった午後、
病院から自宅に戻った兄ちゃんと対面した。
丁度、同じマンションのお隣さん親子が、
お悔やみに来ていた。
小学5,6年生らしい娘さんが、
何度も涙をふきながら、
兄ちゃんへ手を合わせてくれた。
「この子、小さい頃からかわいがってもらっていたから」。
お隣の奥さんが、兄ちゃんの2人の息子へ話しているのを聞きながら、
私は、やや離れたところで、
やっとの思いで、悲しみをこらえていた。
その時、兄ちゃんの穏やかな暮らしぶりが、
垣間見えた。
そして、死を惜しんでくれている方を目の当たりして、
ようやく兄ちゃんの死を、私は受け止めることができた。
涙が込み上げた。
葬儀は、次の日通夜、そして翌々日に告別式と進んだ。
コロナ禍とあって、家族葬だった。
なのに、予想以上に多くの方が席についていた。
私の一家は、兄(二男)姉(二女)と私に家内、
それと甥の4人だけだが、
義姉の親戚縁者が、20人以上も顔を揃えていた。
賑やかな葬儀にしてもらった。
兄ちゃんは退職後の生活を苫小牧にして、
よかったんだと、実感した。
さて、3日間とも、苫小牧の往復は私の車で、
兄姉と一緒だった。
「次は、俺の番だ。」
兄は、車内で何度も言った。
「兄ちゃんと同じなら、あと3年しかない。
ショックだ。」
とも、くり返した。
そんな兄の不安を聞きながら、
私は自分の最期を想像してみた。
兄ちゃんのように
賑やかな家族葬にはならないだろう。
兄は10歳上、姉は6歳上である。
きっと二人を私が見送ることになるだろう。
家内も私が見送るとすでに約束済みだ。
私の時は、2人の息子はいるだろう。
きっと2人に、私は見送られるのだ。
「それでいい!。
いや、今のうちに・・・。
そうだ! 生前葬はどうだろう!」
それより、私にも終わりが迫っている。
明らかに、限られた人生なのだ。
残された時間をどう過ごすか。
宝塚ジェンヌの真似じゃないが、
『清く、正しく、美しく』生きたいと思う。
兄ちゃんのような、
寡黙な穏やかさは持ち合わせていない。
その変わり「私なりの正義は貫きたい!」。
兄ちゃんの棺へ菊の花をいっぱい入れながら、
その想いを確かめた。
合 掌
春まで もう少し
そして三男の私、5人だった。
長女の姉は、認知症で5年程ケア施設で暮らし、
昨年9月95歳で逝去した。
そして・・・・。
先週末のこと。
前夜に、飲食店を営む二男の兄から電話があった。
「初めて聞いて、ビックリしたばかりだけど、
兄ちゃん(長男のこと)が入院して、危ないんだってよ。
あと5,6日かも知れないって!」。
全てが不意の知らせだった。
兄ちゃんの息子(M朗)からの電話連絡だったようだが、
どんな様子なのか兄(二男)も見当がつかないらしい。
「明日、見舞いに行こう!
苫小牧まで俺の車で・・・。」
私の提案に、
「それが、コロナで見舞いはダメなんだって。」
「そうか・・・、コロナ・・か!」。
次の朝、8時頃だった。
そんな時間に鳴る電話に、
「まさか」と緊張が走り、受話器を握った。
「あの・・、M朗です。今朝、父が・・」。
必死に言葉を探した。
急ぎ釧路から車で、苫小牧へ向かっている途中だと言う。
「運転に気をつけて・・・。」
それが、精一杯だった。
兄ちゃんとは、12歳も離れていた。
私とは違い、無口で物静かだった。
「兄ちゃんは勉強ができたのよ。
小さい頃は買ってもらったおもちゃを分解し、
それを1人でまた組み立てて遊ぶのが好きな子だったよ。」
母が言っていた記憶がある。
高校を出てから、3年程就職に苦労した。
職場でいじめにあったり、
慣れない工事現場の作業で大怪我をしたりした。
ところが、友だちが勤務する高校の事務職に、
臨時募集があり、そこに採用になった。
その後は、彼の努力だろう。
いつごろからか、北海道の正規公務員になった。
私が大学生になると、
兄ちゃんは、札幌にあるあの赤レンガの北海道庁に勤務していた。
一度だけ、夕食でも一緒にと誘われ、
道庁の正面玄関で待ち合わせた。
玄関ホールまでの広い階段を、
背広にネクタイ姿で兄ちゃんが降りてきた。
その後、道庁前の明るいレストランに入った。
メニューを見ても、訳が分からず、
「何でもいい」と言う私の前で、
兄ちゃんは、慣れた言い方で注文をした。
以前とは大きく違う兄ちゃんに戸惑い、
でも、やけにまぶしく見えた。
その後、私は東京の小学校に勤務し、
兄ちゃんとは冠婚葬祭の機会に会うだけになった。
兄弟の前では、相変わらず口数が少なかった。
長いこと道庁で勤務し、
その後は道東方面の高校で事務長をし、
退職を迎えた。
兄ちゃんの奥さん(義姉)は、苫小牧育ちだった。
親戚の多くが苫小牧にいた。
だからかどうか。
兄ちゃんは、退職後を苫小牧で暮らし始めた。
私が、その兄ちゃん宅を訪ねたのは、
わずかに1回だけだった。
その兄ちゃんが、急逝した。
知らせがあった午後、
病院から自宅に戻った兄ちゃんと対面した。
丁度、同じマンションのお隣さん親子が、
お悔やみに来ていた。
小学5,6年生らしい娘さんが、
何度も涙をふきながら、
兄ちゃんへ手を合わせてくれた。
「この子、小さい頃からかわいがってもらっていたから」。
お隣の奥さんが、兄ちゃんの2人の息子へ話しているのを聞きながら、
私は、やや離れたところで、
やっとの思いで、悲しみをこらえていた。
その時、兄ちゃんの穏やかな暮らしぶりが、
垣間見えた。
そして、死を惜しんでくれている方を目の当たりして、
ようやく兄ちゃんの死を、私は受け止めることができた。
涙が込み上げた。
葬儀は、次の日通夜、そして翌々日に告別式と進んだ。
コロナ禍とあって、家族葬だった。
なのに、予想以上に多くの方が席についていた。
私の一家は、兄(二男)姉(二女)と私に家内、
それと甥の4人だけだが、
義姉の親戚縁者が、20人以上も顔を揃えていた。
賑やかな葬儀にしてもらった。
兄ちゃんは退職後の生活を苫小牧にして、
よかったんだと、実感した。
さて、3日間とも、苫小牧の往復は私の車で、
兄姉と一緒だった。
「次は、俺の番だ。」
兄は、車内で何度も言った。
「兄ちゃんと同じなら、あと3年しかない。
ショックだ。」
とも、くり返した。
そんな兄の不安を聞きながら、
私は自分の最期を想像してみた。
兄ちゃんのように
賑やかな家族葬にはならないだろう。
兄は10歳上、姉は6歳上である。
きっと二人を私が見送ることになるだろう。
家内も私が見送るとすでに約束済みだ。
私の時は、2人の息子はいるだろう。
きっと2人に、私は見送られるのだ。
「それでいい!。
いや、今のうちに・・・。
そうだ! 生前葬はどうだろう!」
それより、私にも終わりが迫っている。
明らかに、限られた人生なのだ。
残された時間をどう過ごすか。
宝塚ジェンヌの真似じゃないが、
『清く、正しく、美しく』生きたいと思う。
兄ちゃんのような、
寡黙な穏やかさは持ち合わせていない。
その変わり「私なりの正義は貫きたい!」。
兄ちゃんの棺へ菊の花をいっぱい入れながら、
その想いを確かめた。
合 掌
春まで もう少し
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます