ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

稚拙なエールだが 

2019-10-19 19:48:47 | 教育
 2ヶ月ほど前になるが、
東京都小学校児童文化研究会からたて続けに2つ、
原稿依頼が飛び込んできた。

 1つは、研究会の創立60周年記念誌へのお祝い文、
もう1つは、2月に開催される全国並びに東京都の
児童文化研究大会紀要への特別寄稿だ。

 研究会へは、久しぶりの執筆である。
あれこれと想いをめぐらせながら、
文字数制限内にまとめた。
 
 まだ早いと思いつつも、
その原稿をブログに載せることにした。

 私が書いたものが、どれだけのものか。
たかが知れている。
 でも、1日でも早く、後輩たちへ届けたい。
そこには、某小学校のあきれた蛮行への怒りがある。
 
 多忙を極めながらも、情熱を持ち続ける大多数の先生たち、
決してうつむかず、子どもに寄り添いながら、
あなたの歩みを、進めてほしい。

 以下、稚拙だが私からのエールのつもり・・。


 ① 60周年記念誌へ掲載文から

    60年に思いを馳せ

 昭和35年3月、本研究会は産声を上げました。
それから60年です。
 今日まで歩みをつないできた多くの方々と共に、
喜びを分かち合いたいと思います。

 さて、60年前にさかのぼります。
その年、私は北海道の田舎町、そこの小学5年生でした。
 「東京の偉い先生が、口演童話をしてくださる。」とのことで、
私たちは体育館に集められました。

 「東京の偉い先生」と聞いただけで驚き、
私は背筋をすっと伸ばして椅子の前の方に座り、
そのお話を聞きました。

 時に笑い、時にワクワクしながら、時間が過ぎました。
そして、最後にその先生は、私の心にある言葉を残してくれました。

 『人間、世のため人のために働くこと』。
それは、消防士のお父さんが幼い我が子に語ったものでした。

 初めて口演童話を聞いた60年前のことです。
なのに、それからずっとその言葉は、私に生き続けてきました。

 私の体験が、全てを語っているとは思いません。
でも、きっとそんなことが、私のように心を揺り動かし、
生きる力になっている方は少なくないと思うのです。

 だから、口演童話に限らず、
本研究会が提唱する数々の児童文化手法が、
今日も学校教育の場に受け入れられ、
脈々と力を発揮しているのではないでしょうか。

 60周年の節目にあたり、一少年の原画を記し、
応援歌とします。


 ② 第56回東京都児童文化研究大会紀要の寄稿から 

       児童文化手法とは

 本研究会の童話部に所属し、長年授業実践を重ねてきた先生が、
5年生道徳の授業をした。

 当然、初めの展開は、素話だ。
その日の子どもを念頭に吟味した話題を、
心のこもった口調で先生は語った。
 授業を見せてもらっていた私も、
子どもと一緒の気持ちになり、その語りに聞き入った。
 その後授業は、盛り上がり活気があった。
途中には白熱した話し合いの場面も・・・。

 その授業の終わりに、
「今日の道徳の時間はどうでした?」。
 先生は感想を求めた。
色々な意見が出された。
 充実した授業だったことを証明するかのように、
その多くは、授業を通しての道徳的気づきだった。
 それで、十分だ。

 ところが、「ボクも言いたい」。
声を張り上げた子がいた。
 指名を待ちきれず、勢いよく立ち上がりひとこと言った。
「ボクのために、先生が話してくれていたから、楽しかった」。

 「これだ!」。
私は、大きくメモした。
 素話は、子どもの反応を察知しながら、
一人一人の目を見て話す。
 その語りが、『ボクのために』と彼は受け取ったのだ。

 今回、私に頂いた寄稿依頼『児童文化手法とは』の回答は、
上記の一事で十分に示すことができると思う。

 しかし、類似したことは、素話に限らない。
全ての手法を列記する紙面がない。もう1つだけ・・。

 明日の授業を思い浮かべ、放課後の教室で準備を始める。
子どもが目をひきそうな人や動物、
背景を次々とデザインしたり選択したりする。
 そして着色と切り抜き。

 明日、子どもに伝えたい内容を練りながら、
それをパネル上で操作してみる。
 時間に追われながら、くり返しアイディアを絞り出す。
時には、新たなキャラクターを追加制作することも。

 そして翌日、
デジタル化した巧みであざやかな映像の対極とも言えるアナログ的手法で、
授業は始まる。

 先生が手作りした人や動物、山、木々が登場する。
そして、その1つ1つを張ったりはがしたりしながら、
先生の生の声が追う。
 パネルシアターが展開していく。

 子どもは、時に直感を働かせ、時に想像を膨らませながら、
白いパネルの上で進むストーリーを受け止めようと、
まなざしを輝かせる。

 3Ⅾ映像のような説明はできない。
しかし、子どもの思い描く力が、しっかりと補ってくれる。
 やがて表情が緩む。
それがいい。それが楽しいのだ。

 ゆったりとした空気、親近感が漂う。
パネルに張り付いた動物たち、そのギクシャクとした動き、
補足する先生の言動、見入る子ども。
 次第に教室中に親和的雰囲気が作り出されていく。

 さて、時代はPCからAIの時代へと移行している。
便利さの追求が、遂に日々の『冷暖』さえも追い越して行こうとしている。
 「時代に乗り遅れてはいけない」。
学校教育もついついそう焦ってしまう。
 私も同様傾向にあるが、立ち止まろう。

 実は、『ぼく(わたし)のため』と感じるような、
子どもに寄り添った温もりのある授業が、
強く求められている時代だと思えてならない。
 『児童文化手法とは』、それを実現するものと言いたい。





   朝日を受けた 私の町と噴火湾 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 71歳の 新秋 | トップ | 深 ま り ゆ く 秋 に »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

教育」カテゴリの最新記事