ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

背中を押してもらって

2016-02-05 22:05:24 | 感謝
 教職の道へ進むようにと
私の背中を押してくれた人たちがいた。
 すべては、高校3年のときのことだ。


 ● 中学3年で担任をして頂いたM先生は、
このブログに2度登場した。
 1度目は、昨年4月「『初めての岐路』から」で、
2度目は同年6月「夏祭りの日に」であった。
 私を形づくってくださった、まさに恩師である。

 だから、中学校を卒業し高校生になってからも、
しばしば級友たちと先生を訪ねた。

 当時は、まだ男の先生方に宿直という制度があった。
どのくらいの頻度なのかは分からないが、
学校に泊まり、校舎等の管理をしていた。
 その宿直の日に、学校へ行った。
夜6時頃から8時過ぎまで、
男女6,7人で3ヶ月に1回程度だったと思う。
 いつもその日が待ち遠しかった。

 応接室だったのか、
クッションのきいた革張りの長椅子がある部屋で、
先生を囲んだ。

 先生は、毎回、何か一つ話題を提供し、私たちに意見を求めた。
 ここ1、2年、年末の紅白歌合戦で美輪明宏が熱唱する、
『ヨイトマケの唄』を初めて知ったのも、その時の先生の話からだった。

 炭鉱町でいじめを受ける子と母の姿、
そして、真っ黒になった手足を温めあう男女の話を聞いた。
 まだウブだった私には、強い刺激だけが残った。
今も、脳裏にその衝撃がある。

 高校3年の秋口、先生の宿直が来た。
久しぶりに参加する仲間もいて、ウキウキしていた。

 先生から、進路のことを訊かれた。
それぞれ思い描いているこれからの道を短く話した。
 先生は、一人一人の言葉にうなずき、
明るい表情で「そうか、頑張れ。」と励ました。

 当時、私は生徒会の活動に夢中だった。
学校祭や体育祭の企画と運営の中心になり、
それを一つ一つ成功させることに、
充実感を覚えていた。

 授業が終わるのを待ち望み、放課後と同時に生徒会室に走った。
各役員と打ち合わせをしながら、、
夜遅くまでワイワイガヤガヤと飛び回っていた。

 だから、あの夜、卒業後の進路を問われても、
返事を持っていなかった。。
 私の順になった。先生の笑顔に、
「まだ、何にも考えていません。」
と、正直に小声で言った。そして、
「それより、生徒会が楽しくて。」
と、付け加えた。
「そうか、頑張れ。」
と、他の子と同じ言葉を先生は返してくれた。

 先々を見ていない自分が少し恥ずかしかった。
でも、さほど気にもかけず、その場にいた。

 いつものごとく、楽しい時間は瞬時に過ぎ、
先生は、学校の玄関まで私たちを見送ってくれた。
 別れ際、私一人、先生に呼び止められた。

「将来のことを考えるのは大切なことだよ。よく考えてごらん。
どうだ、一緒に先生をやる気はないか。面白い仕事だぞ。」
先生は私の肩をたたいた。

 思ってみなかった。
その時、どう返事したか覚えがない。
 帰りの道々、
 「一緒に先生を」の声が、
グルグル、グルグルと私の周りを回っていた。

 「M先生と同じ仕事。」
それは、夢のまた夢よりも遠いことだったが、
嬉しかった。

 その時、「先生に」という思いが、少しだけ形になった。


 ● 親友の一人が、大学受験をあきらめ、
東京で就職すると言い出した。
 裕福な家庭だったので、当然私立大でも行くと思っていた。

 なのに突然の変身だった。その心境を深刻に語ってくれた。
私など想いも至らない動機の数々に、大きな衝撃と刺激を受けた。
 「お前も、将来のことをしっかりと考えろ。」
と、言われているように思った。

 5人兄弟の末っ子の私。
貧しい家庭だったが、ただ一人わがままに育った。
だから、何事にも楽観的だった。
 そんな私でも、親友の転身は、
今後を考える大きな切っ掛けとなった。

 「何がしたい。」、「どんな生き方をする。」、「目標は何だ。」。
考えたこともないことばかりだった。
 もう初雪が舞う季節だった。
明確な答えが見つからなかった。
 私は、次第に追い詰められていた。

 そんなある日、偶然だったが、
生徒会役員と生徒会新聞部という関係で、
よく取材を受けていた、後輩の女子と帰り道が一緒になった。

 彼女は、私が利用する次のバス停で降りる。
すでに薄暗くなっていることを理由に、
「自宅近くまで送る」と、申し出た。

 バスを降りると、ボタン雪が静かに落ちていた。
初めて、肩を並べて歩いた。
 彼女から、卒業後のことを訊かれた。
「考えがない。」とは言えなかった。
 その場を取りつくろうと、親友の進路変更のことを言った。
そして、M先生から肩をたたかれたことを話した。

 その時、急に彼女が立ち止まった。
「きっと、いい先生になると思います。勉強、頑張ってください。」
「あっ、ありがとう。」
それが精一杯だった。体が熱くなった。

 自宅近く、彼女の小走りの後ろ姿を見送った。
音もなく降り積もる雪道。
「いい先生」が、何度も何度もこだました。
 誰も見ていない街灯の下で、
私は、チョットだけ胸を張った。


 ● それは、日曜日の朝のことだ。
 市場が休みのため、父も兄も、
いつもより遅い朝食をとっていた。
当然、母もいたようだ。
 私は寝坊を決め込み、
押し入れを改造した2段ベットで、布団に潜り込んでいた。
 聞くとはなく二人の会話が届いた。狭い家だった。

 「俺は、中学しか出ていない。それで、いやな思いもしてきた。
だから、せめて高校だけは出してやりたかった。
だけどね、大学なんて……。これから、どれだけお金がかかるんだ。」

 「じゃ、お前は、反対なんだなあ。」
「高校卒業したら、働いて、少しでも家にお金を入れてもらいたいよ。」
「まあ、そうなると助かるなあ。」

 「おやじは、どう思っているんだ。」
「… … …。」
「遠慮しないで、言ってくれよ。」
「そうか……」
 私は、布団の中でかたずを飲んで聞いた。

 実は、前日の夕食時、私は家族全員を前に、
大学進学の希望を口にした。
 「国立の教育大学に行って、その後は学校の先生になりたい。」
と胸張った。
「今からでも遅くない。必死に勉強する。」
と、無謀だが、強い決心を伝えた。
 国立大学受験まで、3ヶ月余りを残していた。

 当時、我が家は、父と10才年上の兄が共同で、
生鮮食品の行商をしていた。
 父は、兄という大きな片腕に助けられていた。

 そんな父が、兄に言った。
「俺の勝手で、みんなには迷惑をかけ、こんな貧しい暮らしをさせている。
お前にも、苦労をさせ、すまない。
 俺は、尋常小学校さえ卒業できなかった。だから、悔しい気持ちはよく分かる。
だけど、勝手はよくよく承知で言うが、せめて自分の子どもの一人だけでも、
できることなら、日本の最高学府まで行かせたいと思っているんだ。」

 その後も、父の話は続いていた。
しかし、それ以上、私は聞くことができなかった。
 布団を深々とかぶり、動けなかった。

 世話になっていることを顧みず、
思いつきのような夢を言い出した自分。
 父にも兄にも、辛い思いを口にさせた。

 悔いで心がいっぱいになった。
軽薄な自分を、責めても責めてもきりがなかった。

 はれた目を、気づかれたくなかった。
誰とも、口をききたくなかった。
 数日が過ぎた。

 学校から戻ると、兄がトラックに私の机やふとんを積み込んでいた。
「大学に合格するのは大変だ。
狭い部屋だけど、探しておいた。
 今日からそこで勉強しろ。」

 突然のことだった。
 暖房ストーブもついた4畳半を借りてくれた。
 「いいか。父さんの夢なんだ。
絶対に合格しろ。大学に行け。金は心配するな。」
 トラックで、私を運びながら、兄はそう言った。
 大きな涙が一粒、私のズボンを濡らした。

 我が家から、徒歩10分。老夫婦が暮らす2階の一室。
私は、学校からすぐにその部屋に直行した。
夕食だけは自宅に戻り、再び部屋で机に向かった。
 寝る時間を削った。
 朝は、前日作ってくれた母のお握りを食べた。

 一人の寂しさや不安は、
これも兄が用意してくれたトランジスターラジオから流れる、
森山良子の『この広い野原いっぱい』が癒やしてくれた。





    寒風の中 エゾリスの朝食 

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