ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

68歳の 夏畑から秋雲

2016-12-09 22:09:12 | ジョギング
 5月20日、27日のブログで、『68歳の惜春』と題し、
『第42回洞爺湖マラソン2016』で、
フルマラソンに初挑戦した模様を記した。

 5時間13分でゴールした後、私は、
「この年令にしてこんな機会に出会えたこと、
挑戦できる強い体であったこと、
様々な人たちの励ましに恵まれたこと、
その全ての幸せが、
私をここまで連れて来てくれた。」
と、胸を熱くした。
 そして、数日、経験したことのない達成感に包まれた。
 
 さて、その後であるが、
6月は道南の八雲町で、9月は道北の旭川市で、
11月は東京の江東区で、ハーフマラソンに挑戦した。


 1、6月の八雲町

 北の大自然は、もの凄い足取りで、
新緑から草花が謳歌する時へと移っていく。

 特に6月の伊達は、アヤメが綺麗。
家々の庭を陣取る紫色も、道端にすっくと立つ黄色も、
そして公園で群れるビロード色も。
 「私だけでは勿体ない!」
その鮮やかさを、誰かに教えてあげたい。
 そんな衝動に、襲われる。
畑も、トウモロコシの茎がすっくと並び、
ビートの緑も、力を持ち始めるのだ。

 そんな躍動の時、私は昨年同様、
八雲の陸上競技場に立った。

 逃げ出したい心境でいた1年前のスタートとは違い、
まわりの人々に、目をやりながら号砲を待つ。

 この大会には、アットホームな雰囲気があった。
昨年、走り終えると、競技場の芝生席で、
弁当を広げる人たちの多さに驚いた。
 今年は、家内におにぎりをリクエストし、持参した。

 参加者300人少々。でも、健脚ぞろいだ。
 スタート前の熱気がすごい。
そのエネルギーに気おされて、最後尾から着いていく。

 案の定、声援は2キロも行かないうちに、
牛だけになる。
 周りにいたランナーもばらけ、私は一人旅。
1キロごとにいる大会スタッフに、
軽く手を挙げ、また1キロ。

 昨年よりもコースのアップダウンが厳しく感じる。
気のせいと言い聞かせ、14キロを通過。

 沿道の家内から、「少し遅いよ。」と激が飛ぶ。
目が覚めた。一歩一歩に力を込める。

 残り2キロの直線コース。
昨年は歩きたい衝動と戦っていた。、
 スイスイと足が出た。
成長していると思え、明るくなる。

 ゴール後、おにぎりが待っていた。
きっと、ここは年に1,2度の賑わいだろう。
 応援席のあちこちから、
走り終えた明るい声が、飛び交う。

 密かに設定していたタイムには届かなかった。
それでも、この場にいることが嬉しかった。

 ミルクロードと緑、
そして、疲れた足を投げ出してのおにぎり、
格別だった。
 大空で、ひばりが一羽、忙しくさえずっていた。


 2、9月の旭川市

 お盆が過ぎてから、北海道は4つの台風に見舞われた。
その度に、農作物が大きな打撃を受けた。

 東京暮らしとは違い、今はすぐそこの田畑で、
農家さんがトラクターを動かし、
腰を屈め、汗する姿を見ている。
 だからだろう、
ニュースから流れる被害農家さんの声に、
ひと際、胸がつまった。

 「台風だもの、しょうがないしょ。
でも、来年がどうなるか。がんばるだけ。」

 さらに、最後の台風10号は、伊達をも大きく変えた。
深夜強い風が吹いた。
 樹齢百数十年と言う大木を、何本も根こそぎなぎ倒した。
 
 散策路は閉鎖になり、
ゴルフ場では、百本以上の倒木を見た。
 太い木が縦に裂け、生の木肌が露出していた。
歴史の重みを無視する、自然の非情さを痛感した。
 恵みとは裏腹な自然の脅威を、
目の当たりにし、私は混乱した。

 そんな夏の出来事から、4週間後。
私は、旭川の花咲陸上競技場にいた。
 異常気象は、ここにもあった。

 旭川は、もう秋が始まっていていい。
なのに、この日は快晴の上、
気温がどんどん上昇した。真夏のようだった。

 しかし、私の体調は万全、自信があった。
自己記録の更新をと、意気込んでいた。

 走り始めて2キロを過ぎた辺りだったろうか、
手首と手首を紐で結んだランナーがいた。
 視覚障害の方と伴走者だ。

 私は、2人を追い抜きながら、声を上げた。
「頑張って下さい。」
「ありがとうございます。」
 2人は、一緒に頭を下げた。

 私の後ろで、1人また1人から、
「頑張って!」の声が飛んでいだ。
 体も心も、爽快な走りが続いた。

 ところが、思いのほか暑さを感じ始めた。
5キロと10キロの給水ポイントでは、
多めの水分を摂った。

 12キロを過ぎた辺りからだっただろうか、
異変を感じ始めた。
 いつもより汗がひどい。足が重たい。息が荒い。
ハイペースからか、暑さからか、
思うように足が進まない。

 疲れを感じる。
こんな体験は初めてだった。
 いつかペースが戻ると信じて、腕を振り続けた。

 残り5キロ付近まで来た時だ。
ランナーが一人、倒れていた。
人だかりができていた。
 大会スタッフが救急車を呼んでと叫んでいた。

 私は、安全走行に切り替えた。
制限時間内でのゴールインだけを目指した。

 競技場のトラックで、
エールを送った、あの視覚障害の方と伴走者に抜かれた。

 体調の良さを過信したこと、
気象条件を軽視したことを悔やんだ。
 走ることの難しさを、教えてもらった。


 3、11月の江東区

 大会の1週間前、
伊達で初めて風邪をひき、内科医へ行った。
 ハーフマラソンの予定を伝えると、
疲労感の少ない薬を処方してくれた。

 当日、ホテルで朝食をとりながら、迷った。
走るかどうかは、会場に行ってから決めることにした。
 それだけ、体調は万全でなかった。

 夢の島陸上競技場に着くと、
沢山のランナーと応援の人で熱気があった。
 心は決まった。
絶対に無理はしない。
完走が難しいようなら、途中で棄権する。
 そう自分に約束し、スタート位置に立った。

 沢山のランナーと一緒に走る魅力に負けた。
とにかく走りたかった。

 明治通りから永代橋通りへ曲がった。
沿道での応援が多くなった。
 『〇〇さん、ガンバレ』のプラカードが、
いくつもあった。
 そんな賑わいは、
参加した北海道の大会ではなかった。
 やっぱり、いい雰囲気だ。

 さて、若干話題が変わる。
沿道の人々は、それぞれ声援を送りながら、
ランナーの走りを見ている。

 ランナーはと言えば、
走りながら、声援を送る沿道の人たちを、
何気なく目で追っているのだ。

 この日は曇天だった。
ランナーの中には、
レース用の簡易ビニールカッパを着ている人がいた。

 その一人が、そのカッパを脱ぎ、
沿道にいた穏やかそうな中年男性に近づき、
「捨ててください。」と、頼んだ。

 「エッ。俺かよ。」
沿道の紳士は、不機嫌そうにそれを手にすると、
道路わきの生垣に、思いっきり投げ捨てた。

 カッパを渡したランナーは、
それを見たが、そのまま走っていった。
 すぐそばを走っていた私は、不快感を覚えた。
重たいものが胸に残ったまま、しばらく走り続けた。

 カッパを渡したランナーが悪い。
突然カッパを頼まれ、不快に思った方が悪い。
 甘えとも、不寛容ともとれる双方の行為に、
私は、走りながら堂々巡りをしていた。
 足取りも重くなった。

 それから、数分後、
「ガン、バレー! ガン、バレー!」
やや奇妙な抑揚の声が聞こえてきた。
 注意しながら、その声の沿道を見た。

 車いすには、厚手の毛布がかけられていた。
小旗を片手にした老婆は、
焦点の定まらない表情で、
くり返し声を張り上げていた。

 車いすの後ろでは、
50代かと思われる似た輪郭の女性が、
フェイスタオルで、何度も目頭を押さえ、
立っていた。

 この後は、私の想像を許してほしい。

 『母は病に倒れた。
その母が、沢山のランナーに夢中で声援を送っている。
 大きな声など、久しく聞いてなかった。
いつも「頑張って、頑張って」と言われる母が、
今日は、そう言って、精一杯声を張り上げている。
 それが嬉しい。涙があふれる。』

 その場を走りぬけてからも、
勝手に、しばらくそんな想像をしていた。
 そして、これまた勝手に心を温め、
その声援に応えて、走り続けた。

 沿道の2つの光景の順が、反対でなくてよかった。
その後の私は、気持ちのいいままで走った。
 万全でない体調だったが、無事ゴールした。

 苦しかった旭川に比べ、
走り切った心地よさが残った。

 迎えた家内に開口一番、
「楽しかった。」と笑顔を見せた。

 そして、ゴールしたランナーの晴れ晴れとした顔が、
そこにもここにも溢れていた。
「あぁ、この雰囲気が、好きだ!」

 次の大会は、来春、69歳になってから。




 我が家の玄関で来客を待つ、楽し気な二人

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