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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

‘23 もう1つの春 ~ お裾分け

2023-06-03 11:21:59 | 北の湘南・伊達
 ▼ 移住した年の夏、夕方。
花壇の様子を見ていた。
 やっと顔なじみになったご近所の奥さんが、
勤め帰りに通りがかった。

 挨拶を交わした後、世間話の途中で訊かれた。
「お主人のところ、キュウリ、
どうしてます?」。

 私にとって、その問いは理解不能。
違和感があった。
 「キュウリ、どうしてるって・・!」
返答に困っていると、奥さんは問いを重ねた。
「お店で、買ってるの?」
 当然ではないか。
家庭菜園でもしていない限り、
他にキュウリを手に入れる方法などないに決まっていた。

 不思議な表情のまま言った。
「はい、スーパーで買いますけど・・」。
 「そうよね。
でも、今日もらってきたのがあるの。
 少しあげるね」。

 奥さんは、腕にさげていたエコバックから
キュウリを3本取り出し、渡してくれた。
 これが、当地での初めてのお裾分けだった。
 
 ▼ 11年が過ぎた。
本格的な春を迎え、今年もご近所さんをはじめ、
親しくして下さる方々が、包みやレジ袋を持って、
インターホンを押してくれる。
 春と一緒に、お裾分けのシーズンがやってきた。

 最新では、6月1日の朝である。
まずは、地元紙の記事を紹介する。

 『 洞爺湖ヒメマス釣り解禁 
           ~ 朝日浴び 魚信待つ
 洞爺湖のヒメマスが1日、解禁された。
待ちわびた釣りファンらが夜明けとともにボートを繰り出し、
さおを振っている。
 初日は快晴に恵まれ、朝日を浴びながら静まり返った湖上で
当たりを探していた。
 ・・・・午前4時頃からボートが次々と出航し、
湖岸も、さおを降る人があちこちで見られた。
 辺りには鳥のさえずりと、リールを巻く音、
さおを振るヒュッという音のみが響いていた・・・ 』

 ▼ ここでは、ヒメマスをチップと呼ぶ人が多い。
解禁になった日の朝、8時半を回ってすぐだ。
 インターホンが鳴った。
急いで玄関ドアを開けた。

 一緒に自治会の役員をしているMさんだった。
レジ袋をかざし、
「チップだけど、今朝解禁で、
兄が釣って、持ってきてくれたから」と言う。

 袋をのぞくと、丸々と太ったヒメマスが2匹。
「どうやって食べると美味しいの?」。
 お礼よりも珍しい魚の調理方法が不安になった。

 「塩ふり焼きが美味しいと思います。
塩をふればすぐ焼けるように、腹を裁いておきましたから」。

 早朝から釣った解禁日の貴重な魚と、
調理まで気にかけた心遣いのお裾分けだった。
 ずっと心に残るに違いないと思いつつ、
Mさんの後ろ姿に、しばらく頭を下げた。

 夕飯の食卓に載った塩焼きは、
その美味に箸が進んだ。
 地元の人だからこそ知る旬の美食であった。

 ▼ 2月中旬、毎朝、積雪があった。
車道の除雪が進んでいなかった。
 その状況を見ておこうと、地域を歩いた。

 4,5年前から言葉を交わすようになったSさんが、
歩道と車道の間に雪山を作りながら、
雪かきをしていた。

 「毎日、よく降り続きますね。
お疲れ様です」。
 挨拶がわりに声をかけた。
「まったく、ここまで降ると雪かきが大変。
 すぐ疲れるし、休み休みやってるんだ」。
いつも元気そうな方なのに、返事に精彩がなかった。
 気になったが、踏み込むのを遠慮した。
「それはそれは、無理しないで、
ゆっくり頑張って下さい」。
 
 その後、運転する車から、
何度か、ご自宅前のSさんを見た。
 背が丸まり、同世代だが老けて見えた。

 そのSさんが、入院し手術をすると聞いたのは、
4月に入ってからだった。
 そこまで悪かったことに驚いた。

 しばらくして、買い物帰り、自宅前でタクシーを降りた奥さんに、
バッタリ出会った。
 丁度、桜が満開の道端で、入院や術後の経過を尋ねた。
   
 私たちと同じで、お子さんを東京に残し、
夫婦で移住してきていた。
 まだコロナ禍で、面会のできない時期が続いていた。
経過は順調のようだが、
奥さんはポツンと、退院できる日を待っているに違いなかった。

 そんな寂しさや不安を感じさせないよう
奥さんは気丈に明るく話した。
 それでも、長い長い立ち話の合間からは、
心情が伝わってきた。
 もっぱら、うなずきながらの聞き役だった私は、
最後に「奥さんも、頑張って」と心を込めた。

 それから約1ヶ月。
奥さんが、新聞紙にくるんだものを抱えてインターホンを押した。
 家内が、玄関に出た。
話し声が聞こえた。

 「主人、退院しました。
昨日、庭のウドが伸びていたから、2人で採りました。
 食べて欲しくて・・・」。

 外を見ると、車が止まっていた。
運転席には、ご主人がいた。

 奥さんと家内を残し、玄関を出た。
私の姿を見たご主人は車を出て、迎えてくれた。
 思いのほか、顔色はよかった。

 「いやあ、元気そうで何より!」。
いつもの笑顔だった。
 私は、あまりのうれしさにご主人の両肩に手を伸ばした。
しかし、病後、その肩は、肉が落ち小さかった。
 一瞬、言葉を失った。

 夕食には、ウドの酢味噌和えがあった。
家庭菜園のウドを2人で収穫する姿が目に浮かんだ。
 春の味覚が、さらに味わい深いものになった。
歳のせいか、少々目元が緩んだ。 




  はじめて! トチノキの花 ~歴史の杜公園
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晴れたり曇ったり その9 <2話>

2023-05-06 12:43:35 | 北の湘南・伊達
 ① 年に4,5回、私のエッセイが、
土曜日の室蘭民報文化欄に載る。
 同じページに、『北の岬』と題する
小さな投稿エッセイ欄があった。

 先週、その欄に伊達市在住の方が
想いを寄せていた。
 全文を転記する。

  *     *     *     *     *

     伊達への思い
                山口  悟巳

 伊達に引っ越して早10年になる。

 あの日銀行は混んでいてATMも並んでいた。
やっと自分の番がくると前の人がお釣りを取り忘れていた。
 急いで外まで追いかけて渡した。
また並ぶのかとあきらめてゆっくり歩いて戻ると、
列はそのままでどうぞと手招きしている。
 えっどうも頭をさげ手続きを終えた。
こりゃずい分道徳観の高いところに来たと思った。
 忘れられない出来事である。

 街はいたって穏やかで気取った感じがない。
一両列車、近所からの差し入れ、
星座がわかる、以前の生活にはなかったことだ。
 近年は雪が増え、カラスが逃げなくなり、
デコが広くなった。

 仕事の方は運よく当直員になり
今は営繕をしている。
 働きたくてもそれがかなわない人も大勢いるのに、
毎日出勤できるのはたいへんありがたいことだ。

 階段をモップでふきながら登っていく。
顔見知りの人には「暖かくなりましたね。」と
たわいないあいさつ。
 どうでもいい話ができる人は
どうでもいい人ではないのだ。

 職場の悩みのほとんどは人間関係だろう。
いろんな人がいると割り切り、
都合の悪い事には鈍感になる。
 ミスしてまわりに笑われたら
自分も一緒に笑えたらいい。

 上の階に行く程景色が広がり
思わず見入ってしまう。
 山が笑っている。
また春を迎えられた。
 ありがとう。

  *     *     *     *     *

 先の市長選挙で、6期24年勤めた市長から
後継指名を受けた候補者が大差で落選した。
 市民の審判である。
特段の感想はない。

 しかし、落選した候補者が選挙期間中に演説した内容を
新聞記事で読んだ。
 いつまでも心に残っているフレーズがある。

 彼は、20数年前に伊達で暮らし始めた。
そのような人を『風の人』と称した。
 そして、この地で生まれ暮らし続けている人を『土の人』と。
『風の人』と『土の人』が一緒になって、
風土はできると力説したのだ。

 すると『伊達への思い』の筆者・山口さんも私も「風の人」だ。
「風の人」同士だからか、
山口さんのひと言ひと言が私の想いと重り、浸みた。

 『ずい分道徳観の高いところに来た』
『街はいたって穏やかで気取った感じがない』
と、人と環境に好印象を抱いた。
 
 日々の暮らしについては、
『運よく‥働きたくてもそれがかなわない人も大勢いるのに‥』
と、幸運に恵まれていることを感謝している。

 『どうでもいい話ができる人はどうでもいい人ではない』、
『ミスしてまわりに笑われたら自分も一緒に笑えたらいい』
と、日常にある宝物を拾う日々が続く。 
 
 山口さんは、『上の階に行く程景色が広がり思わず見入ってしまう』と言う。
私は今、次々と春を知らせる草木の開花と若葉の緑に見入っている。
 そして、『山が笑っている』と私も春を迎えた。


 ② 1月末までの約1年半もの間、
長きにわたって歯科医院通いをしていた。

 通院の頻度は、その時々によって違ったが、
月1回から3回だったから、相当の回数になった。

 市内には、10数軒の歯科医院がある。
どこも駐車場があった。
 だから、それが医院選びの決め手にはならなかった。

 ネットで検索をした。
私が選んだ医院のホームページには、
『安心して治療を受けていただくために
ワンランク上の診断と治療』とあった。
 そのうたい文句に惹かれた。

 初診の時、医師は私の願いに、
熱心に耳を傾けてくれた。
 その後、レントゲンやCT、写真撮影などの予定を立て、
2,3回の通院に分け、念入りに口腔内検査をした。

 そして、難しい治療になりそうなのでと注釈を入れて、
「今月、札幌で学会があります。
その時、いつも指導頂いている大学の専門医に、
治療プランのアドバイスをもらってきます」
と告げた。

 1ヶ月後、医師から時間をかけて、
治療方法と治療費の説明を受けた。
 「この治療のやり方がベストです」と言い切られ、
承諾するしかなかった。

 毎回、言われるままに治療台に上った。
言われるままに口を開け、口をゆすいだ。
 それが終わったら会計をし、
次の予約をして、帰宅した。

 ほとんどの日、医師は患者の掛け持ちをしていた。
私の治療が一区切りすると、もう1人の治療に行った。
 それが終わると再び私の治療を始めた。

 治療台に横になったまま、かなり待たされる日もあった。
50代と思われる医師は、丁寧な口調の方で腰も低かった。
 それでいて、あっちの治療台、
こっちの私の台と忙しく動き回り。
 その都度、サンダルで小走りする足音が行ったり来たり。

 私の台に来ると「お待たせしました」と、
柔らかい声で決めぜりふを言う。
 若干の怒りも、あのパタパタパタの足音と声で、
つい飲み込んでしまった。

 治療の最終段階は、医師のこだわりもあったようで、
微調整のくり返しが、数回続いた。
 「先生、何度同じ事をするんですか。
もうその辺でいいですよ」を、
2度3度と我慢した。

 そして、ついに最後の治療日だった。
ほっと胸を撫で下ろし、治療台から降りようとした私に、
医師が遠慮がちに言った。

 「もしよければ、私とのツーショット写真を撮らせて下さい」。
「エッ、先生との写真ですか」。
 「はい、記念にお願いできませんか。
よろしいですか?」。
 ノーとは言えなかった。
「時々、患者さんと一緒にこうして写真を撮るんです」。
 いつもより明るい声だった

 治療台の背もたれを起こした私と、
その横で腰掛けに座る医師。
 2人の笑顔は、どんな写真だったか知らない。

 でも、カメラに向かい嬉しそうな医師の横顔を一瞬盗み見た。
いい医師に出会ったんだと実感した。
 私もとびっきりの笑顔でカメラを見た。




    路傍に増える ムスカリ
                 ※次回のブログ更新予定は5月20日(土)です
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私にできることって・・?

2023-04-29 14:51:18 | 北の湘南・伊達
 ▼ 「私は大変興味を持ったのですが、
もしかしたら、何の役にも立たない情報かも知れません。
 少しだけ時間をください。」

 先日、全役員を対象にした自治会の会議があった。
自治会長として初めて挨拶に立った。
 途中から切り出した言葉が、冒頭の一文である。

 私が居住する地元自治会は、加入世帯が820世帯である。
市内では、大きな自治会の1つで、
出席を求めた役員の数は75人にもなった。
 今回はその内の約50人が出席した。
思い出すまま、話の内容を再現してみる。
 
 ▼ 4月9日は総会で、私が会長に選任された日です。
たまたまその日、朝日新聞と北海道新聞の2紙に、
自治会活動に関する同じ内容の記事が載っていました。
 今日は、その記事を切り取って持ってきました。
まず、その記事を紹介します。

 朝日新聞のそれは、なんと1面のトップ記事でした。
驚きました。
 大見出しは、「自治会活動 曲がり角」です。
そして、小見出しが2つ。
 「加入率低下、役員高齢化 解散も」
「防災・防犯に懸念」です。

 記事の書き出しはこうです。
『自治会(町内会)の活動が岐路に立たされている。
 加入率が下がり、役員のなり手がいなくて解散や
合併を選択するところも。
 地域コミュニティーを、誰がどう支えていけばいいのか。』

 東京都内の某自治会を取り上げた記事を読み進むと、
『役員の多くは70~80代。
役員になりたくないと退会する人もいて、
なり手がおらず、同じ人が続けるしかない」
と、ありました。  

 そして、こんな一文も。
『総務省の調査によると‥加入率は、
10年度の78,0%から20年度は71,7%に減った。
 自治会の課題として「役員・運営の担い手不足」(86,1%)、
「役員の高齢化」(82,81%)などが上位に上がっている』と。

 続いて、同じ日の北海道新聞の胆振版ですが、
『人口減・高齢化 地域の衰退が深刻化』の見出しと一緒に
『町会維持に影 消滅続出の懸念』の小見出しがありました。
 そこには、なんと91歳になる町会長さんが紹介されていました。
 
 その会長さんは、
「私や副会長の後継者が見つからず困り果てた」と言い、
4月の改選を前に後任は見つからず、
「会が無くなれば先輩方に申し訳ない」と、
続投を考えていると言うのです。

 さらに、この記事は、自治会の今後についてこう解説していました。
『定年延長や年金減額で60歳以降も働く人が増え、
役員のなり手不足はより深刻になる』と。

 さて、このような状況下について、
私たち自治会はどうなのでしょうか。
 まず加入率の現状ですが、76,76%です。
この5年間、加入世帯数が横ばいですから、
加入率に大きな変動はないと言えます。

 この比率がいいのかどうかですが、
同じ規模の近隣自治会を調べてみました。
 A自治会は65,38%、B自治会は58,65%でした。
私たちの自治会の加入率はきわめて高いのです。
 また、記事にありました全国平均71,7%も上回っています。
この水準を、今後も維持していけたらいいと、
若干ホッとしました。

 もう1つの役員の高齢化についてはどうかです。
今年度の役員改選にあたり、各ブロックの会長・副会長、
総務が、今日ご出席の皆さんに役員の依頼に伺いました。

 その折りに、頂いたお返事としてしばしばお聞きしたのは、
「もう歳だから、でももう少しがんばります」の声でした。
 時には「2年後には、誰か新しい人と代わってほしい」
の念押しもありました。

 役員高齢化の波は、私たち自治会にも間違いなく押し寄せているのです。
これは、人ごとではありません。
 新聞の2つの記事を読みながら、
そんなに遅くない時期に曲がり角がやってくる。
 いや、もしかしたら私たち自治会も、
もう曲がり角なのかも知れないと感じた次第です。
 
 しかし、地域の環境美化を始め、
気候変動や有珠山の噴火に対する防災、
昨今の高齢者を狙った詐欺や強盗への防犯など、
少しでも居心地のいい安全安心な街は、私たち誰もが望むことです。

 そんな街づくりの一端は、そこに暮らす私たちによる自治組織が担っています。
行政や警察だけに任せていては、実現しないことです。
 自治会は、暮らしに欠かせないものなのです。

 だから、加入率低下と役員高齢化と言う課題に、
今後どう応じていくのか。
 皆さんと一緒に色々と知恵を出し合い、
なんとかこの課題をクリアーしたいと思っています。

 長々とお喋りしてしまいました。
失礼致しました。

 ▼ 自治会の今後について、私の想いを話し終えた後、
どれだけ心に届いたか不安になった。
 でも「声にしない訳にはいかなかったことだったから」と、
自分を納得させた。

 さてさて、「今後私にできることって何?」。
引き受けた重責にやや心を重くしながら、
帰り支度を始めた。

 「もっと気楽にやっていいんじゃない」。
私の肩をポンと叩き、会場を後にした方がいた。
 思わず「ありがとう!」と、その背中を見た。

 
 

     ジューンベリー 開花宣言
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「また来年 必ず走りに・・」

2023-04-22 10:29:54 | 北の湘南・伊達
 日曜日に『第36回伊達ハーフマラソン』があった。
コロナ禍で2年連続で中止になったが、昨年に続き開催された。

 しかし、以前とは若干様相が違う。
昨年はハーフのみ、今年はハーフと10キロで、
5キロがなくなった。
 しかも、今年はコースが変更に。
私見だが、走りながら目に入る伊達らしい景観が減り、
若干魅力が欠けてしまった気がする。

 この大会に私は過去6回エントリーした。
5キロ1回、10キロ1回、ハーフ3回、完走した。
 ハーフで1回、途中棄権がある。

 なのに、昨年今年と連続してエントリーを見送った。
特に、今年は左膝の状態が思わしくなく、
迷うこともなく、ハナから諦めた。

 当日は、雨模様の上、気温が低くかった。
ご近所で10キロにエントリーした方も、
「寒いから」と出場を取りやめた。

 しかし、ハーフに約1300人、10キロに約700人が走った。
コース変更で、我が家横の『嘉右衛門坂通り』が、
10キロの往復とハーフの復路になっていた。

 実は、出発の花火が鳴るまで、沿道で応援する気などなかった。
しかし、花火の炸裂音が上空に轟くと、
小雨の中、走り出したランナーの姿が脳裏に浮かんだ。

 突然、心変わりした。
「この悪天候の中、果敢にチャレンジするのだ」。
 自分のペースをしっかりと刻み、淡々と走り続けた経験者として、
こんな時こそ沿道での声援が力になると思った。

 急いで防寒対策をし、『嘉右衛門坂通り』に立った。
幸い空を覆った低い雲から雨は上がっていた。

 そこを次々とレインウエアーの10キロランナーが走り抜けていった。
鍛えぬかれたアスリートランナーらの後ろから、
市民ランナーが、走り始めて1キロ余りの緩い上り坂を、
荒い息で通った。

 家内と私だけの沿道で、手を叩きながら、
「頑張って! 頑張って!」と言い続けた。
 全員が通り過ぎると、今度はハーフのコースへ移動した。

 同じように声援を送っていると、
何年も前に一緒に練習したことのあるランナーが、
1人2人と私を見つけ、コースから明るく手を振ってくれた。
 嬉しくなったのは私の方で、やや不思議な気持ちになった。

 さて、声援も後半のことだ。
ちょっとしたドラマがあった。
 それはレースも最終が近づいていた頃だ。

 10キロとハーフのランナーが、
一緒になってゴールを目指していた。
 私は、拍手をしながら声を張り上げていた。

 「ゴールまで残り1キロです!
後一息、頑張って!」。
 遅いランナーほど、苦しい表情をしていた。
その一人一人を見て、同じ声援をくり返した。

 その声援に、大きくうなづく人。
笑顔を返してくれる人。
 手を挙げて答える人。
苦しいのに「ありがとう」という人。
 長い時間、声援を続けたが、報われた思いがした。

 そんな時、10キロの男性ランナー1人が、
コースの車道ではなく、歩道を弱々しく歩きながら、
私の後ろを通った。

 そして、すぐ横のブロック塀に手をかけ、立ち止まった。
表情がくもり、苦しそうだった。
 放っておけなかった。

 「大丈夫ですか?
車でゴールまで送りましょうか?」
 近づいて声をかけた。
同世代の初老だった。
 「ゴールまでどのくらいですか?」
「まだ1キロはあります」。
 彼は、答えに迷っているようだった。

 「そこに駐車してあるのが私の車です。
車のところまで歩けますか?
 すぐにキーを持ってきます。
その前で待っていて下さい」。

 なかば強制的だったが、
家に入りキーを持って出ると、
彼は、車の前に座り込んでいた。
 
 ゆっくり助手席に移ると、
「助かりました」と頭をさげた。
 「ゴール近くまで送りますね」。

 慎重に車を発進させた。
すると彼はゆっくりと話し始めた。

 函館から参加しました。
函館マラソンも走った経験があります。
 コロナで大会がなかったこともあり、
マラソン大会は6年ぶりの出場でした。
 半年前からこの大会の10キロのために、
トレーニングをしてきました。
 調子がよかったので、今日は自信があったのですが、
なのに折り返してからおかしくなってしまいました。
 ついには6キロからもう走れなくなり歩いてしまいました。

 彼の1つ1つの話に、私は「そうでしたか」と
相づちをうちながら、無念さに共感していた。

 マラソン会場が近づき、
車を止め、そこから先の道案内をした。
 彼は、車を降りながら帽子を取って言った。

 「ご親切にお礼を申し上げます。
私はYと言います。
 素晴らしいこの街に、また来年必ず走りにきます。
今度こそ完走します。
 ありがとうございました」。 

 勢いよくドアを閉めようとする彼に、
私は思わず訊いた。
 「あのー、お幾つになられましたか?」。

 はっきりとした声が返ってきた。
「79才になりました」。
 バターンとドアが閉まった。
急に胸が熱くなった。

 一礼し車を見送る彼に、
ハンドルを握ったまま、小さく呟いた。
 「負けられない! 見ていろ、来年!
必ず、私も!」。
 また、チャレンジャーになっていた。




     エゾムラサキツツジ 満開!
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近所の子 やり取り2つ

2023-04-08 10:46:03 | 北の湘南・伊達
 新学期が始まった。
初日の朝は小雨模様だった。
 それでも、登校する子ども達に、
ひと声かけたくて自宅前まで出てみた。

 100メートル程先の十字路で、
黄色い旗を振る雨合羽の男性がいた。
 登校日には欠かさず、
子どもの見守りをしてくださっているのだ。
 
 今年度も自発的にお2人の方が、
いつもの場所で続けてくれるようだ。
 何歳も年上だが、私にはできない献身である。
ただただ頭が下がる。

 さて、その黄色い旗の前を通る近所の子どもだが、
この冬にあったやり取りを2つ記す。


 ① 冬至が近づいていた頃のことだ。
3時半をまわると、まもなく黄昏時になる時季のこと。
 その日は曇り空で、外は冷え込み始めていた。

 何気なく2階の窓辺に立つと、
見慣れた少年がランドセルを背負ったまま、
自分の家の玄関前に屈んでいた。
 家の人と待ち合わせをしているのだろうと、
気にも止めなかった。

 ところが、10分が過ぎただろうか、
買い物から戻った家内が、
「私が出かけたときから、
ずっとあの玄関前にいるんだけど・・」
と言う。
 もう、30分以上も外に座っていることになる。
急に心配になった。
 
 最初は、家内が声をかけに行った。
答えは、
「今日はカギがない。
 だから、誰か戻ってくるまで待っている。
大丈夫です!」だった。
 少年は高学年になり、体ががっしりしてきた。
そう言うのならと、静観することに・・。

 それからまた30分程が過ぎた。
薄暗くなってきた。
 今度は、私が声かけに行った。
「寒くなってきたから、私の家で待つことにしよう」。
 しかし、少年は「大丈夫です!」の一点張り・・。
ここで家族の帰りを待つとくり返すばかり。

 「じゃ、ホッカイロでも背中に貼ろうか?」
私のこの提案には、素直にうなずいた。

 「風邪でもひいたら大変!」。
走って自宅から使い捨てカイロを握って戻った。
 そこに、ご近所の奥さんが走り寄ってきた。
「今、お婆ちゃんに電話したから、
もうすぐ迎えにくるからね」。

 「よかった。助かったね」。
そう安堵する私から、少年はカイロを受け取ると、
急いで背中に貼ろうとした。
 よほど寒かったのだ。
「ここまで、よく頑張った!」。
 そう思いながら、カイロを貼る手助けをした。

 さほど時間をおかずに、お婆ちゃんが駆けつけた。
どうやら待ち合わせの約束に行き違いがあったらしい。
 お婆ちゃんは、私にもご近所の奥さんにも、
「ご迷惑をかけて」と恐縮した。

 私は、明るい声で応じた。
「なかなかですよ。
この子、根性ありますよ。
 何を言っても、ここにいる。
大丈夫ですって言い続けたんですよ。
 大した根性ですよ。
立派!」。

 数日後、両親からもお礼を言われた。
私は、同じように「根性ありますよ!」をくり返した。
 私なりの褒め言葉のつもりだった。
きっと両親は、そのまま受け取ってくれたと思う。


 ② 地元新聞に、賞状を両手で持った
見慣れた顔の少年の写真が載っていた。

 道産食材の美味しさをアピールするポスターコンクールで、
最優秀賞を貰ったと言う記事だった。

 美味しさが伝わるよう口をいっぱいに開けた子の嬉しそうな顔が、
画用紙から飛び出しそうに描かれた絵の写真も、一緒に紙面にあった。

 出来上がったポスターがよくできていたので、
お母さんが応募先を探してエントリ-したと、
記事には加えられていた。

 我が子の秀作を認めてもらおうと、
応募した母親の行動にも心打たれた。

 その子は、ご近所の2年生で、
毎朝、お兄ちゃんらと一緒に我が家の前を通って、
登校していた。
 記事を見て、いつかお祝いのひと言を伝えたくなった。

 朝の雪かきが続いていた。
登校時間と私の雪かきが重なった日だった。

 厚手のスキーウエアにニット帽で、
その子は3つ年上のお兄ちゃんとやってきた。

 私はいい機会だと思い、雪かきの手を止め声をかけた。
「この前、新聞で見たよ。
美味しそうなポスターでした。
 最優秀賞、おめでとう!
すごいね」。
 その子は、少し照れながらニット帽をとって、
うれしそうに「ありがとうございます」と微笑んだ。

 てっきり、横にいるお兄ちゃんも笑顔かと思った。
ところが、無言でさっと弟から離れ、足早に先を急いでいた。
 いつものやさしいお兄ちゃんじゃないような気がした。
違和感があった。

 突然、実に独りよがりな私の連想が始まった。
『弟は、1年生の時も地元紙に載った。
 その時は作文コンクールでの受賞だった。
今と同じように、登校時にお祝いを言った。
 弟は2度も受賞し、新聞に載った。
きっと、兄は複雑な気持ちになっているに違いない』。
 2人の後ろ姿を見ながら、勝手に切なくなった。

 ところが、弟の後ろ姿は小走りで兄を追った。
兄は一瞬立ち止まり、近づいた弟の肩に手をやった。
 何やらうれしそうに話しかけ、
それに弟は大きくうなずいていた。

 「とんだ思いすごしだ!」。
私の愚かさを笑いながら、再び雪かきを続けた。 

  


   エゾノリュウキンカ ~だて歴史の杜『野草園』
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