三菱自動車は1977年いっぱいで公式なラリー活動を一時休止し、排気ガス浄化技術の開発に取り組んでいたが、一方でラリー活動再開に向けての動きも進められていた。そして79年11月の東京モーターショーで、1台のラリーカープロトタイプを発表する。それが、ランサーEX2000ターボであった。グループ4規定に則って開発され、4G63型エンジンには電子制御式燃料噴射装置を組み込み、81年のデビュー時点で250PSを発揮した。
1981年、三菱自動車は新たにチームラリーアートというエントラント名で2台のランサーEX2000ターボを6月のアクロポリス(ギリシャ)へと送り込んだ。ここに、晴れて3年半ぶりの国際ラリー復帰を果たしたのである。この年は最終戦RAC(英国)での9位が最上位となった。この戦績を受け、三菱自動車は82年前半のWRC出場計画を取りやめ、活動体制見直しと車両の再開発に取り組むことを決定。オーストリアで行っていた開発と製作を日本で行い、三菱自動車のエンジニアが積極的に加わる体制としたのである。開発努力の結果、久々の実戦を迎えた8月の1000湖ラリー(フィンランド)では総合3位に入賞。しかし、3位のグループ4ランサーEX2000ターボと、1-2フィニッシュを果たした4WDターボのアウディ・クアトロとの差は4分以上。開発チームは、2WDラリーカーにこれ以上の戦闘力を求めることは技術的に難しく、新型4WDラリーカーが必要であることを痛感することとなった。新たな車両規定であるグループN、グループA、そしてグループBが本格導入された83年は1000湖ラリーとRACの2戦に出場したが、いずれもトラブルでリタイア。こうしてグループ4ランサーEX2000ターボのワークスカーは表舞台を去っていった。
一方、愛知県岡崎市の乗用車技術センターに置かれた研究部は、先行研究の一環としてグループB規定に合わせたスタリオン4WDラリーの開発を進めていた。三菱自動車は、83年11月の東京モーターショーにおいて、そのプロトタイプを発表する。初の実戦は84年8月のミルピストラリー(フランス)。サスペンショントラブルを乗り越えクラス優勝という結果を手に入れた。RACにも出場し、これらのテストを通じてスタリオン4WDは所期の目標水準に仕上がっていった。グループB公認取得のため、市販車の開発を進めていた85年、旋回性能の向上を狙って新たなセンターディファレンシャル方式を導入しマレーシアラリーのSクラスに出場したが、エンジンのオーバーヒートによりリタイアを喫してしまった。そして86年5月、第5戦ツール・ド・コルス(フランス)でのランチアの事故を受け、86年限りでグループBは終焉を迎えることとなり、三菱自動車初の4WDラリーカー、スタリオン4WDターボによるWRC出場計画は完全に破棄されることになった。WRCへのワークス出場は叶わなかったが、スタリオン4WDターボが後の三菱自動車の4WDターボカー開発の礎となる役割を果たしたことは間違いない。なお、スタリオン4WDターボはプロトタイプ車両が参戦できる香港~北京ラリーに86年、87年の2度参戦、86年には、同車の最上位成績となる総合2位を獲得している。