いるま・風の善さん

中高年オジンの趣味と遊びの日記です。

歴史講演会聴講(比企城館跡群と松山城)

2013年07月06日 | 講演会

武蔵国地域での中世城郭研究の第一人者である「梅沢太久夫」先生(元嵐山史跡の博物館館長)による、歴史講演会があったので聴講しました。


 最近は「県立嵐山史跡の博物館」へ行く機会も少なくなり、久しぶりに梅沢先生の講演会があるということで、川越学舎会員の先輩に誘われて、会場の川越市中央公民館へ行ってきたのです。


比企地域には、69箇所の城館跡が確認されており、多くが15世紀から16世紀にかけて築かれた。このうち保存状態の良好な「菅谷館跡・松山城跡・杉山城跡・小倉城跡」が「比企城館跡群」として平成20年3月に国指定史跡となった。



(比企地域を中心とした城郭分布図)


15世紀後半将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏とが対立した合戦が各地におこり、戦国時代に突入した。特に山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の戦いでは比企地域が主な戦場となり、鉢形城・河越城・菅谷館・杉山城などが拠点になった。(博物館パンフレットによる)


 菅谷館跡(すがややかたあと)は、鎌倉時代の有力御家人であった畠山重忠が居住していたと伝えられている。これまでに5回におよぶ発掘調査が行われてきたが、重忠時代の遺構は発見されていない。



〔菅谷館跡パンフレット〕都幾川(ときがわ)と槻川(つきがわ)の合流地点を臨む台地上にある。現在の土塁や堀などは戦国時代の遺構で北東の一角に県立博物館がある。


松山城跡は比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城で、15世紀中頃、古河公方足利氏・扇谷上杉氏と山内上杉氏との軍事的緊張関係の中で築城されたといわれている。河越野戦後、後北条氏の支配下におかれ、天昇18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めによって落城した。



〔松山城跡パンフレット〕城は丘陵の先端に築かれ、三方を市野川が囲み、その流域には広大な湿地が広がっている。写真左上には、古代の横穴墳「吉見の百穴」が残る。


 杉山城跡は鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に築かれ、傾斜の急な切岸、大規模な横堀と枡形虎口や馬出部などを複合的に持ち、戦国期城郭の傑作の一つと高い評価を得ている。



〔杉山城跡パンフレット〕近年の発掘調査により、多くの遺構が発掘されている。


 小倉城跡は、戦国時代の関東の城ではまれな石垣を随所に築いている城として特徴がある。


 


〔小倉城跡パンフレット〕槻川が大きく屈曲する場所に張り出す丘陵上に築城されている。


比企地域は戦国期に関東の主要な合戦が繰り広げられた地域であり、多くの山城や砦の遺構が確認されているのです。



(講演会の梅沢太久夫先生)


予定時間を30分も超過しての、講演会でした。(奈良大OBの方々5名と昼食を食べて帰りました)


なお、梅沢先生の近刊図書『松山城合戦ー戦国合戦の虚と実を探る』(2012.1まつやま書房) を分けていただいたので、勉強しようと思っています。


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2 コメント

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暑中お見舞い申し上げます。 (m.o)
2013-07-09 22:14:44
ゴルフ三昧かと、思いきや、しっかりお勉強も
していますね。
そう言う、わたくしめも、満願寺調査が、ほぼ終了。
入間では、お世話になりました。

地元の歴史研究。未完の完成冊子が、完成いたしました。
機会がありましたら、読んでください。
向暑の折、お体ご自愛ください。
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m,oさんへ ()
2013-07-11 09:04:41
 歴史講座、お勉強。
地元の歴史研究は少ない資料から大変ですね。
後世のためにも記録として残しておきたいものです。
私の近くにも、廃寺が2寺あったようですが特に歴史に残る物件ではないようです。
二本木宿(日光脇往還道)の浄珍寺跡・地福寺跡などです。
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