直木三十五記念館の日々

直木賞にその名を残す直木三十五の記念館は市民参加型のミュージアム。運営の悪戦苦闘をストレートにお伝えします。

矢野橋村のこと

2007年08月07日 | Weblog
 昨日、愛媛からわざわざ記念館にお越しの方からお電話をいただく。二点お調べのことがあって記念館に来たとおっしゃる。
 一点は正岡子規のことで、子規は直木と同様に脊椎カリエスに罹り死んだのであるが、直木は子規とおなじ柴医師に診断されていたのでその辺りのことを調べたいとのこと。直木の病床の状況について詳しい記述はないかとのお問い合わせ。植村清二氏の文書を紹介する。
 二点目は南画家である矢野橋村のこと、矢野橋村について詳しい人を紹介して欲しいとのことで枚方市立御殿山美術センターを紹介するが、すでにそこには接触したとのことなので、大阪市立美術館に橋村の作品が常設されているので、それではそちらに問い合わせてみればと申し上げる。加えてなぜ矢野橋村が度々直木三十五作品の挿絵を描いているのかということであったので、大阪美術学校の設立に直木が尽力したことや、主潮での関係や中之島での文化講演会の実施などで橋村を支えたことへの恩義であろうと説明する。
 橋村と直木の関係、あるいは大阪美術学校については私も研究テーマとしては大変興味が深いが、中々客観的な資料を目にすることが少ない。私は前々から冬夏社での使い込みは単に御茶屋での放蕩だけではなく、主潮あるいは大阪美術学校の設立に一部資金を流用したのではないかと推理している。何か根拠があるわけでないが、全くの荒唐無稽な邪推でもないように思う。勿論この話しも私の勝手な推測として紹介した。